旅行警告-インドネシア、合衆国国務省、2003年4月10日。
当旅行警告は合衆国市民に対し、インドネシアにおいて進行中の治安悪化を知らしめることを目的に発されたものである。… 合衆国公的機関の防衛対策を受けて、テロリストは民間の標的を探索中である。特にホテル、クラブ、レストラン、宗教施設、屋外で行なわれる娯楽イベント等の、アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような施設がそれらに含まれているといってよいだろう。… この旅行警告を知ってなおインドネシアに旅行または、居住するアメリカ人は低姿勢を保つこと。必要な旅行の時間と路線に変化を持たせ、自らが置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。… ほぼ何の前触れもなく暴力と不穏な情勢が巻き起こる可能性がある。テロ行為を含む脅威は、ジャカルタ、ジョクジャカルタ、スラバヤ、カリマンタン、スラウェシなどの広範な地域に存在している。
国務省によるこの旅行警告にもかかわらず、夫と私はジャワへと飛んだ。それは、バリのクタビーチにおける二〇〇二年十月の爆破事件の二,三ヵ月後であり、アメリカ軍のイラク侵攻の二、三ヵ月前のことであった。ジョクジャカルタにおいて、彼は教鞭をとり、私は編集作業を行なう予定であった。前述の勧告は情勢の不穏、背後に控える脅威、また何らかの事件の勃発にまで言及していた。しかし、「アメリカ人が居住、集合、訪問を行なうような」場所を探すテロリストは、ジョクジャでは困難を味わうだろうということがすぐにわかった。というのも、お目当てのアメリカ人は、ごく僅かしかみつからないのである。土産物、銀製品、バティックの店、ペーパーバック古書店、旅行代理店、欧米の旅行者向けのレストランは殆ど空の状態だった。プラウィロタマンやソスロウィジャヤンの近郊にある旅行者向けの店には活気がなかった。しかし旅行産業が活気を失っている一方で、インドネシア人の輸入品に対する嗜好に応える欧米系の店舗は賑わいをみせていた。カリウラン通りの豪華でガラス張りのケンタッキーフライドチキンやその向かいのダンキンドーナツ、記念碑脇にあるピザハット、喧騒に包まれたマリオボロモールのウェンディーズ、マクドナルド、テキサスチキンに爆弾を仕掛けたとしても、犠牲者は十代二十代のジャワ人中産階級であるのに違いない。
ジョクジャカルタの私たちは、丸い地球の上で出来得る限り故郷を遠く離れていた。ニューヨークの午前八時はジャワの午後八時だ。私たちにとってここはエキゾチックな場所であり、果物や自然環境は一見したところ学部時代に読んだ海洋小説の中に見覚えがあった。ジョクジャ北部には活火山のグヌンムラピがそびえ立っていた。標高は約三〇〇〇メートルの孤高の山は、常に白い雲を頂上にたなびかせていた。その輪郭は、子供の描く山の絵のように簡略で、周りに従える者もなく、山陰は空の青より濃かった。ムラピは殆どいつも全く姿を隠しているのだが、これは火山の習いとして雲に包まれているのに過ぎない。ジャワを越えてバリやロンボクへ飛ぶ旅行者は、雲間から、また晴れていれば大地からそびえる火山をそこここに見つけることが出来る。
私たちは青い火山に魅せられたが、押さえ込まれた脅威の象徴としてではなく、まるでその山がおとぎ話そのもののように見えたからである。そこである日私たちはバイクを北に走らせ、ムラピの裾野にあたるカリウランに向かった。カリウランは緑が濃く、標高の高い比較的気候の涼しい場所であった。その街は貧しく、週末旅行者(ウィスマス)用の柱がむき出しの住居が点在していた。そのうちのいくつかは、アイルルパナス(温水)使用可の部屋があることを宣伝していた。私たちは国立公園の入り口を見つけ、森の中にある展望台に向かって登っていったが、そこでもまだ雲しか眺めることができなかった。火山はまだ私達の眼前に現れず、頭上高くにあるようだった。
展望台で、私たちは三人の人間に出会った。上着を着ていない二人の男性と、もう一人の女性はインドネシア人で、英語を話す者はいなかった。私たちが姿を現すと、二人の男性のうち背の高い方が、何事か叫びながらやって来て、ダリマナ?と訊ねた。私達がカミ ダリアメリカ、私たちはアメリカ人だと答えると、彼は何かペラン、「戦争」に関することを大声で語った。この単語については、私は週の初めに辞書の中から既に拾い出してあった。この日は三月二十六日、アメリカ合衆国がイラクへの爆撃を開始した六日後であった。
たどたどしい言葉での会話が続いたが、夫も私も「戦争は良くない」ペランティダクバグスという私たちにとっての決まり文句を申し出た。そしてアール・ゴアがどんな人物か説明しようと試み、私たちは彼に投票したのだと語った。しかしこれらの言葉は、あるいはアルゴアという単語は、私達の耳にすら薄っぺらなものに響いた。私達はニューヨーク州にある小さな街からやって来て、そこはニューヨーク市とは違う場所であることを説明するため、ここがカリフォルニア、ここがテキサスと、そう役に立つとは思えない地図を地面に描いた。男性は、自分は貧しい人間(ミスキン)で三十八歳だが家は無い、アメリカに行きたいので連れて行ってくれないか、と言って笑った。
私達は女性から二本のソフトドリンクを買った。彼女は売り子で、細い筋肉質の脚をしてゴムサンダルを履いていた。ソーダ水と水の壜を並べた箱を布製の紐で背中に吊り下げて、険しい山道を運んできていた。男たちが笑ったので、私達は彼女が高値を吹っかけたことに気づいた。が、私達は喜んで高値を吹っかけられるという基本方針を立てていた。もちろん限度はあるが、これは国際交易に対するささやかな私達の良心だった。
山上の三人に別れを告げると、私達はカリウランの街を散策した。百日草に似た花、間違いなくバラだと言える花、彩色された家々、雄鶏、不思議なほど性質の良い犬、有刺鉄線に囲まれ、夢の中で見かけるような古びた地元の運動場、しっかりした門扉の背後に建っている、見るからに宿泊客のいなそうなタイル張りの屋根をした公共宿泊施設などが目に入った。宿泊するホテルの裏手近くで、子供たちが私達のピンク色の顔、黒くない髪を見ながら「ハロー、ハロー!」と英語で叫んだ。車に乗った一人の母親がクラクションを鳴らしたので、私達は彼女の子供に向かって手を振り、「ハロー!」と叫んだが、自分達がいかにもアメリカ人らしい行動をとっているように感じていた。翌朝になっても、まだムラピを見ることはできなかった。
合衆国国防長官のポール・ウォルフォヴィッツは、レーガン政権下においてインドネシア大使を三年間務めた。彼はムラピ山にガイド付で登山し、下山後、この山に関する気の効いたスピーチを行なった。ウォルフォヴィッツが大使だった時、インドネシア人は彼を大変に好いていたが、国防長官となってからは、彼とその同僚たちがインドネシアをテロリストの横行する国と決め付けているため、裏切られたように感じているとパク・ドゥジョコというインドネシア人の教授が語ってくれた。そこで旅行警告の登場である。また、一方では、観光産業と海外投資の著しい低落ぶりが起った。このことは一九九七年のアジア経済危機で既に打撃を蒙っていたインドネシアの経済に追い討ちをかけた。
インドネシアを理解しようとする私達の試みは、今や私たちが遠く離れ、ポール・ウォルフォヴィッツとその同僚たちが影響力の頂点の上に立っているアメリカ合衆国を理解しようとする努力と絡み合っていた。群島のインドネシアと巨大なアメリカ、この巨大な国家という存在は、ある時ははっきりと、またある時はぼんやりと見え隠れしながら聳え立っていた。
初めてジョクジャカルタに上陸した時、私達はプリアルサホテルを訪れ、通りを南に進んだ場所にあるプリバハサでインドネシア語を習う申し込みをした。ホテルは殆どがら空きだったので、朝食の時私達を取り囲んでいたのは、赤色でどぎつく飾り立てた薄暗がりの中、籠に入ったさえずる鳥、小さな水槽の中で果ても無く泳いでいる大きな魚だった。朝食を済ませると私達は部屋に戻り、エディー・バウアーのバッグに本、筆記用具、持ち運び可能な貴重品を詰めてインドネシア語の授業に向かった。
本通と平行したジャランセンドゥラワシは長い道ではないのだが、私には長く感じられた。騒がしく、暑く狭いこの道にはバイクの音が響き、露天がひしめき合っていた。私達はこれらに押しやられたような感じで一列になって歩いた。路上で行なわれている生業が何事であるのか私にはまだわからず、看板を読むこともできなかった。ジョクジャの最も一般的な食堂は、柱に防水シートの屋根をかぶせたワルンという売店であることも知らなかったし、街角のテントの下に腰掛けた男達が、バイクの修理やパンクしたタイヤの継ぎ合わせを手がけていることも目に付かなかった。ある店の前に水の壜が毎朝ピラミッド型に積み上げられていることに私達は気づいており、それを一つの目印にしていた。だが、そのワロンステーキアンドシェイクの暖簾をくぐり、メニューを見ながら夕食を注文する勇気が出るまでには、しばらくの時間がかかった。殆ど気づいていなかったのだが、幸いなことに英語はジャワの都会においてかなりの権威を得ていた。近隣の看板に書かれていることの多くは、私たちにとって自明で理解可能な印刷文字だった。例えば、ドライクリーン、レディースアンドジェント、サウンドシステム、フェイシャル、インターネットなど。またステーキアンドシェイクのメニューの中には、フレンチフライ、サーロイン、ブラックペッパーステーキ等の語があった。
毎朝、徒歩旅行を済ませると、私達はプリバハサの門に到着し、語学教師の下に投降した。プリの狭くて屋外にある教室は、それぞれにインドネシアの島の名前がつけられており、それぞれの島の写真と物産で飾られていた。がたがた音を立てている扇風機と白板が取り付けてあり、屋根の張り出しと粘土製タイルのひさしが灼熱を遮っていた。私達はここにバハサ、この国の公用語を学習しに来ていた。この言語は、もともとマレー半島とスマトラ島から発し、広く交易に用いられた国際語に由来している。
バハサは分類的には混生語である。容易に学べて、港とそこを訪れる舟の間で使用することを目的に作られた言語である。名詞、動詞には格、性、語形変化、活用が無いため、学習者は早い段階から簡単な文章を組み立てられるようになる。バハサのうちの単語の一部は、様々な意味範囲を持っている。例えば、パカイという語は、使う、着る、・・・と、などの意味で使うことができる。ハンマーをパカイすることもできるし、ブラウスをパカイすることもできるし、お茶を「パカイ砂糖」で飲むこともできる。バハサはまた、他の言語から単語をすぐに取り入れていく言語でもある。そこで、パスポル, スタトゥス, フレクスィベル,エフェクティヴ,エクスルスィブ,ノルマル,デモクラスィ,コンフィルマスィ,レヴォルスィ,トラディスィ, コルスィ,コルプスィ,ネポティスメなどの言葉がある。 (二〇〇三年三-四月の新聞にはレコンストラクスィ, トランスィスィ, アグレスィの語も見られた。)
私は迅速に言葉が上達するさまを思い描いて、授業を受けることを心待ちにしていた。もちろん幻滅を感じるではあろうことも予測はしていたが。新しい単語を覚えようとして長い時間を費やした。友達を空港に迎えに行く時は、メンジャムプトだっけ、メンジェムプトだったっけ、それともメンジェムパト……. ジャムがあってそれからパトかプト?それにどうして皆飛行機をペサワットと言うの? 授業を受けてみて再び私が気づいたのは、単語は物体ではないということであった。林檎という語を齧ったり投げたりすることはできない。何度も繰り返して使ってみるうちに、林檎という単語は次第に架空の香りと形を持つようになっていくのだ。
プリでは、ふとしたことから教えられることがあった。世界中のかなり多くの人々が複数の言語を話し、我々アメリカ人は鈍感な単一言語主義で知られることを思い知らされた。教師たちはジャワ語(あるいはバリ語)とバハサの両方を話し、英語もかなりうまかった。私達の出合ったヨーロッパ人は英語を流暢に話した。オランダ人は私達と話す時だけでなく、ドイツ人の少女と話す時、また教師に質問する時にも英語を使っていた。この点に関して一番お粗末なのは私達だった。イラクの非武装化に期限を設けるか否かという点に関し、イギリスとアメリカ合衆国側、フランス、ドイツ、ロシア側の国連安全保障理事会での対立が激しくなってきた時、ヒューと私は休み時間には教室にとどまって、旅行警告の勧める「低姿勢」を保ちながら 他の人々と低い声でおしゃべりをした。
個人的、また国家的な様々な意味において、謙遜と誇りが思いもかけずどっと襲ってくるのを私は感じた。私が注目したのは、表面下に湿った暑い空気を、背後に骨折りを隠して語られている言葉だった。明らかな嘘を録音放送に撒き散らすイラクの情報相ムハンマド・サイード・アル-サハフをテレビで見るのが私は嫌だった。カメラの前でスローガンを叫ぶジョージ・W・ブッシュやドナルド・ラムズフェルドを見るのは多分それ以上に不愉快だった。ブッシュは大衆の前で喋るために大した努力をしていたが、その努力とは、練習済みのフレーズに頼り切ることであった。これらの丸暗記の言葉は、呼び出しがかかるともつれながらから飛び出してくるようで、外国語で自分について語ろうとする生徒のような印象を与えた。「国連の役割は重要だ。」大統領、重要な役割とは、具体的には何を意味しますか?「だから言ったとおりだよ。重要な役割さ。」こういった発言がどのように感じられるか、私はまざまざと知った。彼を眺めることは実に堪らなかった。
が、大学に在学中か、既に卒業した息子を持つような年齢のアメリカ人旅行者がいつも謙虚でばかりいられるわけはない。授業に出、二十代でありながら母親じみたやさしさを持つ二人の教師に向かって子供のように(あるいは子供より下手くそに)話すことを思うと、時折ふと、私達のどちらか一人は気が重くなるのだった。実際、四月の初めに「抵抗地域」ウム・カスルとバスラにおける醜悪な驚きと、自軍への悲惨な誤爆事故が「昨日のイラク関連ニュース」となった後、プリバハサの教室で、私は疑い深く、暗く、弁解がましくなっていた。ジョクジャの通りを歩いている誰もが「ハロー、メエースター!」と挨拶するので訂正しながら「私はアメリカから来たんじゃない。フランスから来たんだ!」サヤティダクダリアメリカ、サヤダリプランシス!と叫び返すのだとフランス人が(早口のバハサで)説明するのに再び耳を傾けることができなかった。
「この間抜け!」と私は考えていたが、その言葉をバハサでなんと言おうかとは考えてみなかった。この時の私は、自分が反イラク戦争派のフランスとその個人的体現者を支持していることを忘れていた。
私がこの反駁の言葉を口にすることはなく、心中に飲み込んだ。そこで胡椒と煙の味がする自国語の味はなかなか消えることはなかった。
ジョクジャカルタは、ハムンク・ブウォノ十世という名のスルタンを戴くにふさわしく壮麗で、また大学街でもある人口四十五万人の都市である。周囲は水田で囲まれ、雄牛や水牛と働いている者もまだいる。路上では馬が簡単なつくりの乗り物を引いていたり、人がベチャ(輪タク)をこぐ姿を目にすることができる。こういった乗り物は、スピードを上げてとばすバイクの中を静かに進んでいく。バイクの運転はジョクジャでは特に荒っぽい。これは、皆大学生が運転しているからなのだと説明された。
気候があまり変化しないため、多くのインドネシア人は一年を通じ、車よりバイクに乗っていることが多い。それは、住居やレストランが、しっかりと壁で覆われていなくとも構わないのと同じである。私たちが結局借りることになった大学関係者用住宅は、広々としていて、もともとノルウェーの交換留学生のために建てられたものだった。この建物には壁がないのだが、それと気づくのに何日かかかった。主室には重たげな勉強机と、七人のノルウェー人がついたとしても充分に大きい丸い木製の食卓が置かれていた。この部屋は、背の高い窓の広々とした空間から明かりを採り入れており、窓は白くて蜂の巣状の格子と蚊避けのネットで覆われていた。が、家の背面の窓にはガラスが入っていなかった。
このような様子なので、ジョクジャを訪れたアメリカ人らは、室内にいても何だか屋外にいるように感じ、屋外にいれば、さらにもっと外にいるのだという印象を受けている。仕事をするにせよ、食事をするにせよ、あるいは人との交流を持つにせよ、人目に、またアスファルトに晒されているような感じが強い。路上では、曲芸並みの運転は何も珍しいものではない。すんでのところで事故を起こさない様子にははらはらさせられた。コンピューターを膝の上に載せた者、長い巻いた絨毯を腕に抱えた者、沢山の鳩を入れた木箱を背中にしっかり括りつけた者、細い手足でまるで騎手のようにしっかりと捉まっている天真爛漫な子供を運ぶ者などがいる。幼子の母親は夫に身を寄せてバイクに乗り、首から肩へと吊るしたスルダンと言われる布製の紐で子供を支えている。合流地点にたどり着くまでに止まろうとする者はいない。合流は多分大丈夫だろうと信じることによって成り立っている円滑な動きである。事故は起っている。東南アジア地域のバイク関連の事故は、この地域の経済発展に対する障害物の一つであるとジャカルタポストは報じている。
私は人類学の教授にこう訊ねたことがある。儀礼におけるマナーの素晴らしさで知られるジャワ人が、向こう見ずなバイク運転者で溢れた都市を作り出してしまうことがどうして可能なんでしょう?彼は答えた。「ああ、それは簡単ですよ。道というのは国境地域ですからね。」
中産階級のアメリカ人を危害から守るために作られた、物理的な防御のための法的、規制的なネットワークは、インドネシアには再現されなかった。通常は費用が嵩みすぎ、輸入した場合、あまりにも奇妙なものになってしまうからである。ジョクジャから見る限り、アメリカ人は国内外からの脅威に危険な状態で晒されているようには思えない。それどころか、シートベルトをし、チャイルドシートを設け、安全なヘルメットをかぶり、塩素で消毒され、保険を掛け、厳重に武装し、海上を防衛し、恐ろしく安全だ。
私達がインドネシアを訪れることで蒙る危険は、インドネシア人たちがうまく出し抜いている日常的な危険に比べれば小さなものである。私たち自身は、インドネシアの論理、熱気、活気、実情に自らを充分晒すことができるということだ。毎朝、ジョクジャの街並みがいつもの賑わいをみせる中で外出すると、合衆国国務省の撮ったインドネシア群島のスナップ写真は国務省特製のレンズでかなりの高所から撮ったものだということがわかる。テロリストの脅威、地獄、それでは十番バスは?
このように感じていたので、路上を歩く時、私はほんの小さなことでも観察することを喜んだ。これは多分、一時的な滞在者としての適応能力が向上し、その結果安全性も高まっていると感じさせてくれるからだったのかもしれない。ジャランコロンボの路上では、ベンジン(ガソリン)の蓋付壜が売られていた。キャンパス内で手押し車の上で売られているそれと同じような形の壜は琥珀色の液体で満たされ、バナナの葉の小片で栓をされていた。この違いを見分けられるようになったが、このことが私は妙に嬉しかった。そこで私はキャンパスに出向くと顔に傷のある男からこの濃い色の液体を買い、ビニール袋にあけてストローで飲んだ。いったい何を飲み干しているのか見当がつかなかったが(砂糖味のタマリンドジュースかココナツの花のシロップから作ったグラジャワだろう)、「これはガソリンじゃないわ!」と言うことはできた。
夫と私は、ジョクジャにおいていつも安心ばかり求めているわけではなかった。時折、非常に慎重にではあるが、私達はトラブルを求めた。四月十日の旅行警告は、インドネシアのアメリカ人に「暴力行為に発展する恐れのある政治的なデモを避けよ。」と命じていた。私達の家からは、ガジャマダ大学のキャンパスの音が耳に入った。同大学内のロータリーは抗議行動を起こす人々の恰好の舞台だと聞かされていたため、私達は耳を澄ましていた。ある朝早く、私達は拡声器から流れる怒った声を聞いたが、その意味はわからなかった。ヒューは警告を重んじて大学内のオフィスまで迂回した道を通っていった。後になって、この時の群集は、北部における茶農園に対する大学の所有権に抗議するためにバスで訪れたスマランの住民であることを知った。彼らは土地の返還を要求していた。これは国内の紛争であり、アメリカの対外政策とは関わりがなかった。それからまた二、三週間の後、私達は再び拡声器の声を聞いた。その日は三月二十三日、日曜日の朝で、アメリカのイラク爆撃が開始されてからわずか後であった。私達は見に行くことに決めた。ドアから一歩を踏み出した時、その日は特に長くて白く見える自分の脚を見て動揺を感じた。前方に進んで行くと、キャンパスの芝生の傍に人と駐車された乗り物の一群があった。空には風船が漂っていた。
私達は人ごみに向かってジャランカリウランを横切った。歩を進めていくと、ロータリーに向かう大通りにワルンやCD、木製パズル、ヘラとフォーク、棘の立った果物の売り子が列をなしているのが見えた。子供が沢山おり、芝生の上では曲芸が演じられていた。シャボン玉売りは、私達に二組のセットを売ったが、それは、1)液状石鹸を入れた使用済み三十五ミリフィルム入れ、2)端の部分を糸で巻いてカーブさせ、ループ状にしたストローで成り立っていた。これは、ガジャマダ大学の日曜早朝蚤の市だったのである。拡声器は、ブーム!という口中清涼ミントを売る会社をスポンサーとしているロックバンドのものだった。お揃いのTシャツを着たインドネシア人の若い女性がただのミントを差し出した。私はミントを差し出した二人目の少女からそれを受け取った。一人目の少女は私に手を差し出すと目を見開いたので、私は脇に飛び跳ねてしまった。これは「(私が)置かれている周囲の環境に厳しく注意を払うこと。」という警告を意識した結果なのである。
次の週になると、インドネシア人たちは、イラク人死傷者のぞっとするような写真をテレビ放送で眼にするようになった。こういった写真は、バグダッドへのミサイル攻撃が終了した後も、四月、五月を通じて放映されていた。メトロTVは、スハルト政権の崩壊後に認可を受けた民間の二十四時間ジャカルタニュース放送局である。この局が繰り返し放映していたフィルムモンタージュは、負傷したイラク市民の映像に、インドネシア人の少女がインドネシア語で、四肢を失ってどうやって生きていくのかと、手足を失った若いイラク人に向かって歌いかける映像が重ね合わされたものであった。
こういったメッセージには聞き手がついた。空港の雑誌販売店で、イスラム教徒の女性(頭にかぶっていたジルバブでわかる)は私を見つけると、どこからきたのかと訪ねた。私が「アメリカ」と答えると、彼女はジェスチャーを交えながら、アメリカの爆弾で腕を吹き飛ばされた小さなイラク人の少年を見た時、自分は泣いてしまったのだと、バハサで強く訴えた。涙が止まらなかったのよ、と彼女は指で涙が頬を伝う様を示し、私をじっと見つめた。私の国に対するこういった批判者に対して、対峙し、評価し、その存在を認めようとするつもりでいた。が、この正々堂々たる出会いに出くわすや、私は弁解的な反駁をバハサで創り出していた。イブ、アンダセディジュハウントゥクオランーオランマティディアチェ、ティモール、ダンパプアダリTNI? メンガパ?オランーオランイトゥティダクディTVクマリン?「イブ、あなたはインドネシア軍に攻撃されたアチェー、東ティモール、パプアニューギニアの死者についても悲しんでいるの?どうして?この人たちは昨日のテレビには出てこなかったから?」
インドネシア人の抱いていた(そしてもちろん抱き続けていくであろう)一般的な感情は、アメリカのイラク侵攻に対して強く反対するというものであった。ジャワ人の礼儀正しい語学教師の一人は、彼女もまたジルバブをかぶっていたが、当時広まっていたジョークで、ヒトラーの魂がジョージ・W・ブッシュに入ったのではないか、と言ったような類のものを説明しようとしてくれた。ジョクジャカルタのイスラム原理主義者にインタビューを行なったガジャマダ大学の宗教学専攻の大学院生は、以下のように語った。原理主義者たちは、イラクにおける行動を、彼等の宗教的同胞に対する世界的な陰謀の一つに数えられる侵略行為のリストに付け加えようとしている。そこで、パキスタン、チェチェン、アフガニスタン、ボスニア、パレスティナ、また近い所ではインドネシア人同士のキリスト教徒とイスラム教徒の衝突が致命的に激しいスラウェシ島中央部、モルッカ諸島(特にアンボン島)に関する記録と共に、イラクにおけるイスラム教徒の犠牲者についての記録が残され、インターネット上に記事として掲載される。
しかし、全体的には、イラク戦争に対するインドネシア社会一般の反応は弱いものであった。このことは、インドネシアという国の評判の激しやすさから考えれば注目に値する。ジャカルタで行なわれたアメリカの爆撃に対する最も大規模な反戦デモには、五十万から百万の参加者があったが、暴力的な行動は引き起こされなかった。ジャカルタで若者の一団が旅行者の乗ったタクシーのドアをこじ開けようとした事件は、世界的なニュースになった。ジョクジャカルタでも反戦デモは行われたが、比較的小規模で平和的なものだった。時によっては蝋燭への点火が行なわれ、ポリスィに取り囲まれることもあった。スペイン人の女性がこういった抗議行動に参加し、逮捕され、以後同じ事をすればビザを取り消すと警告された、という話を私達は耳にした。
表面的には静かなこの様子について、友人たちは沢山の理由をあげて説明した。警察の存在が重みを増してきたこと、国民の反応を和らげようとする有力な政治的指導者の努力、クタビーチでの事件後、さらなる旅行警告を引き出しそうな過激な事件が起るだろうとふまれた結果、それを抑制しようとする力が働いていること、そしてインドネシア人にとってはもっと大事な火急の国内問題があるという解釈もあった。私達はアメリカ人であるため人目につきやすいが、旅行警告が予期させるほどには標的じみた存在ではなかった。私達が実際に目にした現実のインドネシア人の方が、積極的な意味で外界に晒されていた。
交換率
学生用のカフェテリアでの二人分の昼食は約一・八十米ドルだった。夕食用の炙った魚と鶏肉は二人前で約六・四十米ドル。マリオボロ市場からガジャマダ大学までの僅かに上り気味の道を二十分ベチャに乗っていくと、トゥカンベチャは汗に濡れるが、約二・二十米ドル。伝統的なジャワダンス公演のチケットは約三・三十米ドル。こういったコンサートは手の込んだ衣装をつけたダンサーとガムラン音楽のアンサンブルで行なわれる。料金を払って見ている観客はあなたとその連れだけだ。(カンプンの子供たちはフェンス越しに眺めている。)この料金を二倍した額が、野外劇場の一晩の総売上額だ。学生向けの家具なしの部屋代が一ヶ月七万ルピア。(二〇〇三年の時点で米ドルに大まかに換算するには、ゼロを三つ消して九で割った数より少し高いくらい。滞在期間を通して、一ドルは八千九百ルピアであった。)ジャワ東部のジッパー工場の女工の月給が二十万ルピア。それよりは格が上の繊維工場(メイドインインドネシア)で働く女工の月給は七十五万ルピア。「私達の」守衛の月給、四十万ルピア。料理と洗濯をする女性の月給、三十万ルピア。
インドネシアに到着する前から、大学関係者用の住居には、守衛が必ずいるものと決まっており、借り手はその人物の給料を払う義務がある、と聞いていた。一軒の家の鍵を空けて中に足を踏み入れた時、守衛には二歳と十歳の二人の子供の母である彼の妻がいて、料理と洗濯をする彼女の給料も払う必要があることを知った。私達は、インドネシアで自炊をしているアングロサクソンを知らない。コックがいて家で家族と食べるか、外食しているかのどちらかだ。引っ越してきた時、私達はパクWとブ・スプリに対して、まぜこぜな言葉で交渉を行なった。この夫婦は、ルマノルウェジア(ノルウェーの家)に何年も住み番をし続けており、宿泊者のために働いていた。彼等の給料はガジャマダ大学の住居オフィスによって定められていたが、他のいくつもの疑問に関して取り決めをする必要があった。
初めはいくつかの問題に見舞われた。ある晩、下手くそな英語と下手くそなバハサによる交渉が決裂した後、私はベッドに仰向けになりながら、妙に躍起になっていた。油っぽく、感情が高まり、道徳心が打ちひしがれ、暑くて非常にいらいらした。問題になっている金銭に関しての疑いの気持ちが強くなった。私達の到着のために整えられた広々とした部屋の中で、私は孤立無援な気持ちでいた。その一方で、自分は孤立無援などではないこともわかっていた。これは、わたしがわが身で感じた植民地体験であった。
インドネシアの中流階級の家庭には、ごく普通のこととしてペンバントゥ、使用人がいる。特に女性の料理人がディベラカン、‘奥’に住んでいる。訪問した全てのアングロサクソンやインドネシア人の家で、私達はペンバントゥが給仕したり、年のいかない子供たちの世話をしているところに出くわした。一九六〇年代から一九九〇年代にかけて、インドネシアの国家経済は劇的に発展した(平均寿命は、この間四十六歳から六十三歳に伸びた。)が、未だに分類的には「途上」国の段階にある。低賃金の労働力は容易に探し出すことができる。一九九七年から一九九八年にかけての経済、政治危機によって、職を失うインドネシア人の数は増加していき、(失業率は五十パーセントであるといわれている。)多くの者は「インフォーマルセクター」で稼ぐことを余儀なくされている。ジョクジャの路上を占領している食べ物売りのワルン、果物を食べさせるスタンド、バイク修理「店」、鍵、車のナンバープレート、ガソリンの売店などの商売は、どれもこれもがインフォーマルセクターから生まれ出たものであり、困難な時を乗り越えていく臨機応変の才を示している。
その意味で言えば、大学に雇われた守衛というパクの安定した仕事は、うらやましいものとも見えただろう。が、他の見方、というものもある。チップもあわせたパクとブの月給の合計額は、マリオボロモールの食料品店の裏にある貯蔵室から買うシャルドネ九本分に相当した。
パクとブ、そして二人の幼い息子は、家賃がただのディベラカンに住んでいた。この家には二部屋の狭い寝室と、台所のドアから通じている屋根つきのテラスでできていた。彼らは皆テレビを見るのが好きだったが、ディベラカンにはテレビがなかった。家に帰ると誰かしらが主室の籐製のカウチに腰掛けてテレビを見ているところに私達はしばしば出くわした。夫と私はコンピューターを使った仕事が終われば、普通は寝室に戻ってペーパーバックを五時まで読んだ。五時はBBCニュースの時間であり、私たちがテレビを見る権利を主張しワインを取り出す時間でもあった。四月には、バグズバニーの漫画が消えていくと、漂う緑の煙、バグダッドの悪夢の中の「衝撃と怖れ」にとって変わられた。
パクとブが私達二人のアメリカ人をいったい何者であるのか正確に(とはいえ完全に、ではない。私達の置かれている背景は彼らにとってあまりにも遠いものなのだから。)理解していたのかどうかは知る由もない。ペンバントゥとの生活は作られた話のようであり、芝居がかってもいた。主住居の裏にある短く草を刈り込まれた庭は塀に囲まれていたが、一方の面には古い茣蓙で隠された割れ目があった。パクとブはそこを通って、自分たちのむき出しの狭い土地から「私達の」きちんと整った庭にやって来た。茣蓙は破けているために、私達は簡単な作りの屋外用のテーブル、自転車、洗濯物をかけるラックなど、
彼等の持ち物を垣間見ることができた。私たちの住居との違いは著しく一目瞭然で、日常使用する道具はわざとのように磨り減っており、あまりにも古びていたので芝居の小道具のように見えた。
午後の遅い時間にテレビの前に跪いてジム・レーラーの穏やかで高慢な顔を捜そうとした時、チャンネルがアル-ジャジーラに合わせてあるのに何回か気づくことがあった。四月の間、私達の見ていたケーブルテレビは、インドネシア語吹き替え版のアル-ジャジーラを放映していた。夫と私は、どのような映像が取り上げられているのだろうかという興味から、時折このチャンネルを眺めた。(イラクの女性が病院のベッドの傍らに立っている。包帯に厚く巻かれたイラク人男性と子供が病院のベッドに横たわっている。水を求めるイラク人、イラク人を邪険に扱う過重装備のアメリカ兵。
だが、アラビア語もバハサもよくわからなかったため、長い時間このチャンネルをつけておくことはなかった。パクとブは、アメリカ-イラク戦争に批判的なアル-ジャジーラの報道を眺めながら、私達にこの戦争を非難して欲しいとも思っていなかったし、この放送局を見ていることを非難されると恐れたりはしていなかった(と私は望む。)と思う。このことは小さなことだが、私は満足感を感じた。なぜなら、夫と私は台所のドアの向こうに住んでいる家族を支配下に置いたり、またあるいは自分のもののように扱ったりしなかったことを確かに示してくれているのだから。
結局のところ、私達は植民地後の人間であり、植民地後の東南アジアの環境と反応しあって生きているのだった。かつてオランダはインドネシアの支配を主張し、フランスはベトナムを統治した。イギリスはビルマ、マレーシア、インドを手にし、スペインはフィリピンを治め、アメリカはフィリピンとベトナムに手を伸ばした。しかしこの西欧による統治は全て終わりを告げている。インドネシア人はオランダ東インド会社の植民地統治を覆し、近年においては、家父長的で汚職にまみれた独裁者とその強欲な家族を、西欧国家からの介入なしに退けた。そんな国にとっては、大した影響力もない訪問者はまるで幽霊のようなものであり、すぐに消えてしまうのだ。
ベチャに乗り込み六フィート五インチの夫の傍らに腰掛け、小柄だがよく引き締まった茶色い肌のアジア人に引かれて街を横切る。そこで私は、サーヒブやオランダ総督の妻になって権力を行使し、植民地というものの重みを手にしたらどんなだっただろうと考えた。白人の重荷。グローバライゼーションと呼ばれる二十一世紀の経済的帝国主義は、古い植民地主義の香りを強く漂わせている。何ヶ月かインドネシアにいるうちに、夫と私は著しく背が高くなり、現地人の使用人のいる家に住む裕福な人々となった。こういった背景の中で、私達は形を変えた。私達は肉体的に巨大化し、アメリカ兵のように個別に認識することができない存在となった。私達の偉大な白い影はイラクに追い込まれていった。
ベール
かつてサウジアラビアに住んだことのある母は、私がインドネシアに行くということ、またその国がイスラム教の国であることを知ると、二十年前にリヤドで着ていた長袖でハイネック、くるぶしまで長さがあるゆったりとした服を貸してくれようとした。母は、運転手を雇うのかと訊ねるので、私はいいえと答え、「インドネシアはサウジアラビアじゃないわ。」と冷ややかに告げた。
何ヶ月か後に、私たちに歓迎の会見の時間をとってくれたジャカルタのアメリカ大使館の文化担当官補佐は、ふとしたついでに、インドネシアではジルバブ、イスラム教徒のベールが以前よりもはやりだしていると口にした。この発言は、私たちが訪れることに決めた国の女性のファッション、あるいは政治に関する情報をおぼろげに示していた。この係官の部屋は混乱していた。というのも、彼と文化担当官の交代の時期が来ていたからである。安全上の理由から、重要でない大使館員は皆国外に帰され、大使館スタッフは減っていた。
飛行機から降りた私とヒューは新鮮さを感じ、新しい風景の中で新しく生まれ変わった。大使館を去るときのことで覚えているのは、金属探知機のある場所を通るように促されたことである。(退出する時は通る必要がない。)屋外の守衛所でパスポートの返還を求めたが、そこには大使館付きの守衛が大勢いた。それから有刺鉄線の脇を通って、車に乗った爆破犯を防止するために建てられたコンクリートのバリケードの裏手にある歩道に出た。バリケードの向こうで小規模な反米デモが行なわれていた。このデモを先導しているのは、奇妙なマスクをつけた人々であった。私達を見つけると、そのうちの一人が夫に向かって早足で近づいてきた。夫はアメリカ人にしても背が高い方なのだが、その人物は夫に向かって腰から体を屈め、ヒューに向かって私達には意味のわからない嘆願書を手渡した。ヒューは実のところそれを受け取りたくはなかったのだが、受け取った。
この出会いは私達をぎょっとさせた。薄暗く、バタースコッチ色のホテルの部屋は、ロイヤルブルーの安全テープを空港で架けられたままの鞄でいっぱいだった。最寄の警察かフルブライトエスコートに頼んでさっきの人物が近づいてくるのを止めるように頼みたかった、と部屋に着いてからと互いに打ち明けあった。私達を狼狽させたのは、あるいはマスクのせいだったのかもしれない.....マスク、バリケード、有刺鉄線、守衛、落ち着き払った(あるいは面白がっている)警察官、そしてジャカルタのアメリカ公務員があれほど物々しく壁を作り、内側からドアにかんぬきを掛けていながら、あなたたちが「そこに」行きたいのだったら行きなさい、とインドネシアの内陸部に私達を送り込もうとしていたことに気付いたからなのかもしれない。
それから、「そこ」は「ここ」になった。ジョクジャカルタについて一週間目のこと、私達は一番若い語学教師と共に座っていた。彼女はジルバブを被っていた。彼女は忍耐強く、また確信を持って学習用カードを並べて見せ、私達はそれに従って練習した。二時間目の授業が始まった時、彼女はまごつきながら立ち上がった。ベールを首のところで止めているピンが緩んだのである。彼女は急いでピンを止めに立ち去った。自分の仲間といる時も、あんなに心配げに慎ましく振舞うのかしら?もしアメリカ人がベールを外そうとしたとしたらどうなるのかしら?と私は考えてしまった。
私はアジアの衣装の一部としてのベール、また政治的な記号としてのベールに関心があった。そして私もかつては少女であったから、プライベートな女性の身体を柔らかく創り出す覆いとしてのベールにも思いを馳せた。それは遠い昔にブラジャーについて考えたのと同じような感じだった。(それを外したらどんな感じがするのかしら?伸縮性のある生地でできているのはどんな感じかしら?)私達の教師は椅子から急に立ち上がると、スカーフを指先で止め直した。私は彼女を捉まえてこう言いたかった。「落ち着いてよ、赤ちゃん。人の首なんか数え切れないほど見てきたわ。私たちが見てきたものといったら!ピアス、乳首、革紐、共学時代にはお尻に穿いたコーネル大学の校章付ボクサーショーツ。貴方は自分を私達から隠す必要はないのよ。私達は年取っているんだし、アメリカから来たんだから。」
私のアメリカ人としての目は、ジルバブをかぶっているインドネシアの女性は、反西欧主義者でもなければ、本質的な反米主義者でもないという証拠を見つけようとした。私は、半ば意識的にこの興味を追った。私の周りにいる女性たちは西欧に妥協しているか、すでに林檎を齧ってしまったということで、西欧から妥協されているということに私はさっさと気付いた。イスラム教徒の女学生の群れが皆同じように青いスカートを穿き、クリーム色のブラウスを着て青いベールをかぶり、スカートの裾から丸い形のランニングシューズをのぞかせているのを見た時、マリオボロモールで私がエスカレータを上っていると、ベールをかぶった女性が下ってくるのを見た時、私達は誰もが皆、テキサスチキン、カリフォルニアフライドチキン、スポーツステーション、キッズステーション、ノーティカ、ポロ、アスリーツフット、ゴルフハウス、リーボック、レッドアース、プラネットサーフなどの店の間を漂っているのだと再確認した。言ってみれば、ジョクジャにおいて、ンドネシア人が西欧の大衆的、商業的な侵略を楽しんでいる様を、中庸と受容の象徴として自分が理解していることに私は気付いた。ジョクジャのピザハットの席に座ると、私は物持ちになって温かくお客を迎えているような気分に浸っていた。それはまるで、ファーストフードのセットメニューについているレゴのおまけが、魔法使いや宇宙飛行士に向かってプラスチック製の家にどうぞ、と招いているような感じであった。
夫と私にとって、接する機会が最も多いのは学生と教師だった。その中にはプリバハサでの教師やヒューのアメリカ研究の院生もいた。彼等の多くは二、三ヶ国語を話す二十代の女性で、ある者はスカーフで頭を包み、ある者は何もかぶっていなかったが、キャンパスの中で普通に友達づきあいをしていた。ある一団がカフェテリアの近くで、ヒューの手にポテトチップの袋を押し付けてくれたことがあった。他に差し出せるものがなかったからなのである。私達の出会ったこれらの若い女性たちは賢く、また礼儀正しかったように思う。もちろん、キャンパスの中にも近寄りがたい雰囲気の人物らもいた。全身黒づくめの女性を見かけることも時折あった。ロングスカートを穿き、ウエストまであるベールは顔を目以外全て覆っていた。こういった女性が角を曲がって現れたり、階段をしとやかに上ってきたりすることがあった。ジョクジャではベールで正装した女性に出会うことは、アングロサクソンに出会うのと同じくらいまれなことであった。こういった女性の見た目、自ら選んで流行を無視した姿でいる奇妙さは、しばしば、民主主義の象徴のような印象を私に与えた。またある時には強い意志を持った影のようにも見えた。
三月二十日の午後、アメリカとイギリスの部隊がイラクに進撃を開始したことを知った。 何週間かの劇場的な民主主義と世界的な抗議行動の後で、機械的な「クリック」の音が鳴り響いた。そして正式許可の信号が点ったのである。既に自分の手には終えなくなってしまった動きに対しては、安堵の気持ちが起る。そのことを感知した株式市場は活気を取り戻し、投資をしつつも戦争には反対であるという友達からの懺悔めいたeメールが届いた。
私達は正確に時間を掴むことができなかった。バグダッドの夜に爆撃は行なわれ、イギリスのニュースキャスターが-ロンドンから?-それを報じた。私達は朝食前に、そしてまた夕食前にジョクジャカルタのカウチでその報道を見た。レポーターが「木曜日」「土曜日」「昨晩」等と述べると頭は混乱した。仕舞いには私達はあきらめて時間の中を漂 うに任せた。少なくともテレビに映し出されている爆撃は過去に起ったことで、未来に起る爆撃を見ているわけではない。実際、ジョクジャカルタとバグダッドの時間差は四時間である。ジョクジャカルタが七時三十四分である時、バグダッドは三時三十四分である。太陽は、ジョクジャカルタの火山の上に昇った四時間後に、ティグリス河の上に姿を見せる。巨大な薄片に区切られた地球がそれぞれ異なった時間に太陽に照らされ、そこかしこに配置されたレポーターが無線技術で繋がれ自分とは別の映像と話をしながら共同の質疑応答を行なう。そして太陽が昇った地域の人間は、全ての「政府関係の建物」の窓から火の手が上がっている、と伝えられるバグダッドの廃墟の映像を見る。
ウム・カスル港の外で大量に待機している「人道的援助」のために多くのことがなされたが、「激しい抵抗地域」のせいで進行が妨げられた。二、三日後に、これらの「地域(pocket)」は拡大し三つ揃いのスーツになったかのように思われた。重装備のアメリカ兵、イギリス兵がバリケードの後ろに潜み、荒涼とした地帯を眺めたり、壁に沿って急いで移動したり砲火を受けたり発したりしている映像を、私達は見るようになった。連合軍にとっての悪いニュースが多発するようになった。イギリスのヘリコプターが墜落した。アメリカ人がイギリスのトルネード戦闘機に撃墜された。アメリカ兵が手投げ弾を同胞のテントに投げて使者を出してしまった。日曜にはアン・ナシリヤの近郊で、海兵隊が投降を装ったイラク兵に殺害された。
それと同じ日に、護衛官のしんがりをつとめていたアメリカ人の一団が攻撃を受け、捉えられてイラクのテレビでさらし者にされた。アメリカ合衆国は激怒し、この行為をジュネーブ条約の外交儀礼に反する行為だと非難したが、コメンテーターの中には、西側のメディアが縛られたイラク人捕虜の写真を放映していたことに触れる者もあった。多分そのせいで、アメリカの捕虜が、私たちの見ているジョクジャのテレビに突然登場し、人目に晒された。途方にくれたクルーカットの若者が、子供らしい恐怖の表情を浮かべていた。「彼は死のうとしている。今日は生きているけれど、明日かその次の日には拷問されて死ぬ。そして私は今彼を眺めている。」と私は考えていた。捕虜になるというその兵士の(時には私自身の)悪夢は現実になってしまっていたのだ。彼はその夢から覚めることはなく、敵の手中にある。
この兵士と仲間は殺害されず、救出され合衆国軍は四月の半ばにバグダッドを征服したことを今では知っている。だが三月の末にはまだそのことはわからなかった。戦争反対の意思と、アメリカ兵たちができるだけ早く仕事を終えてくれるようにという望みを同時に持ちながら私は動転し、あの兵士の顔を繰り返し思い出していた。暗い寝室の中で眠ることができないでいる時こんな想像をした。ドアが叩き壊される、マスクをかぶった男たち、知らない言葉の叫び、部屋は突然人でいっぱいになり、身の毛もよだつような明かりがつけられる。私の精神状態は混乱していた。弁解的でありながら言い訳がましく、平和を望みながら愛国的だった。マスクをかぶった復讐者の群れは、まるでこういった感情を呼び覚ます呪文のようだった。そしてがしゃん!と音を立てると、あらゆることを平易で単純にしてしまった。
三月二十日以後の一週間を通じて、ジョクジャは通常の営みを保っていた。反戦抗議は行なわれたが、警察によってスケジュールを限られているようだった。ある日夫がロータリーに学生が集まっているのを見た、と教えてくれた。私は見に出かけたが、着いた時には誰もおらず、いつもどおりバイクが回転木馬のように動いているだけだった。アメリカのファーストフード、英語、ポップミュージックは街中に溢れていて別にすまなそうなそぶりもなかった。恥、いや恐れから?ピザハットが潰れ、ワルンのようにたたまれてしまうのではないかと私は想像していたのだが。KFCは明かりを灯したまま、巨大な窓は割られず、お客でいっぱいだった。レポーターもゲストもインドネシア語を話すインドネシアのテレビニュース局は、英語で見出しを放映していた。選挙秒読み段階!ヘッドラインニュース!攻撃されるイラク!ラディソンのロッカールームは、私達も歌詞を知っているブロードウェーのメロディーをいまだに歌詞抜きの笛で演奏していた。(「トゥム、トゥム、トゥム、トゥム、ボタンと蝶ネクタイ」)ワルンの脇の道では乞食がチップを求めてカーテンを開き、大声で英語で歌いだす。「私が小さな赤ちゃんだった時、ママはゆりかごの私をあやして。。。。」私達は彼に硬貨を渡し、彼は天使のように姿を消した。
私たちの置かれた状況の非常な奇妙さは、合衆国のスポークスパーソンによって恵み深い「解放」の行動として活発に発表される戦争の奇妙さそのものにふさわしかった。いや、あるいはそれによって増幅されていたともいえる。侵略軍は強力でハイテク装備され、不死身、無敵のように(少なくとも二〇〇三年初頭においては)見えた。自分たちは友好的だと常に繰り返している侵略軍の姿は、遠くから眺めた場合奇妙な獣か化け物のように見えた。
そういった何週間かの間、夫と私は規則的にスケジュールをこなした。決まった時間に泳いでいたので、国務省の勧める妙計に従って「必要な旅行の時間と路線」に変化を持たせることには失敗した。私達はeメールに答えながら、全く安全で、ジョクジャはアマンつまり、平穏で秩序がある、皆にと説明した。私たちが低姿勢を保っていたとしても、それは仕事を終わらせねばならなかったからに過ぎない。私は、インドネシアという学術誌の最後に送られてきた記事を編集していた。ヒューはペーパーの採点をし、アメリカ短編に関する授業の準備をしていた。私たちの仕事が進むに従って、テレビニュースの語調が変化してきた。アメリカの戦車がバグダッドに入城した。サダム・フセインの革命防衛軍は姿を消し、本人とまた情報相もまた雲隠れした。皆どこに行ってしまったのか?テレビは見たところ何も伝ええていなかったし、そのことを尋ねるものも殆どいなかった。カメラは空っぽなサダムの宮殿の天井や寝室をアップで映すと、次に大量殺戮兵器が隠されてはいなかった巨大なみすぼらしい容器を急いで放映した。
帰国前に、私が最後に編集する必要があったのは、「インドネシアの軍事エリートに関する最新データ」という題名の、「編者」とサインされた標準的な形式のエッセーだった。私は深くものを考えないで編集に取り掛かったが、何ページか進むうちに神経質になりだした。
このエッセーは、インドネシア軍部に特有な汚職について述べていた。TNI(Tentara Nasional Indonesia, インドネシア国軍)改革と、国政へのTNIの影響力低下の努力はメガワティ政権下で暗礁に乗り上げた。インドネシアの軍事組織は、金欠状態の政府から、正式の予算額の約三十パーセントしか受け取っていない、とエッセーの筆者は説明している。そのため、軍の地方組織は、「資金調達活動」に依存することになっている。こういった活動に関わる犯人は、フリーポートマクモランやエクソン-モービルなどの鉱物採取多国籍企業を紛争から守ることを特に口実として軍の「保護活動」を正当化し、地域紛争を故意に扇動している。フリーポートマクモランは見掛け倒しの人権記録を持った鉱山業の複合企業だが、パプアニューギニアで運営し、エクソン-モービルはアチェーで運営している。インドネシアの東西の外縁の位置を占めるこれら二つの資源豊富な州においては、分離運動が長く盛んである。その上アチェーは地震と津波によって荒廃している。これらの地域で軍部が問題を引き起こした場合、彼らはしばしば分離主義者のテロリストを非難する。九月十一日以来、テロリストという言葉には政治的効力が与えられ、世界中の自称調停者にとっては便利な用語となった。このエッセーによれば、インドネシア軍の兵士は自ら傭兵に志願し、アンボンにおいて若いキリスト教徒とイスラム教徒に殺し合いのための訓練を授けていると報告されている。筆者は「皮肉なことに保安部隊は自らの生き残り戦略のために危険を生み出している。」と特に言及している。
私はこの編集作業を、二回に分けた座り続けの作業でできるだけ早く行い、すばやく送信するとラップトップから急いで消去した。アチェーやパプアニューギニアへの旅行の予定はなかったので、私は自分の身に危害が及ぶことを恐れたわけではなかった。しかし、私はオンライン検閲を恐れていた。電信関係(クレジットカード、電話、インターネット)の安全保護が東南アジアではいいかげんであることを私達は警告されていた。ジョクジャに住んでいる友達から聞いた話では、ヴィザの支払いにマニラでの身に覚えのない支出が加わっていたそうである。自分はまるで広い池の中にいて、誰にも捕まる恐れのない魚のようなものなのだ、インドネシアの検閲装置は、信じられないほど低予算なのでスタッフも足りていない、と私は自分に言い聞かせた。
私の編集したエッセイは、結論において以下のことに注目している。ジョージ・ブッシュ政権は、「集中的な反テロリストキャンペーンを世界的に展開させた。」そして、安全性の強化を好む合衆国の圧力は、インドネシアにおける「軍部の独断性の増大」に貢献している。アメリカの政治色の強い「テロとの戦い」は、そのように広範にわたる影響力を持っていた。
二〇〇三年六月、私はインドネシアを去った。が、夫はまだそこにおり、インドネシアの軍部はアチェーに侵入した。人権団体は、軍部と分離抵抗運動者の双方に対し、残虐な侵害行為のかどで非難を行なった。アチェーの人々の学校は焼かれ、若い男性と少年たちが処刑された。何千もの村民が強制退去させられ、食糧補給が立たれた。その結果、合衆国国務省は、六月十二日に以前のものと大して変わらない「旅行警告」を公布した。(「全ての旅行を延期せよ。」「事前の警告なしに暴力行為が勃発する恐れがある。」)違いといえば、アチェーについて得に言及があり。アメリカ人はそこから退去するようにと書いてある点である。
この警告を見て私は恐れを感じた。私はヒューの身を案じた。現地というのは何とすぐに遠のいていってしまうものだろう!ジョクジャの喧騒は、外界の影響をあまり受けずその重みを保っていたが、その場所にいたときの自分の存在の薄さを私はまだ思い出すことができた。が、ジョクジャの通りを歩いて周囲に注目し、自分に言い聞かせることは、私にはもうできなかった。インドネシアは再び遠くに位置し、雲の向こうに隠れた。不安を掻き立てるようなニュースは、インドネシアの全土が白熱化し、あたかも火山が爆発し、地が割けているかのような印象を与える。ある日知り合いが間違って、アメリカ人はインドネシアから退去するように命じられた、と伝えてくれた。私は急いでヒューにeメールを送り、返信を待った。胃が痛くなったが、翌日彼は「何のこと?」という返事をくれた。大ニュースだ。彼は友人と共にミラスレストランで夕食をとり、ホンダのバイクを運転しマリオボロの南に位置するレストランから深夜に帰ってきたが、何の問題もなかった。
ジョクジャカルタに住んでいた時、夫と私は僅かなところで危険と隣りあわせでいたのどうかはわからない。インドネシアでも爆弾は炸裂した。二つのジハード組織、ラスカルジハード(イスラム教徒をキリスト教徒から守るためにモルッカに兵士を送っている)と、ジェマーイスラミーア(バリの爆破事件へのかかわりで訴えられている)は世界的な注目を集めている。彼等の影響力は大きいのか?彼らは、反西欧、親イスラムの火山から近い将来激しい爆発を引き起こすのか?それとも彼らは殆どいつも煙を上げており、些細な様子が大きな影を投げかけているように見せかけられているのか?学者のジョン・シーデルは、以下のように論じている。アメリカ、インドネシア、フィリピンは、それぞれ自国の政治的目的のために、東南アジアのイスラム教徒によるジハードの脅威を誇張している。「フィリピンインドネシアにおけるジハードの調達人は、実際には負け戦の後衛を務めている。」インドネシアへの自分の上陸経験と、政治活動の経験から、私は彼のこの評価に賛成である。アメリカの政治的指導者は、自らの攻撃的な対外政策を、アメリカ本土に向けられる外国人テロリストの脅威を誇張することで正当化している。この戦略は、アメリカの有権者に世界全体について誤解させているばかりか、世界の中に置かれた自国の位置についてまで誤解をさせる役割を果たしている。アメリカ市民は、そうであると信じ込まされているほどには、脅威に晒されてはおらず、脆弱なわけでもない。よって交戦状態にあることを正当化することもできない。
デボラ・ホムシェル
しかし、本当のところは私にはよくわからない。私の行動範囲(私達は、六千もの人口稠密な島々のうち、たった三島に足を踏み入れたに過ぎない。)、言語能力、滞在期間、その全てがこの国の現在の状況と未来の方向性を判断するにはあまりに僅かなものであった。インドネシアでの滞在は、私の骨を揺さぶり、髪が抜け落ちるほどの衝撃を与えた、といっても誇張ではない。私は、インドネシアが現実であるということを忘れないだろう。
Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 6: Elections and Statesmen. March 2005
デボラ・ホムシャーはコーネル大学東南アジアプログラム出版の編集局長である。
*インドネシアに関する情報についいては、以下の記事によっている。John T. Sidel, “Other Schools, Other Pilgrimages, Other Dreams: The Making and Unmaking of Jihad in Southeast Asia,” in Southeast Asia over Three Generations: Essays Presented to Benedict R. O’G. Anderson, ed. James T. Siegel and Audrey R. Kahin (Ithaca: Cornell Southeast Asia Program Publications, 2003); and The Editors, “Current Data on the Indonesian Military Elite, February 1, 2001 through January 31, 2003,” Indonesia75 (April 2003) また、フルブライト協会、アメリカーインドネシア交流協会の援助にも謝意を表したい。