歴史の言論とそれをめぐる政治―――誰がそれを支配するのか、いかにしてそれは広められるのか、それと競合する歴史はいかにして抑圧されるのか―――そうしたことが知的、公的な論争において中心的テーマとなる時期がある。タイで歴史がそういった関心を引き起こしてすでにかなりの時間が経過した。そしてこの間、タイでは国民主権的歴史記述がヘゲモニーを手に入れたように見える。これはそれに対する反対がみたところほとんどなかったという事実がなかったとすれば、大いに注目に値するものだったであろう。さてそれではこの政治的、学問的事業は、それがはじまって100年、どれぐらい安定したものとなっているのか?
この論文において、私は現代のタイの国民主権的歴史記述が抱えるいくつかの問題を考えたい。その第一は語りの主体、つまりタイ国民の問題である。タイ国民の歴史記述は、アンダーソンの『想像の共同体』、あるいはホブズボームとレンジャーによる『創られた伝統』といった作品にみるように、1980年代、「国民」という概念が批判されるようになって以来、どうなってきたのか? 第2はこの語りの中で王制がどのような役割を果たしているかである。王制は現在、政治、文化的にタイ史記述の可能性をどのように制約しているのか? 第3の問題は民族的、地域的少数派、統一され文化的に均質な国民というかつては何の問題もなかった理解に挑戦する少数派をどう表象するのかというものである。
1990年代の地域化以来生じてきた新しい問題は、学校の教科書の中で、あるいはまたテレビドラマ、映画の中で、タイの国民主権的歴史記述が、隣国との関係に及ぼす影響である。これは時として外交的緊張を生じさせるものである。次の問題は主に学会の専門的歴史家に係わるものである。それは1990年代の「ポストモダン」理論と、それが歴史の真実を掘り崩していることを主張していることの影響である。かりにタイの歴史が数え切れないほど多くの物語の中の一つに過ぎず、過去に対するなんの権威を主張できないとすれば、それは今のような特権的な地位を享受するに値するのだろうか? さらにまたもう一つの問題として、今日では専門家の歴史が一般の人々のもつ歴史とほとんどなんの関連も持たなくなっていることである。大学をはじめとする教育機関で「専門」としての歴史学が衰退していること、これはその100年来の成果、国民の物語にどのような影響を及ぼすだろうか?
Patrick Jory
(Translated by Onimaru Takeshi.)
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Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 3: Nations and Other Stories. March 2003