Issue 35

จากความตายถึงการกำเนิด : ชีวประวัติ บริบททางศาสนา และการจดจำทิก กว๋าง ดึ๊กกับการเผาร่างพลีชีพ

วันที่ 11 มิถุนายน 1963 พระภิกษุอาวุโสชาวเวียดนามชื่อ ทิก กว๋าง ดึ๊ก เผาตัวเองจนมรณภาพตรงสี่แยกของถนนอันพลุกพล่านในเมืองไซ่ง่อน  การพลีชีพของพระภิกษุรูปนี้ได้จารึกภาพอันลบเลือนมิได้แก่สงครามเวียดนาม  ทั้งนี้ส่วนหนึ่งสืบเนื่องมาจากภาพถ่ายอันเป็นที่จดจำของมัลคอล์ม บราวน์ นักข่าวสำนัก Associated Press  ถึงแม้ภาพถ่ายชุดนี้ติดตามความตายอย่างใกล้ชิด แต่ก็ไม่ได้ทำอะไรมากไปกว่าบันทึกภาพเปลวไฟที่เผาไหม้ร่างของพระภิกษุในศาสนาพุทธ  กระทั่งผ่านไปหนึ่งวัน เมื่อภาพถ่ายชุดนี้แพร่กระจายไปทั่วโลกแล้ว ข้อมูลเกี่ยวกับพระภิกษุรูปนี้ก็มีน้อยนิดมาก แทบไม่ต่างจากอ่านรายงานของตำรวจ  เดวิด ฮัลเบอร์สแตมเขียนไว้ในรายงานข่าวว่า  “พระภิกษุในศาสนาพุทธวัย 73 ปีประกอบอัตวินิบาตกรรมเพื่อยกระดับการประท้วงของชาวพุทธต่อนโยบายด้านศาสนาของรัฐบาล” ชีวประวัติ ไม่นานหลังจากการเผาร่างพลีชีพ องค์กรสหพุทธจักร (Unified Buddhist Church) แห่งเวียดนาม ได้ตีพิมพ์ชีวประวัติของทิก กว๋าง […]

Issue 35

死から生へ ティック・クアン・ドックの生涯と焼身自殺…伝記、宗教的背景と追想

1963年6月11日、サイゴンの、交通量の多い交差点で、ベトナム仏教の老僧、ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)が焼身自殺を行った。後に、この行為がベトナム戦争の忘れ難いイメージとなった訳の一つに、AP通信社の記者、マルコム・ブラウン(Malcolm Browne)が撮影した象徴的な写真がある。それらの写真は、死をつぶさに記録しているものの、かの仏教僧の身体を包む炎の輪郭をなぞる以上のものではない。翌日、これらの写真が世界各地に広まった時でさえ、この僧侶に関する記憶の全ては注目されぬまま、事件は警察調書を読むかのように伝えられた。例えば、ディヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam)は次のように記した。「73歳の仏教僧が自殺をして、政府の宗教政策に対する仏教徒の抗議を浮き彫りにした」。 伝記 ベトナム統一仏教教会(The Vietnamese Unified Buddhist Church)は、ティック・クアン・ドックの伝記を彼の死の直後に出版した。この伝記には、ティック・クアン・ドックの生涯が、一僧侶のありふれた人生として描かれる。 伝記によると、ティック・クアン・ドックは7歳の時に修行僧となり、20歳で受戒した。 そして、受戒後は南部を中心に、ベトナム全土を旅して仏教の布教に当たった。実際、この伝記は彼の生涯にはあまり触れず、世界を動かした彼の死と、その影響を中心的に描く事で、最終的に彼の人生を鮮やかに描き出している。 ところが、伝記は、ティック・クアン・ドックの死が計画的なものであった事には言及していない。つまり、彼の死は、マルコム・ブラウンの写真が伝えると思われる、自発的な殉教行為ではなかったのだ。ある意味、ティック・クアン・ドックの死により、彼の生涯よりも、当時のアメリカ人記者と、ベトナム仏教僧との複雑な関係が明らかになったと言える。ただし、この関係を単なる一方的な搾取として単純化すれば、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を引き起こした背景を完全に見逃してしまう。 当時、ディヴィッド・ハルバースタムや、ニール・シーハン(Neil Sheehan)、マルコム・ブラウンら、アメリカ人記者は、何か月もの間、足繁くサーロイ寺(Xá Lợi pagoda)に通っていた。なぜなら、ベトナム人僧侶が、公衆の面前で腹切か焼身自殺によって、ジェム政権の宗教弾圧に抗議するとの噂があったからだ。当然、そのような事件の写真があれば、新聞が売れるため、アメリカ人記者は事件の写真を撮ろうとしていたのだ。これについて、ハルバースタムは、「そういう商売だったのだ」と説明する。 かくして、ベトナムでシーハンの「ピンチヒッター」を務めていたレイ・ハーンドン(Ray Herndon)は、1963年6月11日にカメラを自宅に忘れたがために「ピュリッツァー賞を逃した」と悟った。 実際、彼はピュリッツァー賞を逃し、ブラウンが、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を撮影した写真で1964年にピュリッツァー賞を受賞した。 当時、ベトナム仏教の僧侶は、アメリカ人記者との関係を利用して自分たちの運動を推進しようとしていた。例えば、アメリカ人記者を使って秘密警察を寺院から遠ざけるため、僧侶たちは、デモ現場から遠く離れた場所の偽情報を記者に伝えた。また、彼らは記者を利用し、自分たちの抗議も発表した。例えば、焼身自殺の前夜には、統一仏教教会の広報主任、ティック・ドック・ニェップ(Thích Đức Nghiệp)が、マルコム・ブラウンに電話をかけ、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を告知した。さらに、ティック・ドック・ニェップをはじめとする僧侶数名は、この計画全体を指揮していた。つまり、車や運転手、ガソリン、さらには、ティック・クアン・ドックの身体を焼く炎を消し止めようとする警官を阻止する人垣も、彼らが手配したのだ。 このように、アメリカ人記者と、ベトナム人僧侶が手筈を整えたところで、ティック・クアン・ドックは自身の役割を完璧に果たした。なのに、「彼はゲームの駒に過ぎなかったのか?彼は何のために死んだのか?」と問う者は一人もなかった。だが、ティック・クアン・ドックは、弟子に残した一遍の詩の中で、自分の焼身自殺の意図を、ベトナム仏教徒のためと説明している。彼は、自分の身体が燃える様子を、寄る辺なくさまよう者たちを導く「闇に差し込む灯火の光」として描いた 身体が燃え尽きると、その煙は火がついた線香の香りのように静けさをもたらし、ジェム政権の仏教弾圧に「無知」であった人々に、これを知らせる。 やがて炎が消えると、灰が、仏教とカトリック教の「(宗教的)格差を埋める」、ティック・クアン・ドックは、このように想像した。 彼は、自分の霊魂が人々を覚醒させ、仏教徒を救済し続けることを願っていたのだ。 経典 アメリカ国民は、ティック・クアン・ドックの焼身自殺に感銘を受けたが、中には、この行為を受け入れられない者もいた。例えば、ニューヨークからストックホルムに向かうフライトで、あるアメリカ人女性は、ティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh)にこう言った。ティック・クアン・ドックの焼身自殺は、「(彼女には)異常者の行為のように思われた」。 つまり、彼女は「焼身自殺を野蛮で、暴力的で、狂信的な行為で、精神的に不安定でなければ成し得ない行為だと考えていた」。 これに対し、ティク・ナット・ハンは、女性に説明を試み、次のように語った。かつて自分がティック・クアン・ドックと共に暮らした時、「彼が非常に親切で、明晰な人物だと分かり、焼身自殺を行った際も冷静だったし、頭もしっかりしていた」。 だが、女性は彼の話を信じなかった。 […]

Issue 35

မိမိကိုယ်ကို မီးရှို့ဆန္ဒပြတော်မူသော ထစ်ကွမ်ဒုဆရာတော်၏ ဘဝဖြစ်စဥ်၊ ဘာသာရေးနောက်ခံကို ပြန်ပြောင်းအမှတ်ရခြင်း – ပျံလွန်တော်မူချိန်မှ ဖွားတော်မူချိန်အထိ

၁၉၆၃ ဇွန်လ ၁၁ ရက်နေ့တွင် ဗီယက်နမ် ဘုန်းကြီးတပါးဖြစ်သူ ထစ်ကွမ်ဒု ဆရာ​တော်  (Thích Quảng Đức) သည် ဆိုင်ဂွန်မြို့တော် လူစည်ကားရာတနေရာတွင် မိမိကိုယ်ကို မီးရှို့သတ်သေပြီး ဆန္ဒပြခဲ့သည်။ သူ့၏ လုပ်ရပ်က ဗီယက်နမ်စစ်ပွဲ၏ မေ့မရသော ပုံရိပ်တခုအနေဖြင့် ကျန်ရစ်ခဲ့လေသည်။ ထိုသို့ ကျန်ရစ်ခဲ့ရခြင်း အကြောင်းတစိတ်တပိုင်းမှာလည်း AP သတင်းထောက် မယ်လ်ကွန်ဘရောင်း ရိုက်ကူးခဲ့သော နာမည်ကျော် ဓာတ်ပုံများကြောင့်လည်း ဖြစ်သည်။ ယင်းဓာတ်ပုံများက လူတယောက် […]