1957年から2010年までのミャンマーの歴史は、現在も続く国軍(現地ではタトマドー: the Tatmadaw: と呼ばれる)と、様々な少数民族武装勢力(EAOs)との武力衝突を特徴とする。この間、国軍は、時として一部の組織と停戦に至る事もあったが、2010年に開始された政権移行には、より包括的な和平合意の達成という明確な目標があった。この全国停戦合意(The Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)は、2011年に政権を取った軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)政権が提案したもので、これが変化のきっかけとなった。この記事では、停戦交渉に向けてUSPDが用いる新たなアプローチから、国民民主連盟(the National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下で進行した、政治交渉の官僚主義化まで、和平プロセスの展開を分析する。その後、2021年2月のクーデターが和平プロセスのステークホルダーの立場や認識、関係に、どのような影響を与えたかを検討する。だが、これらの考察によって、当事者全員に自分たちが「勝つ」という思いがあるうちは、和平交渉は再開されそうにない、という残念な結論が導かれる。何より、たとえ和平交渉が再開されたとしても、もはやNCAは平和を実現する有効な手段とはならないだろう。 社会契約が無い国の中央集権化 ミャンマーには、実に多様な民族集団があり、話される言語には、ビルマ語や、シナ・チベット語、タイ語、モン語やサンスクリット語由来の言語などがある。そのせいか、英国植民地支配の下では、ビルマ中心部が直轄統治を受けた一方で、山間の国境地帯は、現地の少数民族の指導者との一連の曖昧な取り決めを通じて支配された。 1947年には、ビルマから植民地の支配者を追放するため、多数派ビルマ族とカチン族、シャン族、チン族の指導者間に緩やかな同盟関係が結ばれた。ただし、この協定の規定では、10年後に連邦国家の設立に関する国民投票の実施が求められていたが、これが履行される事はついになかった。その後、1962年には国軍が権力を掌握し、国軍によるミャンマー支配は、2010年に政治、経済、和平をめぐる移行期が開始するまで続いた。だが、国軍はその後も、文民政権との臨時的な権力分担の取り決めを通じて自身の影響力を保った。 1957年から2010年までは、軍事支配に対する、武装した少数民族の抵抗運動が広範囲で行われていた時代だ。この運動の主な目的は、少数民族の自治、あるいは独立を達成し、少数民族の地域から国軍を追い出す事だった。確かに、一部のEAOsはイデオロギー上の信念のもとで結成されていたが、大半の組織に、その政治的思想の指針となる「世界像(Weltbild)」があったとは言い難い。 国軍はその統治期間を通じ、様々な武装組織と停戦交渉を行うことで、そのような組織の鎮静化を試みた。これらの交渉の成果は様々で、中には何十年も停戦が続いているもの(例えば、モン州やチン州、ワ州など)もあれば、(カチン州など)不安定で、紛争が繰り返される例もある。だが、これらの停戦協定は単なる紳士協定に過ぎず、紛争を煽る不満を和らげるための、政治体制の変化に向けたさらなる交渉にはつながらなかった。しかも、国民アイデンティティや、少数民族の包摂という概念についての議論も行われず、多数派ビルマ族の象徴的な中心性がそのままとなった。これと同時に、少数民族は(認識上、事実上の)「ビルマ化」政策を、自分たちが必死に闘って守ろうとしているアイデンティティの存続を脅かすものと理解した。 和平プロセスの第一段階(2010—2015) 2010年に政治的自由化(political opening)が開始された後、軍政寄りの連邦団結発展党(USPD)が当選を果たし、1962年以来の準文民政権として権力を握った。当時、USDPが実行した多くの改革には、少数民族地域の鎮静化という新たな試みがあったが、同党はこれに全く新たな手法で取り組んだ。すなわち、以前の和平交渉の多くが臨時的で、現地の国軍司令官とEAOsの個人的な会談だったのに対し、新たな交渉は閣僚級の担当者を中心とした、はるかに組織的な会談だったのだ。 さらに、政府の交渉責任者(ウー・アウン・ミン元中将: U Aung Min, a former Lieutenant General)は、誠意を持って会談に臨む気があるなら、どのような武装勢力とも無条件で会うつもりだと表明した。また、彼が自分の善意の証として、交渉に備えて設立したミャンマー平和センター(Myanmar Peace […]