東南アジア一帯で高まる宗教的保守主義と不寛容の傾向は、2000年代後半以降、幅広くメディアや学者たちの注目を集めてきた。インドネシアの首都ジャカルタで行われた大規模な街頭デモは、20万人もの人々を巻き込み、知事選を控えた華人キリスト教徒の大物政治家であるバスキ・チャハヤ・プルナマ(Basuki Tjahaja Purnama)氏(通称「アホック/Ahok」)の起訴を要求、これが悪意に満ちた展開となり、彼は選挙に敗北したばかりか、冒涜罪によって禁固二年を言い渡される結果となった。現地で「Aksi Bela Islam(イスラム擁護運動)」と呼ばれた、この人気政治家に対するムスリム動員の成功とその結果は、彼の宗教的、民族的アイデンティティに基づくものであり、学者や評論家が「保守的な動き」あるいは「宗教的不寛容」と表現する広範な傾向の一部として一般に受け取られた。この傾向は、過去十年の間にインドネシア全域に生じたものである。 著者の主張は、少数派コミュニティに対する宗教的不寛容が、政治の民主化と政治化された宗教的アイデンティティを背景とした、保守主義の宗教エリートと宗教的過激派の間で結ばれた非公式の連合の結果であるという事だ。従来の見解が宗教を世俗エリートの国家権力追求のための政治の道具と見る傾向と対照的に、著者の相対的な見解は、社会運動理論の研究者によって宗教的な権威やエリートの「認証」と呼ばれるものが、小規模で非主流の過激派集団にとっては、ムスリム国民を上手く動員しつつ、世俗派の政治家や国家機構に集団的不寛容(Tilly and Tarrow 2007)を許容させる上で不可欠である事を論証する。従来の宗教エリートの観点から見れば、イスラム教の名において、彼らが「イスラム教とウンマ(umma:イスラム教徒の共同体)」の敵」と見なすものに対抗して形成された「神聖」ムスリム連合は、自由主義者や世俗派勢力の人気(と脅威)の高まりに直面した彼らの、宗教的権威と政治権力を増大させ、確立させようとする試みとして解釈されるべきである。 ムスリム主流の東南アジアにおける宗教的不寛容 宗教的不寛容の傾向、特にムスリム主流派による宗教的少数派に対する攻撃は、2000年度半ば以降、劇的に増加してきた。インドネシアでは、ムスリムの小宗派も含む宗教的少数派に対する過激派による攻撃が民主的統治の確立と共に増加した。フリーダム・ハウス(Freedom House)によると、インドネシアの自由度は2016年に3まで急落した(「最も不自由」は7)。以前は「大いに自由」という地位でより良い点数であったが、政権移行後に市民の権利と自由が低下した結果である。さらに、多くの不寛容行為や暴力行為が「穏健派」とされる集団によって実行されている。例えば、アフマディア派とシーア派に対する暴力行為が目立って多かったコミュニティは、伝統主義のムスリム組織で長く寛容と受容の典型とされていたナフダトゥル・ウラマー(Nahdlahtul Ulama /NU)と結びついていた。 マレーシアで同様の宗教的不寛容が顕著となったのは、2008年にこの国の政党優位の権威主義的政権がかつてない程に強力な野党に直面して以来の事であった。インドネシアでは、宗教的不寛容がアフマディア派やシーア派に対する数多くの攻撃に見られるような暴力行為となって現れる傾向があるが、これと対照的に、マレーシアでの不寛容は法廷や街頭、メディアに表出する傾向がある。とはいえ、小規模な暴力行為は周期的に生じている。 逆説的ではあるが、宗教的不寛容の事件がインドネシアとマレーシアで増加するのは、支配層の世俗派エリートが宗教的改革主義と闘い、国家のイメージと平和な宗教間関係を守るために「穏健なイスラム教」に向けて献身する事を誓う時である(Hoesterey 2017)。だが、世俗派支配層のエリートや主流派ムスリム組織によって立てられた誓いは、実際には注目されず、より強引で不当に目立った過激派や保守主義のイスラム教が市民社会や政策決定に見られる事となる。 インドネシアとマレーシアの両国において、従来の宗教エリートは、2000年代を通じて、概ね世俗的な国家構造の中で国家権力や国家当局に参入する機会をより多く獲得して来た。保守派エリートは、このような機会や世俗派エリートからの支援を、自分たちのイスラム教支配とイスラム社会の構想を促進し実施するために役立てたのである(Bush 2015, Ichwan 2005, 2013, Hamayotsu 2006, Salim 2007)。保守派エリートの中には、国家及び準国家の宗教官僚組織や諸機関に進出して権勢を振るいながら、類似する保守的な指針や目標を共有する過激派集団と連携する者たちもあった。彼らが国家構造や政策決定に進出した事で、国家の指導者や主流派イスラム教組織によって作られた穏健的で自由主義的なイスラム教を促進する諸制度や取り組みが損なわれる事となった。 地方政治、ムスリム「神聖」連合と反少数派の動員 インドネシアにおいて宗教的少数派に対する宗教的不寛容が劇的に増加したのは2000年代半ば以降の事である。そのような暴力行為の標的となった少数派集団の中でもアフマディア派は最たる被害者であり、これらの事件のおよそ65%が、この構成員や資産、象徴を対象に、主に西ジャワで発生したものだ。もう一つの標的としてよく知られるシーア派への暴力行為は、東ジャワのマドゥラ島のサンパン(Sampang)という小さなコミュニティに限定されていたものの、結果的に最も壊滅的な物理的損害と強制退去とをコミュニティの構成員165人にもたらした。 国家レベルにおいて、保守派の宗教エリート、特にMUI(インドネシア・ウラマー評議会)や宗教省を牛耳るウラマーたちは、主流派ムスリムと少数派コミュニティの間の敵対心を増長させる上で決定的な役割を果たした。MUIの高官たちは、スシロ・バンバン・ユドヨノ(Susilo Bambang Yudhoyono)大統領(2004-2014)によって新たに与えられた権力や権威を利用し、公式宣言や宗教的見解(ファトワ/fatwa)を出した。彼らの見解がインドネシア全土の主流派ムスリム・コミュニティに発信したのは、インドネシア社会に非イスラム分子や反イスラム分子が拡大し、進出したため、彼らの宗教的優位や結束が脅威にさらされているという事であった。これらの不安感を構成しているものは、超自由主義の聖職者アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid /1999-2001)や、非ムスリム寄りとして広く知られる与党PDI-P(インドネシア闘争民主党)の女性議長メガワティ・スカルノプトリ(Megawati Sukarnoputri /2001-2004)らが大統領職に就いた事で、インドネシアでのムスリムの指針が損なわれてしまったとする認識である。現大統領のジョコ・ウィドド(Joko […]