漫画は長らく、フィリピン文化の一部となってきた。例えば、Ambeth OcampoとDennis Villegasは、フィリピンの英雄であるホセ・リサール(Jose Rizal)を漫画で描いた最初期の人物の一人だ (Villegas, 2011) (Ocampo, 1990)。John A. Lentは、フィリピン人がはじめて漫画に魅了されたのは風刺画を発表していたスペイン占領時代であるとしている (Lent, 2004) 。1930年代はフィリピン漫画の創成期と見なされており、Tony Velasquezの“Mga Kabalbalan ni Kenkoy”が出版された時期であった。そのため、Velasquezは「フィリピン漫画の父」と認識されていた(Roxas & Arevalo, 1985)。しかし、その出版よりも先に、フィリピン人は1900年代にはすでに風刺画を制作し、消費していた(McCoy & Roces, 1985)。 風刺画が社会問題をそれとなく批判する手段であるとすると、漫画は手頃な娯楽の一形態と見なされ、フィリピンの人々はこれを消費することで、日々の現実から逃れようとしていた。しかしReyesは漫画の主要なテーマが、単にファンタジーに関連したものだけでなく、現実的側面も含むものだと考えていた。そして、作家たちは漫画というメディアを、笑いの提供から洗練されたストーリーテリングのジャンルへと変化させる。1930年代から1980年代にかけて、漫画のレパートリーに含まれるようになったロマンスやSF、成人向けなどの様々なジャンルは、実質的にフィリピン文学の神話や叙事詩、小説や短編作、awitやcorridoにとって代わる事となった。漫画の魅力は、単に手頃であるというだけでなく、その言葉づかいや、絵が文を補う点にもあったのだ(Reyes, 1985)。 このメディアが成熟すると、漫画は教育的用途を含むようになった。日本占領期の後、漫画家たちは戦争に関する物語を制作するようになった。その最初期の作品の一つには、Antonioの“Lakan Dupil: Ang Kahanga-hangang Gerilya”がある。これは1947年3月にLiwaywayマガジンから出版されたものである。この連載は、想像上の登場人物を中心とし、日本占領期を舞台にゲリラ活動やカリバピの裏切り、憲兵隊の拷問などを描くものであった。フィリピン最大の漫画出版社、Ace Publications, Inc.は、教育的古典(Educational Klasiks)の第六巻を刊行した。これは1960年1月11日に始まったもので、その意図は、これを私公立の学校の補助的読書教材にする事であった(Komiklopedia, 2007)。 このような歴史ものの漫画が存在しても、読者たちがこれを教育的目的で使い始めるには、時間がかかるだろう。最も初期の作品は、Balagtasの“Florante at Laura”で、これはPed […]