農民反乱」という眼鏡を通してみた南部の状況  ニティ・イアウスィーウォン

Nidhi Aeusrivongse

        
主役はごく一般の多数を占める人々

  今年になって起こった南部の諸状況が社会的な広がりをもった運動であることは否定のしようがない。事件に関わった人物は100人を数え、実行を支えた層も含めば、1000人、いやそれ以上になるかもしれない。 1

  これほどまでに広範な社会的な運動の指導者は誰なのか、背後で糸を引いているのは何者か、どんな人物からの援助があるのかといったことは、私の興味の範囲にはない。「親玉」が誰なのかと探したところで、そんなことは何の理解の助けにもならないのだから。南部において進行中の動きは、軍からの銃の強奪、公務員の殺害、学校への放火、警察組織に対する集団的な襲撃等々のそれぞれ個別の事件ではなく、多くの人間が関わりを持つ運動なのである。これほど多くの人間を操り欺いてこれらの凶悪な行為に駆り立てることなど(麻薬に頼ったとしても)、誰にもできるものではない。それぞれ異なった目的を持った、ごく普通の多数を占める人々―小さき人々が集まって運動を起こすのを後押しする何か他の要素があるはずである。南部の状況を理解するためには、これらの人々の生活を取り囲む環境を知る必要がある。

  権力主義国家は、社会運動に参加する一般の人々には関心がない。普通の国民が政治、社会を直接に動かす力を持つとは考えもせず、何らかの人物、報酬によって動かされているに違いないと理解している。

  運動に誘い込むような人物、報酬がたとえあったとしても、運動に加わっている小さきの行動を説明しきることはできない。なぜなら、参加しないことに決めたその他大勢の一般の人々と参加を決意した人々の二つの存在があるからだ。いかなる理由によって、あるグループが一つの選択を行い、別のグループはそれとは違った選択を行なったのか。

 誰が主役なのか

  多くの死者を出した4月28日の事件は、これらの小さき人々は何者なのか、ということについて、偶然ながら我々にいくらかを知らしめることとなった。

  マスコミによる情報からわかる限りでは、4月28日に実行犯として送り込まれてきた人力は、ことごとく地方の人間であったといえる。このことは、第四軍司令官が、「これらの人物はソンクラー県サバーヨーイ郡または、ヤラー県カーバン郡、ヤハー郡、ターントー郡、アイユーウェーン郡、ベートン郡において武器の取り扱いに関する訓練を受けていた。」と語る言葉と一致している。彼の言葉によれば、これらの地域は一面の森林、山岳地帯であり、関係者が調査に入ることはできない。(マティチョン誌、5月3日)

  第四軍司令官の言は、軍の消息筋からの情報とも一致している。「二十歳以下の青少年(実際この言葉をなんと訳してよいのか戸惑う。後になって発表されたところによれば、死亡者の多くは25-30才であり、二十歳以下の青少年と訳すにはふさわしくない。)に対して森林、山岳地帯、人里離れた村近くで、秘密裡に武器取り扱いの訓練が行なわれていた。この訓練を受けた者たちは、公務員を襲撃することによって集団内での地位を急速に上げていた。」

  筆者は死亡者の家族の経歴に関する詳細を調べてみようとした。しかし、マスコミはこの点に関して関心がなく、ほんの僅かな情報しか得ることができなかった。

  負傷者の一人にアブドゥルローニン・チェロ氏がいる。パタニー県コークポー郡の住民である。彼の妻はインタビューに対し、職業はゴムの樹液採取の日雇いだと答えている(5月2日付マティチョン誌)。家族の暮らし向きは、自らの資本を持たない地方の日雇い労働者というかなり貧しいものであったことがわかる。

  サバーヨーイ郡刑務所を襲撃し、19人の死者を出した実行犯の居住地であるサアン村は、ターンキーリー区に属している。区長は以下のように語っている。「最大の問題は教育です。若い者の多くは仕事にあぶれ働き口がない。というのも小学校6年しか終えておらず、最高でも中学3年と学問がない。両親を手伝ってゴムの樹液を採取する他には何もすることがないんです。」(5月2日付マティチョン誌)教育程度、職業からみても、地方の崩壊という現象の犠牲者であることがわかる。

  確かに、共に射殺されたサーラプー・ヨンマケ氏、マローニン・ヨンマケ氏のような例外もある。彼等の父は、失ったもの、とりわけ、イスラムウィタヤー校中学6年級を終了し、警察学校に今年入学するはずであった息子(どちらを指しているか不明)に対する無念の思いを吐露している。しかしながら、次の情報は、襲撃の実行犯、或いは運動全体も、伝統的なエリート層、とりわけ宗教的指導者とつながりはないのではないかと我々に思わせる。4月27日付けのバンコクポスト誌は、ヤラー県ラーマン郡ダーローハーロー-ラーマン通り、パタニ-県コークポー郡、ナラーティワート県ルーソの南部三県の諸地域においてビラがばら撒かれていたと報じている。このビラにはある宗教指導者が制服の警察官に対し何かを手渡している絵が描かれ、イスラム教の指導者は南部の騒乱に関する情報を警察に提供すことを止めるように、という要求がタイ語で書かれている。

  この要求から見て、宗教指導者の大部分は運動と関係がなく、活動家や運動との心のつながりもない、と言える点に注目したい。筆者は、活動家や運動が宗教界以外の伝統的エリート層ともしっかりとしたつながりを持ってはいないのではないかと、かなりはっきり感じている。実際、政府筋が今日に到るまで行っている「親玉」の逮捕拘留、起訴などは、彼らが訴えているほどの真実味があると証明しきれているものは一件もない。筆者は(軍事熟練、国内治安維持委員会第四本部)によって編集された「ケーススタディー報告」中の二例を読む機会があった。この報告書によれば、事件のすべては、地方レベル、国家レベルでの伝統的エリートにかかわりがある、と述べている。しかし、その内容はあやふやで勝手な思いつき、根拠のない疑惑で成り立っており、自分自身の関わっている問題に都合よく証拠を解釈しようという意図があるようだ。(にもかかわらず多くの政府指導者の信ずるところとなっている。)筆者は、小さき人々によるこの運動は、実行メンバーは地方の宗教エリート層とかかわりのない運動者であると主張したいのである。

  PULO、BRN、 Bersatuといったタイ政府に対する抵抗運動は、今回の動きと自らのかかわりを誇示しようとはしている。が、それほどの関わりはないのではなかろうか 2。これらの抵抗運動組織が小さき人々の諸行動を支え、称賛しているということは確かにありそうなことではある。直接の後押しはしないまでも、政治的目的にかなった効果はあるだろう。実際のところ、PULOやBRNの組織はそれほど堅固なものではなく、これらの組織が、今回の運動のように広範、長期にわたる運動を実施できた例はない。

  4月28日の事件後のPULOの声明を注意深く読めば、彼らが事件を自らの仕業とは言明していないことがわかる。PULOは、「英雄」の犠牲の精神と勇敢さを褒め称えていながら、実際はその英雄達と面識がないのではないかと思わせるところがある。タイの当局が死亡者の姓名と家族構成について造作なく把握していることは、PULO側も知っているはずである。にもかかわらず彼等らの声明においては、「英雄」は無名氏のままの扱いになっている。

 主役の理想

MalaysiaThailand_(en)マスコミが政府、また政府高官から受け取った歯切れの悪い情報によれば、実行犯らはタイから独立したパタニーの国家を建国したいという分離独立の意図を持っており、過激な民衆蜂起をよしとするイスラム教徒の一派からの影響を受けていたということが示されている。

  死亡者の遺体検分から出た証拠からにせよ、逮捕された実行犯の供述からにせよ、そういった含みを読み取れるものは確かにあるだろう。だがここでは、そういった証拠類の中に述べられている理想をまず細かく調べてみよう。

  活動家(PULOなどの支持者も含む)とその運動の内容は、タイから独立したパタニーの国家の樹立をあるいは欲しているのかもしれない。しかし、少なくとも4月28日に至るまで、これらの運動は、現代の世界において実行可能な形をとった分離運動を促すような動きを何一つ行なっておらず、新しい政治組織を樹立し、世界の超大国に認識され理解と同情を得ようとする真剣な努力の跡は見られない。仏教国タイの統治下におけるマレー系イスラム教徒の困苦を、世界に対し具体的に知らしめていく宣伝すらも行なわれていない。

  現代世界において、タイレベルの政治、経済上の重要性を持った国からの分離独立を求めるのなら、少なくとも超大国からの認証を得ない限り実行は不可能である。アメリカ合衆国、中国、EU、日本、あるいはアセアンであっても、タイが分裂し騒乱状態にあるよりは、社会的に安定している方が自国に利益を得やすいからである。

  実際に行なわれている政府機関の役人の殺害、政府の小規模軍事組織への攻撃、学校や公共施設への放火は、独立国家建設への道程ではありえない。活動家側の兵力が、タイ国家側のそれに勝利をおさめようなどということは考えも及ばない。上記のような闘争をすればするほど、結果は自らの兵力が打撃を受けるだけのことである。学校への放火など、一般民衆に危害を加えるような熟慮を欠いた方法はさらにまずいやり方であり、タイ政府のより大規模な兵力からの攻撃を招き、それに勝つ見込みなど望むべくもなくなり、騒乱を引き起こす自らの力を狭めてしまう。

  タイ国家からの分離にとっては、タイ国民からの支持を得ることは重要であるが、タイの一般的な国民がこういった行動を支持するとはよもや思えない。分離独立主義者側は、タイの一般民衆に対して自らの立場を真剣に伝えようとしたことがない。(いくつかのグループの声明は、タイ語で書かれるようになってきたものもあるが、以前はどれもみなマレー語かジャワ文字で記されていた。)活動家の行動は、分離独立に対するタイの一般的な国民の不支持を結果的により強いものにしていることになる。

  以下のような質問が当然湧き起こってくる。これらの運動は本気で分離独立を考えているのか?それとも、運動の真の目的は、交渉を有利に進めるための場所を確保することに過ぎず、分離独立を口実に、小さき人々を武力闘争に駆り立てたいだけなのか?

  これらの運動は、新国家の未来について、実行可能な姿を描いてみせたことがない。PULOの声明は、「パタニーのマレー人」の国土における資源の盤石さを語っている。確かにこれらの地域は大変に資源豊富ではある。しかし、この豊かな資源、とは具体的には何を指しているのかを声明の中に見出すことはできない。(PULOが言及しているのは、過去における金鉱についてである。)これを見れば、PULO自身もはっきりした計画など持っていないことが分かる。例えば、独立したパタニー国家において、誰がどんな資源を手にするのか?その資源はどのように分配されるのか?また、豊かな資源を全方面にとって公正に使用するために、人口の20パーセントを占め、地元の経済に大きな影響力を持つマレー系ムスリムではない人口層は、新国家においてどのような役割を担い、漁業やその関連産業に投資している外部からの資本家らは、どのように投資を行なうのか?

  新生パタニー国家の文化的個性が問われれば問われるほど、地方言語の使用とイスラム教の国教性があいまいになってくる。この新国家はイスラム国家なのか?イスラム国家という言葉はその厳格さにおいて様々な程度があるだろうが、パタニー国家はどの程度イスラムなのか?

  過去のパタニーの繁栄についての言及はいくらか見られる。が、パタニー史の復興は運動自体の手によるものではない。ヒカヤット・パタニー続編は、イブラヒーム・スークリーの作品である。筆者の知る限りにおいては、どんな分離運動においても彼の名を見ることはできない。そればかりか、普及している謄写版のマレー語版の原本は、ルーミー文字でマレー王語によって記されている。ということはつまり、教育程度の低い民衆には読めない文字と言葉で書かれているということである。実際には、タイの国立研究機関訳のタイ語版の方が広く一般に普及しており、タイにおける研究中にかなりよく引用されている。

  こういった実の無さの中で、ただクルーセーのみが一般の民衆が無理なく触れえる文化の象徴となっている。パタニーのクリス(短剣)の復興の努力やその探索、過去の技術を用いた複製は、タイ人研究者の手によって(土地の人々との協力によって)行なわれている。その予算は、政府機関であるタイ国研究基金から捻出されており、過去、現在におけるタイから独立したパタニー国家という文脈においてではなく、タイ国家の地方文化として研究報告されている。

   分離運動は、独立国家としてのパタニーあるいは少なくともタイ国家からの「弾圧」

  からの開放を夢見ているのかもしれない。とはいえ、それぞれの運動、特に現場での実行犯はあまりはっきりとしない夢の中の像を眺めているに過ぎない。しかしそんなことは大したことではない。夢の中のパタニー国家はただの象徴であり、理想像の中の国家として語られているに過ぎないのだから。現状に反していても何だろうと構いはしないのだ。現実に維持していけるような国家について思いを馳せている者など誰もいない。運動の中で語られている国家は夢の中の国家であり、理想を現実化する方途が全くない現在において、未来における現実性はない。

  PULOの声明ですら「陸上と水中における資源のみをもってしても、我らが同胞であるブルネイのごとき豊かな国家を築くことができる。」と語っている。この文からわかるのは、ここに掲げられている国家像は理想像中の国家に過ぎないということである。

  イスラム教という点に関して言えば、政府高官、政府の秘密捜査機関の報告は、この社会運動を海外のイスラム過激派と結び付けようと試みている。しかし、自らのたわごとを証明するに足る証拠を例え一件でも提出し得た者はまだ誰もいない。政府の秘密捜査機関のいくつかは、南部の学校やイスラム学堂において教育を行なうためやって来た外国人イスラム教徒の歴史についてまとめている。どの政府秘密捜査機関にも、国家の安定を脅かす危険性を明確に指摘できた者はない。そういった外国人の多くは、自国での貧困から逃れるためにタイで生計を立てていこうとしている出稼ぎ労働者と同じように、入管から在留延長の許可を受けておらず、まずマレーシアに出国してから、不法滞在を続けるために旅行者を装って密かに舞い戻ってくる。国家の安定を内部から崩していく疑いのある外国人の一例としてあげられるのは、マレーシアからこっそりと戻ってきたが、以前のように学校で教える職が見つからず、マレーシアからの違法輸入品を闇で取り扱う商売についてしまうような人物である。この例が、博学で人々の尊崇を集める「ウラマー」やイスラム過激派の理想に精通した人物でないことは確かである。そしてこの人物がアルカイダなどの過激派の指針を熱烈に信奉しているということはよもやありえないだろう。彼は国境なき現代世界の中で、ただ貧困にあえぎながら苦しみ彷徨っている人間である。

  このように、活動家の行動に見られる「イスラム」的なものを検討してみたところ、それらは全てイスラム教徒なら誰でも知っているような基本的な原理であり、彼らが、いや運動そのものですらイスラム教の深い知識を持っていると知らせるものはない。警察と軍は、これらの運動、活動家と、海外のイスラム教に造詣の深い師との関係を好んで語りたがる。そのようなつながりが実際にあるとしても、今回の社会的運動に何らかの深遠なイスラムの教えを見出すことはできない。分離独立の正当性を、宗教的論争に深く照らし合わせて説明しうる証拠書類は一通も見られない。PULOの声明は「カーフィー(邪見の者)の支配下に入ってはならない。現世、および来世において、カーフィーを支配者に戴く者が成功を修める日が訪れることは無い。」というコーランを引用している。が、筆者が問い合わせたイスラム教を知る人物は、コーランの中にこの項はなく、似通った項もあるが、様々な意味合いに解釈できると語ってくれた。その上、声明中に言明された要求が目指すところは、「パタニーのマレー人同胞よ、あらゆる地のマレー人同胞よ立ち上がれ。邪なシャムとのあらゆる形の戦いに立ち上がれ。」であって、イスラム教徒に対する呼びかけを企図してはいないのである。

 死亡者のうちの幾人かは背に「神の他に神なし」という句のアラビア語訳を書きつけた服を着ていた、と報じているマスコミがいくらかあった。このアラビア語は、仏教徒にとってのナモータッサのようにイスラム教徒なら誰でも聞き親しんでいる句である。なぜなら、全てのイスラム教徒が唱えなければいけない誓詞の半分だからである。「アラーの他に神なし。預言者ムハンマドはロースーン(教えをもたらす者)である。」(スィーサック・ワンリポードム教授の民衆研究者創出計画下の一研究「社会文化における変化研究計画、パタニー県ヤリン郡ダート村、プーミー村に関するケーススタディ」32ページに登場する民衆の言い習わし方に従って訳した。)

  死亡者の服の背に書かれていたアラビア語の章句について伝えているマスコミもあった。この句は、「神のために死なん。」と勝手に訳されていたが、本当は「ラーイラーハーイルラルロー」であり、ダート村の村民が言い習わしている訳によれば「アッラーの他に跪拝を受けたまう神なし」(これは前述したイスラム教徒の誓詞の前半である。)という意味である。病人が死に臨んだ時、親戚、友人がこの誓詞の前半を唱えさせるのが習慣である。なぜなら預言者ムハンマドは臨終に際してこの句を唱えたと信じられているからである。(前掲「ケーススタディ」、33ページ。)

  実行犯の服の背に書かれたアラビア語の句は、彼らが死を覚悟していることを意味しているか、さもなくば、彼らはイスラム教徒にとっての重要な句を呪文的に用いていたのだといえよう。なぜなら、イスラム教徒の村民の生活の中で、さらに「神聖な」アラビア語を探すことは可能だからである。

  同じように、実行犯が警察側を襲撃する際に「アッラフー アクバル」(Allahu Akbar,  - 神は偉大である。)と叫んでいたとの報道もあった。世界中のイスラム教徒は、この神への賛美の語に慣れ親み、何世紀にもわたって唱え続けてきた。彼らにとって「神聖な」句であるといっても間違いない。

  これらのことを考え合わせると、実行犯のイスラム教に関する知識や理解は、一般のイスラム教徒村民とさほど変わらないと言えるだろう。またその他には、既に述べたように、今回の社会運動は伝統的な指導者層とのつながりを持たず、実行犯のイスラム教の知識は、師匠レベルの精通には達していないこともわかる。

  (警察や政府が好んで語りたがるイスラム学堂とのつながりだが、証拠が全く見つかっていない。例としては、イスラム学堂に戦時に用いるような武器が隠してある、とする報告がある。特捜部隊が派遣された際には、法律に反するようなものは何も見つからなかった。が、政府側は、捜査のニュースが漏れていたため、武器を発見できなかったのだと説明したがる。逮捕できれば疑いの正しさが証明され、できなかったとしても疑いは晴れない。政府はいつになったら自らの疑いを疑うのだろう。)

  マスコミが誤解を生み出しているもう一つの話題は、死亡者の親族が死体の沐浴を拒んでいるという報道である。神への道のために命を失った者には、復活を遂げるまで沐浴を行なわないのだ、と彼らは報じている。が、南部のイスラム教徒の間では、溺死した者、焼死した者、殺された者、動物に噛み殺された者、死後何日も経っている者、国家や宗教を守るために死んだ者には沐浴を施さないことになっている。(前掲「ケーススタディー」18ページ。)(言ってみればこれらの例は、殺された者の場合、ということであろう。)これらは、清潔という観点から考慮されているのであり、イスラム教はこの点に関しての意識が非常に高い。つまり、死体の沐浴を拒否するということは、イスラム教徒が常日頃行なっている当たり前の事柄であり、必ずしも政治的な観点から見る必要はないのである。

  実行犯たちのタイ政府に対する抵抗は、政治的にせよ、宗教的にせよ、最近になって鼓舞された新たな理想から生じたものではない。そしてこの記事が以下に伝えようと努めているように、村人たちに影響を及ぼしている変動は理想から生じているものではなく、彼らに影響を及ぼしている経済、社会的な変化から生じているのである。

  マスコミの報道から拾い上げた細かな情報によれば、イスラム教ではなく呪術(イスラム教においては容認されていない)が少なからず実行犯たちの行動の中に紛れ込んでいるように思われる。

  4月28日の実行犯たちは黒色の数珠(白色と報道するものもあった)を架けていたと伝える報道があった。マスコミは、パレスティナのハマスに擬えることができることから、赤い格子柄の頭巾にばかり関心を寄せていた。が、筆者は数珠の方に興味を感じる。イスラム教においては必須のものでなく、祈祷には用いられない数珠を何故架けていたのだろうか?イスラム教において数珠を用いるのは、主流派であるスンニー派が容認したがらないスーフィーである。イスラムの歴史におけるスーフィーもまた、知識人やスンニー派を信奉する政府への革命運動を幾度も行ない、スンニー派からの制圧を受けてきた。が数珠はスーフィーの瞑想の際に用いられる道具に過ぎず、「行者」が身につけている霊験あらたかな護符ではないのである。スーフィーが数珠を首に架けているのも、紛失を恐れているゆえに過ぎないのである。

  いずれにせよ、実行者のスーフィーに対する知識はそれほど深いものではない。サバーヨイの若者は、自分達はスプリー主義を信仰していると語っている。(この語の発音について観察してみよう。マレー語にはfの音が無く、マレー人はこの音を用いるアラビア語をfとpのどちらで発音してもよいことにしている。pは、fに最も近いマレー語の音である。教育程度の高い者はfと発音し、一般の人々はpで発音する。例えば、後者は理解する、という意味のfahamをpahamと発音する。スーフィーをスプリーまたはスピーと発音することは、その人物の真のスーフィー主義との親密度がどれほどのものか示しているといえよう。)サバーヨイの若者達は、主義にのっとって、行動に臨む際は、座して瞑想を行い、カサーベ、つまり数珠を数えながら呪文を唱える「マーウムナ」の儀式を行なわねばならないのだと語っている。この儀式は洞窟の中で一ヶ月をかけて行なわれる。行動への準備が整った後、一碗の聖水を飲み干すのだという。

  攻撃に乗り出す前に呪文のようなものを唱える行動については、殆どのマスコミが報告を行なっていた。

  あるテレビチャンネルは、以下のような報道を行なっていた。警察が、実行犯の死体から護符を発見し、その出所を探ったところ、実行には加わらなかったあるイスラム教徒の若者に行き当たった。彼は自分のものであると認めたが、過去に下級の警察官であり、既に死亡している父が持ち主であることがわかった。彼によれば、こういった類の護符は、敵の前で姿を見えなくしてくれたり、武器で狙われても避けることができるなど、持つ者を不死身にしてくれる力があり、死亡した実行犯に欲しいとせがまれたが、何に使うつもりかは知らなかった。

  クルーセーからの報告によれば、実行犯は全員、出発に際して青色の水を飲んでいたとのことである。その水は麻薬ではなく、聖水であるだろうと思う 3

  4月28日の実行犯らは呪術を信じることによって、陸軍司令官をして「実戦経験に照らしても、あれほど勇敢で無鉄砲、人間離れのした者に出会ったことはない。」(5月2日付マティチョン誌)と言わしめるほどの勇猛さを得た。そして呪術にたよった部隊の例に漏れず、呪文が身を守ってくれないとわかるや否や、散り散りになって逃げていった。例えば、サバーヨイ出身者の十六体の死体の例は、攻撃中に友人らを失い、連れ立ってレストランに逃げ込んだが、全員が政府側に殺害された。クルーセーの例に関しては、我々は何が起こったのか真実を知ることはできないだろう。が、実行犯側が三人の人質の解放を認めたことは(4月28日付マティチョン誌)、交渉の道が探られていたこと、また実行犯らの間で呪術の効力への確信が揺らぎつつあったことを示しているように思われる。

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農民反乱

  筆者は、以上の情報を順を追って述べたが、その目的は以下のような結論を導くことである。もし、「親玉」のみに的を絞ったセオリー(視点)、また、いくつかの事故のみに基き、同時に発生し互いにつながりを持ったその他の事件を無視するようなセオリーを用いるなら、最南部でこのところ発生している社会的な変動を理解することはできない。政府内、また公職にある指導者が持ち出してきているセオリーは互いに矛盾しており、(場合によっては同一人の中でも矛盾している)全ての出来事を彼等のセオリーによって説明することはとてもできそうにない。

  今回の動きを最も包括的に説明しうるセオリーを求めるなら、実行に加わった数多くの小さき人々に焦点を当てる必要がある、と筆者は申し述べたい。事実、彼らは社会的運動の真の中心部分であり、今回の動きを理解できるとすれば、その全てを二十一世紀の「農民反乱」として見ることによって可能なのである。

  千年王国運動、あるいはタイ語では農民反乱、弥勒菩薩の反乱と呼ばれるものは、   農民、常緑林でのゴムの受益採取者、沿岸部に住む漁民、畜産業者、狩人、鉱山労働者、少数民族など、地方の零細な人々の応答運動である。これらの人々は、彼ら自身にとって全く理解のできない変化に反応し立ち上がる。この変化は外部から起こり、彼等の暮らしぶりに大きな影響を与える。外部から彼らに影響を与える力とは多くの場合、中央政府かそこから派遣された役人、外からやってきた商人、資本、資本家(彼らは地元の資本家とやっていけるような道具だてを持っており、人に取り付いて内臓を食う鬼と罵られたりする。)、新宗教組織などである。

  こういった小さき人々にも影響が及ぶような変動は、十九世紀の世界において数多く発生し、農民反乱もまた数多く起こった。こういった社会運動についての研究は盛んに行なわれ、十九世紀の農民反乱は、他世紀の同傾向を持った諸運動を解説する際のモデルケースとして用いられることが多かった。いずれにせよ、過去の農民運動にせよ、現代のものにせよ、その説明に際しては、前後の文脈が世界的なレベルで変化を遂げており、そこから生じる相違点があることに注意せねばならないだろう。例としては、伝達、移動手段の発達により、農民運動の活動範囲は狭い地元に限られず、より広範な地域で行なうことが可能になったことがあげられる。また、より凄まじい破壊力を持った軍事技術を当然のこととして数に入れないまでも、より効率よく運動を行なえる組織の運営も可能になった。

  既に述べたように、小さき人々は、自らの身に及んでくる変化について理解していない。そのため、誰が自分にとっての真の敵なのかがわかっていない。闘争のための人力結集は、あるいははっきりとした標的を定められないままに行なわれているのかもしれず、多くの場合、実際に敵であると目されている存在ではなく、敵を象徴する存在に対しての戦いが行なわれている。なぜなら真の敵は、小さき人々の復讐の手が及ぶには遥か遠い外部世界に住んでいるからである。タイにおける例としては、プレー県の大タイ族の反乱があげられる。彼らは土地の「タイ人」の皆殺しを企図していたが、この場合の「タイ人」とは、中央から派遣されてきた役人を指していた。あるいは、現在の最南部の例をあげれば、襲撃を受けた公的機関の関係者とは、下位の警察官や兵士、教師、区長、村長などであり、そのなかには学校の門衛までが含まれている。放火された公共施設の多くは、既に使用されなくなっていたり、遠隔地に設けられていた守衛小屋であった。これら全ては、彼らが敵だと信じているタイ国家を悩ませるにはあまりにも小さすぎる行動である。ヤリン郡のある村人は、以下のように見て取っている。学校を本当に燃やしたいのなら、一日に一校燃やしてもいいだろう。だが、学校を燃やすことはシンボルである必要がある。そこで、政府関係者の手から遠い遠隔地の学校を燃やすのと比べてもずっと危険な、行き来の楽な道路沿いの学校が選ばれている。(研究者と村民の会話録音、前掲ケーススタディ29ページ。)

  目標と掲げる理想や組織運営に関して述べれば、これらの小さき人々は、複雑な理想について思いを馳せることはできない。その多くは、大衆が信仰の対象としているような宗教(民間宗教)によっており、公に認められているような宗教機構との接触は全く無い。つまり彼等の宗教は学士院会員の学者が語るような宗教ではないのである。チャオプラ・ファーンのような出家者をリーダーとした農民反乱ですら、赤色の上衣、内衣を纏うなど公的宗教機構から見れば奇妙で認めがたい形の持戒を行なっていたと言われている。また、奇跡を引き起こすような神通力を好む傾向もしばしば認められる。これら全ては、指導者の個人的な仁徳に依存する農民反乱の組織のあり方と一致している。この例としてはラーマ五世王時代のピーブン(超能力を持った反乱の指導者)の乱がある。指導者の多くは出家し学問に触れた経験があり、煮えたぎった油に手をさっと漬けることができるなどの何らかの神通力を示す。また、農民反乱においては武器が限られており、身辺からかき集められるだけの農具が主であるというのも一致している点である。

  なぜなら農民反乱とは、自身らが満足しかねる変化への反応だからである。例えば、商品、サービスの提供という形ではなく、貨幣による課税を受けること、森林における樹木の伐採を禁止されるなど、以前は利用できた資源の利用を制限されること等がそれに含まれる。農民反乱の理想は、弥勒菩薩の救済の世が訪れつつあるということに重きを置いているものが多い。あるいは、あらゆる人間が平等で、男女間にすら差別を設けず、私有財産のない国家といったような理想の国家を希求する。これらの理想は、自らが慣れ親しみ、「農民」の誰もが良きものと認めているような小規模農業共同体にとっての理想をモデルとしていることが多い。

  そして、農民反乱は、周囲との連携路を持たない小さき人々から発生したために、その大部分は公的に認められた宗教機関の出家者、知識人、地元の政治家、公務員、資本家クラスの商人などの、伝統的な指導者層との関わりを持っていない。(しかしながら、利権、権力の追求における道具として「農民反乱」を利用しようとするこれらの層が秘密裏に援助が行なっていることもあり得る。プレー県における大タイ族の乱においては、地元の有力者のうちいくつかのグループが背後で支援を行なっていた、と信じられている。)このように伝統的な指導者層と無縁であるため、農民反乱の闘争圏は狭いものになってしまう。この狭隘性は、地理的な意味に限らず、政治的闘争、公共媒体、学問、宗教、教育、経済等の諸側面をも含んでいる。多くの場合これらの地盤を一種類でも持っている者はおらず、支配者側の統帥権に対する不服従という手段しか持っていない。討伐となれば即座に戦闘に飛び込む他はないのである。

  十九世紀の原型とは異なる農民反乱という視点に立つことで、今日の南部における社会的運動を解説しうると筆者は考える。十九世紀との相違点は、既に述べたように世界的な状況変化から生じている。例えば、28日の実行犯らが使用した電波は、最南部地域で広く聞かれているラジオ放送であった。運動者側の組織運営も、十九世紀の農民反乱に比較すればかなり効率のよいものになっている。このようなことが可能なのも、現代のコミュニケーション媒体のシステムのお陰である。

  伝統的指導者層との関わり、例えばイスラム教の師匠、イマーム、地元の政治家、あるいは反政府運動組織とのつながりも薄いものであり、少なくともそれ以上のものであると証明することはできない 4。今回の運動を、百年の間に発生してきたパタニーの「反乱」の遠大な歴史の文脈に置こうと試みても、何も説明することはできない。なぜなら、今回の運動は、以前に起こった政治運動とは異なったものだからである。従来の運動は、国主の血筋を引く者、イマーム、土地の政治家など伝統的な指導者層に属する人物をリーダーとしていた。(これらの人物はタイ社会のエリート層に属している。別の言い方をするならば、タイ社会にあって優位に立ってきた側である。ワンムーハマットノー マター、デン・トミーナー、アーリーペン・ウットシンなどの歴史を顧みてみればわかる。これらの人物は、タイ社会とそのシステムに多くの「投資」を行い、その上、「利潤」を大いにあげてきた。宗教をそれなりの時間をかけて学び、イスラム教徒から師匠、イマームと仰がれるようになる人物を輩出し、中にはハッジに旅立ち、帰国してハッジと呼ばれ敬われる者すらいる家系が各地に見られるが、彼らもそういった部類に属する。)伝統的なものにせよ、現代社会の変化の中で生まれてきたものにせよ、目標のはっきり定まらず、実行可能な方途をいまだに持たない社会運動にエリート層が参加することは大変に困難である。実際に一応の目的と目されているものも、エリート層に利をもたらさないばかりか、利益に反することすらありそうである。

  しかし、以上に述べたことは、村民達が過去の出来事とのつながりに関する知識がないという意味ではない。彼らの記憶してきたパタニーの歴史というものも存在している。ヤリン墓地の敷地内に垣を廻らせた墓地の一角があり、ここにはパタニーの国主とその一族が葬られていることを、ダート村の人々は未だに記憶している。村人の記憶によれば、この国主はトレンガヌからやって来た国主であり、タイ側の攻撃を受け撤退を余儀なくされた。それ故、彼等の埋葬された墓地に新たに遺体を葬ろうとするものは無く、この地のイスラム墓地を訪れる者もないのだという。(前掲ケーススタディ、10-20ページ。)

  今回の運動と過去のそれに何がしかの関連を見出そうとするなら、1948年のドゥソンヨーの例がそうだと言えるだろう。

  4月28日を実行の日に選んだことがドゥソンヨーの例を意識したものかどうかについては、筆者にはわからない。が、動機という点において、今回の運動が「農民反乱」であることがわかる。ドゥソンヨーは「農民反乱」の真の原型といえる。ことの起こりは、村の糧食を奪うマレー半島の華人強盗と戦うため、不死身の呪術を身につけようと村人が訓練を始めたことにある。これに対して政府側は疑いを抱き、以前より厳しく監察した。村民は不満を抱き、村の問題に介入してくる国家を締め出すため、殺し合いが起こった。(マティチョン誌5月5日付、ターナワット・セーウンの記事による。この記事の詳細は学者の研究とは異なるが、主な内容は合致している。)この他に何かはっきりした政治的な目標というものはない。

  4月28日の実行犯らが、自らの運動とドゥソンヨーと結びつける意図を持っていたとすれば、特別に興味深く感じられる。なぜなら、彼らがつながりを認めている唯一の運動が、名高い「農民反乱」だからである。

  いずれにせよ、「農民反乱」が社会の下層に位置する小さき人々の運動であるにしても、その他の人々がそれぞれの利害の為に運動に関わっていない、というわけではない。(これについては既に述べた。)PULOやBRNといった既存の反政府運動は、今回の運動との関わりを持とうと努めてきた(が、上述したようにそのつながりは大して深いもののようには筆者には思われない。)。また、土地の政治家の利権の奪い合いの中で、今回の運動に何らかの利を求めて関わっていった者がいたのかもしれない。以上のような可能性はあるが、主題となるべきは社会的に下層にある小さき人々であり、その他は周辺部分に関わっているに過ぎないと筆者は主張したい。

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 「農民反乱」の条件

実際、十年以上前から、最南部の三、四県は社会変容の深刻な影響を蒙ってきた。このような変化全体を要約して言えば、国家レベルでの(国境を越えて結びついている)資本の波及とも言えるだろう。この変化こそが、村人から資源を急速に奪い取るような動きを生み出しているのだ。農民の中には、変化に適応し切れない者もある。筆者はここに、そういった変化のさまを如実に伝えている、スィーサック・ワンリポードム教授のパタニー湾周辺での体験を引用したい。

  「この十年というもの、バーンプー村からパナーレ、ヤリンの地域の経済、社会的な変化を見てきた。内部的な変化といえば、以前は椰子を植えていた海に近い土地に、海老の養殖池があちこちに作られている。外部からの変化といえば、村人が文句をつけるのは大掛かりな船団についてである。彼らによれば、これらの船は、漁業省が水先案内を務める調査漁船と、資本家が送り込んできた巻網船で、網で何十トンものマルスダレガイを掻っ攫っていってしまい、海中の生き物に恐ろしくなるような害を及ぼしている。これに対し、村人は沿岸漁業用の小さなコーレ舟で一日十二キロほどの魚を採っているだけである。」(講演「私は来た、私は見た、私は理解した。パタニーと人間性を保持したままの文化的後進性」5ページより。)

  現在では、よそ者の資本家の所有する大規模船団は、魚を獲りパタニー湾沿岸の資源に甚大な被害を与えている。こういった住環境の荒廃に対して村人が取りうる反応は限られており、場合によっては荒廃をより速めてしまうような反応しか示し得ないことすらある。スィーサック教授は、パタニー湾で起こっている変化について以下のように語っている。

  「三、四年前にパナレーを再訪した際、村人の漁獲高は、以前の十二キロから、二十~三十キロに増えていた。美しかった海岸はごみ屑、貝、蟹、魚の残骸で汚れ(これがいわゆる、全体のために使える時間が減っている、ということである。)椰子園の多くは海老の養殖場となっていた。これらのことは、外部からもたらされた変化によって引き起こされた内部的な変化である。(前掲書、5-6ページ)

  よそ者の資本の稼ぎ場はさらに広がりつつある。筆者が見知ったサミレーのあるイスラム教徒一家の娘は、魚埠頭で魚を選別する日雇い仕事のために家まで迎えに来る車に乗るのが夜中の二時である。彼女は、船から魚の入った竹編みの籠を運び出す若い男達と一緒に働いている。このことは、女性は家族の大きな誉れとされるという土地の慣習に反している。漁民はコーレ舟に新しい装備を設置したり、またその他の投資を行なうために、借金をしなければならない。なぜなら沿岸にはもう魚がいないため、以前より船を遠く出さねばならないからである。また、借金が嵩んでいるため、それに見合った漁獲高をあげる必要がある。そんな中で、機械類の規模を大きくしたり馬力を上げたりする必要が常に生じ、結局は借金を完済することができない。以前は女性がコーレ舟に乗ることは絶対に許されていなかったにもかかわらず、今では家族の中の女性も海に出て仕事を手伝わねばならない。

  村落内の人間関係も変化した。以前は互いに助け合うことができたが、今では資本家と雇われ人の関係に変わっている。スィーサック教授の言葉を借りれば、投機目的で、人より優位に立とうとする関係(もともとの話)である。投資を行なっているよそ者の投資家の多くは、村人がこれまでに触れてきたような土地の投資家とは異なっている。非常に離れた場所にいるか、あるいは全く姿を現したことのない資本家と雇い人の関係になってしまっているのだ。チャナ地方(ソンクラー県)の村人は、自分たちの畑に汚水を流し込んだ工場の持ち主との交渉の道を開けた例がない。同じように、海老の養殖池に接する場所に農地を持った農民も、間接的ではあるがその影響により農業を止めざるを得なくなっている。政府に訴えても効果はなく、影で悪辣さを罵っても、かえって社会的管理体制の恰好の道具となってしまい余計に何の効果もない。

  南部三県において、ゴム園その他に外部から投資がどれほどなされているのかという具体的な数値を筆者は知らない。が、土地の人からかなりの数であると聞いている。ということは、新顔の投資家になった土地の人間にせよ、よそ者の投資家にせよ、身近な形での力関係を築き得ないような者ばかりが村人の周りを囲んでいるといえよう。村人は資源に近づくことが難しくなり、財産を売って日雇い労働者にならざるを得ない。そこで社会、経済に根を下ろしていた伝統的な文化を守っていくことが困難になっていく。

  最南部三県の小さき人々が直面しているのは、あらゆる面における貧苦であり、彼らはどっと押し寄せた変化の波に、自らを不利な立場に立たせないように反応することができずにいる。村人にとっての最後の資源は、教育システムへの参入である。しかしこの道もまた、村人の前に大きく開けてはいない。ヤリン郡の村人は、イスラム教徒には学ぶ場がない、と語っている。ソンクラー大学は他の大学と違って地元の子供たちの入学枠を設けてくれていないと彼らは信じている。(実際には、ソンクラー大学も入学枠を設けている。他の地方大学と同じように、定められた数字以上には地元の子供を優先していないだけである。)入学選抜に公正な基準を用いたとしても、タイ語を殆ど話せないイスラム教徒の子供が競争に加われるはずがないと村人たちは語っていた。

  というわけで、資本主義社会に順応しようと努めても、村人には順応の道が開かれていない。どう反応していいかわかりかねる変動の中で、未来は非常に暗い。

  以上述べたことは、マレー系イスラム教徒のだけの運命ではない。タイ中の小さき人々全ての身に起こっていることである。が、ここには述べていない様々な理由により(例えば、各集団の性格の問題がある。マレー系ムスリムと同じく特異な性格のグループもあるが、他の理由によって選択の道が限られている。)他地域の小さな人々が、「貧しき人の集会」、「少数民族の集会」などのように体制内での戦いの道を選んでいる一方で、マレー系ムスリムは体制外での闘争を選んでいる。

現代の国家における「農民反乱」

  伝統国家の時代であれば、農民反乱が国家に危害を及ぼすこともあった。中には国家の安定を根底から揺るがす例すらあった。例えば、ベトナムのタイソン党の乱はレー朝を倒し、(あるいは革命体制とも呼べるような)異質の統治体制を一時期ベトナム全土に築き上げ、最終的には嘉隆帝の建てた阮朝によって滅ばされた。太平天国の乱は、清朝を根底から揺るがし、平定されるまでに国土の半分を占領した。明朝の創始者である朱元璋は、農民反乱の首領であったが知識人を取り込むことに成功し、王朝を建て、伝統的統治システムによって中国を統治した。

  しかし、農民反乱が近代以降の国家を大いに悩ませるということはない。なぜなら、反乱の活動範囲がそれほど広範に及ばない地域に限られてしまっている一方、対する政府は、近代的な組織管理、技術による軍事力によって権力、支配力を強化している。また、近代以降の国家における社会は複雑化が進んでおり、農民にとっての利害が、他グループにとってのそれと一致しないこともある。こういったグループは、大多数を占めないまでも数多くあり、政治的、社会的権力を手にしている場合が多い。(例えば中間層、また社会的上昇の機会を持った下層の人々など。)そこで農民反乱の社会的立場はさらに狭められてしまっている。その上、現代国家の政治においては、金銭、教育に恵まれた者、組織運営力に優れた者(つまりどれも「農民」にはあてはまらない者)に対し、制度内において要求を行なう機会がより多く開かれているのだ。

  近代国家を目指して改革を行ない始めたばかりの絶対君主制時代のシャムですら、諸地方で発生した「農民反乱」に大した困難もなく相対することができた。創設したての常備軍によって徹底的な制圧が行なわれた。また、「農民」に不満を抱かせた政策を、一部の地域においては緩やかにすることはあったが、全体的には維持し続けることも可能であった。

  他の社会集団を行動に巻き込み得るような複雑さを持った理想が無いために、「農民反乱」は社会の中で孤立した集団になっている。タイにおいては、東北地方の農民反乱は、「ピーブン」の個人的な利益を追求した行動として紹介されている。彼等の味わっていた苦しみが社会的関心を惹くことは無く、結局は忘れ去られている。

  それゆえ、近代以降の国家において国家や政府を揺るがすような「農民反乱」は未だかつて無かった。

  現在の最南部三県の例に関してもまた、どんなに分析を重ねたとしても、タイ国家の保全に影響が及ぼされることはまずありえないといえるだろう。(政府の対応がまずく、殺戮の血の海となったとしても。)いずれにせよ、南部に恒久的な平穏をもたらせるか否かは、ただ「農民反乱」の行動のみにかかっているわけではない。なぜなら制圧が容易であるにせよ、資源を奪い取られ苦しみにあえぐ「農民」は、タイの少なくはない「農民」が、共産党に加わった例のように、「農民反乱」ではない他の反政府グループと共に運動を行なう可能性もあるからである。さもなくば「農民」の苦しみは破壊行為や政府関係者への襲撃とは異なった形の社会的混乱につながっていくかもしれない。

  近代国家、特にタイのような開発国家は常に、「農民反乱」に対し過激な、また場合によっては残酷で野蛮な対策をとりがちである。なぜなら、開発国家にとって反乱をやすやすと起こしてみせる「農民」を理解することは困難なことである。多くの場合、そういった反乱を起こすのは民族、宗教、文化、言語の異なる人々である。(フィリピンのモロ解放戦線、メキシコのインディアン、サラワクの原住民、タイ南部のマレー系イスラム教徒、ベトナムのチャム族、ビルマのアラカン地方のロヒンギャなど。)が、より重要な差異とは、理想面における差異である。「農民反乱」は、よそ者に資源利用の道を開いたり、農民の資源への接近を妨げるような法律、農民の資源利用を立ち行かなくしたり「犯罪」にまでしてしまうような政策に対して、従来行なわれてきた資源の利用法を維持するため闘争を行なう場合が多い。途上国家は、資源の利用にあたって画一化を求めているが(彼らは漁業とダムやガスパイプの建設ではどちらが優先事項か等の順位を決定し得る。)、「農民」にとっては多様な利用法が必要なのである。「農民」は、それぞれの人間がそれぞれの技能に従って資源を利用できることを好むが、開発国家は国家収入をもたらすように資源を一箇所の中心に集中させて用いることを好んでいる。「農民」の要求事項は、「発展」の方向性と真っ向から食い違っており、開発国家の正当性を根底から崩すものであるため、開発国家と折り合いをつけることは不可能である。

  こういった差異のゆえに、近代以降の国家、特に開発国家は、「農民反乱」をまともな人間ではないかのように見なしてしまう。そして以下のように説明する。彼らは、遅れた存在であり、繁栄(開発)に向かって引っ張り出されている最中で、国家の正義の礎になることができない。なぜなら「奴ら」は反乱を起こし、買いあげようとしても売ろうとせず、えさで誘うこともできず、賠償にも応じないのだから追い散らすしかない。追い出しの最も簡単(しかし最も効果的かどうかは不明)な方法は、殺戮して根絶やしにすることである。メキシコのサパティスターの反乱(4月28日の実行犯と同じように多くは、小刀、包丁、棍棒、斧で戦った。)においては、政府に一万人以上が殺害された。共産党員であることはそれでもまだ国家の「敵」として称揚されたが、「農民反乱」はそれ以下の扱いを受けているように筆者は感じる。

 「平和」的解決とは何か

  問題の解決を「平和」的に行なうべきである、ということについて異論を差し挟む者はないだろう。この「平和」という語は武器による殺し合いを行なわない、という以上の意味を含んでいる。南部の非「平和」的状況は、開発政策から生じていると筆者は考えている。この政策下においては、ごくごく一般の人々から資源を奪い取ってしまうような資本の投下が広がるに任されているが、この動きをコントロールし、公正化を図るような能力や意図を政府自身は持ちあわせてはいない。また同時に、(実行面において)各方面に不利益を生まないような形で、土地の一般の人々が資本主義市場に参入していくために必要な能力を徐々に身につけていくような機会が開かれていない。

  上記したような南部での様々な動きは全て、過激であり「平和」の語からは程遠い有様で行なわれ続けてきた。

  お互いの疑心暗鬼を和らげるような手段、法律による公正の厳守、(チャートゥロン・チャイセーン副首相の提案にあるような)相互の憎悪の源となる条件を生み出すような政府作のメカニズムの排除、これら全てについて筆者は賛成である。が、これら全てをもってしてもまだ不十分なのである。開発政策を真に公正なものに調整していくことができるまで、過激さの排除を行なうことはできないからである。

  このエッセーが、国民が南タイ問題の難題をはっきりと見きわめ、開発政策が公正化されていくよう圧力をかける助けになって欲しいと筆者は願っている。筆者のこの望みははかないものであるとも言える。なぜならこのことは、現時点において政治的権力を握る多くの資本家にとっての利害に関わってくる大問題であるからだ。マスコミや中間層は、変革への流れを生み出せる位置にありながら、開発主義国家の主導に盲目的反応をみせているだけである。人の死は、政府側と「農民反乱」の間でまるでサッカーの得点を数えるように、また、賠償可能な物のように扱われているのだ。

Nidhi Aeusrivongse

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 6: Elections and Statesmen. March 2005 

 

Editor’s Note: Nidhi Aeusrivongse has been the dominant figure in Thai historical scholarship for the past two decades. Long on the faculty of Chiang Mai University, he earned a doctorate in history at the University of Michigan in 1976 with a disseration on literature and nationalism in Indonesia. He subsequently published a series of books that revolutionized Thai social, cultural, and literary history. Among the most notable are Pak kai lae bai rua: wa duai kan suksa prawatisat – wannakam ratanakosin [Quill and sail: On the study of history and literature in the early Bangkok era] (1984); Kanmueang Thai Samai Phra Narai [Thai politics in the reign of King Narai] (1984); Kanmueang Thai Samai Phrachao Krung Thonburi [Thai politics in the reign of King Taksin] (1993); and, most recently, Krung Taek, Phra Chao Tak lae Prawatisat Thai: Wa Duai Prawatisat lae Prawatisatniphon [The fall of the capital, King Taksin, and Thai history: On history and historiography] (2002). During the boom years of the late 1980s and 1990s, Nidhi’s ideas reached a broader public through his regular columns in the Thai press, and he emerged as one of Thailand’s leading public intellectuals.

Notes:

  1. 「農民」という単語は、自給農業を行なう小農のみでなく、鉱山労働者、ゴムの樹液採集者、炭焼きなどのその他様々な零細な職業についている人々を含めて用いられている。タイの研究者の多くは、本稿に取り上げたような特色を持つ社会運動を「農民反乱」と表現し、タイの現状に即した説明を行なおうと努めている。
  2. 南タイの現状に関して筆者が手にし得た情報は、その多くが信憑性に疑いがあることを読者に気づいていただきたい。政府は人々を欺き、また隠蔽を行なっている。対抗勢力の側も同じであるか、または現況を知らない。マスコミも自らの義務と役割を十分に果たしているとは言い難い。情報の信憑性が低いことの他に、目立った事件のみに関心が寄せられているため、全体の状況に関する情報の量自体も少ない。
  3. ヤラー県知事の下に出頭した4月28日の実行犯のうち四人は、第四軍の取調べに対し、以下のように自供を行なっている。27日に夜のラマートを行なった後、聖水を飲んだ。この水を飲めば、ごく僅かの隙間を通って逃げることや、実行犯が自らの姿を警察から隠すことができると言われている。(5月13日付バンコクポスト誌)
  4. 軍側の分析によれば、4月28日の襲撃行動はPemuda Bersatu(独立青年)という分離運動団体の命令によって行なわれたということが信じられている。だがこの新組織が他の多くの組織のネットワーク内にあるのか、単独で動いている新組織なのかははっきりしていない。この組織は、既存の旧組織とのつながりを持たないのではないかと第四軍は疑っている。(5月13日付バンコクポスト誌)