またお会いしましょう
この20年というもの、私はインドネシアをたびたび訪れてきた。そのうちの12年は、ジャワのジョクジャカルタにおいて、文化人類学者としての調査活動に携わってきた。2002年の夏、私は再びこの地を訪れ、ジョクジャの南区域にある家族と私の家には、仕事の上でも個人的にも付き合いのある、一人の旧友がやって来た。マス・ヤルトは、地元の大学のリサーチプロジェクトの給与支払い名簿を管理していたが、12年前に私が出会った時は、同じようなプロジェクトのデータ処理者をしていた。当時の私は、この非常にジャワ的な都市において文化人類学の博士論文のための調査を、やはり同じ身分であった私のパートナーと共に行なう大学院生であった。
彼が到着すると、私たちは握手と互いの頬をかぐことによって熱情を込めて挨拶を交わした。靴を脱ぐと、彼は狭い玄関の間に足を踏み入れた。この部屋の奥に続いているのは、ありがたいことに天井に扇風機が取り付けられ、ジャワのアンティーク、織物、インドネシアの現代美術によって念入りに飾りつけられた客間である。床が大理石でできたこの部屋の片隅には、その人物にふさわしい精巧な筆で描かれた、少なくともインドネシア人の目には非常に美しい人物画が飾られている。袖の短い服に見慣れた黒い帽子を被ったその絵は、インドネシアの初代大統領スカルノのパステル画である。扇風機は心地よく低いうなり声をたてて回り、現代の様々な瞬間の遺物に囲まれて、私たちはタバコに火をつけた。香りのよい一服は、私たちの友情と、男性同士の仲間意識をしっかりと強めてくれた。
話題が9月11日のことに移ってゆくまでに、それほどの時間はかからなかった。熟した丁子の香りのする煙のベールの向こうに、この悲劇的な出来事についての理論と疑問の両方を提起しようとするかのようなマス・ヤルトの鋭い眼差しが伺えた。私の瞳を覗き込みながら彼は尋ねたが、その語調にはかなりの確信が感じられた「ワールドトレードセンターで働いていた何千人ものヤフディ(ユダヤ人)が、前もって一日休みを取ろうと知っていたというのは本当かい?」そこで彼らは死と破壊行為と負傷を逃れた。表現を誇張した彼の質問は続いたが、もし知っていたとすれば、引き出される唯一の結論は「9.11の飛行機を飛ばしていたのはユダヤ人だ。」しかない。
ちょうどその時、夕方の祈りへの呼びかけが町中にこだました。マス・ヤルトは、礼儀正しく断りを入れると、手、足、顔を洗い、私がタバコを吸いながら静かに待っている間、部屋の片隅で祈りを捧げた。この行動は、彼の攻撃的な発言にエクスクラメーションマークを置くために意図されたジェスチャーのように思えた。1997年に、ジョクジャの東に位置する、宮廷が維持されているもう一方の街であるソロを再訪したマーク・パールマンと同じように、私はこの「各個人の熱狂的信仰の深まり」に衝撃を受けていた(Perlman 1999,11)。今までの付き合いの中で、マス・ヤルトが私の前で祈ったのは、オフィス内にしつらえられた日々の祈り用の小部屋で、他のスタッフと共に行なった一回きりであった。私は彼の家に何度か泊まったことがあるし、仕事が終わった後の午後の時間を、彼のバイクでゆっくり回ったり、映画を見たり、彼が訪れるべきだと考えているジョクジャ市内の遺跡、ワルン(飲食のための売店)などの場所を訪れたりして過ごしたものだ。
その頃の私達の主な話題は、政治、文化、ジャワ文化などであり、当時の私の興味の対象であったペンゴバタントラディスョナル(伝統医学)についてももちろん話し合った。ソロとジョクジャの宮廷の支配者とその家族が葬られている、ジョクジャの南にある小さな町に彼は住んでいる。この墓地は超自然的な意味で強い影響力があり(angker)神聖(keramat)だが、様々なジャワの宗教については、私達はほとんど話をしなかった。例外といえば、多分ジャワの神秘主義(kebathinan)の医学における役割の話くらいだった。イスラム教、また確かにキリスト教については、ディスカッションをした覚えがない。
我々の友情の初期のころ、マス・ヤルトは現代的な人間として印象付けられている。彼はスカルノ主義者であり、スハルトの新秩序には懐疑的であった。科学に携わり、ブルシーダタ(純正なデータ)のために雇われたあたかもオフィスの手先のようであった。当時の彼は、テクノロジーからフリーセックスまで、現代的なものを全て体現していた。ある日の午後、私達はいく人かの友達と映画を見に出かけた。それはオリバー・ストーンのJFKだった。主演スターのケヴィン・コスナーが、彼の考えによる陰謀の概略を述べ始めると、政変の中でのジョン・F・ケネディの暗殺のシーンが重なった。私はマス・ヤルトが涙するところを目にした。映画を見終わった後、彼と仲間たちはJFKとスカルノには沢山の共通点があるということで意見が一致していた。そしてケネディに起ったこと- 少なくとも映画の中で -がスカルノにも起ったというのである。陰謀のセオリーに対する一般的な関心はさておき、我々に共有の立脚点、つまり近代性に対する性急な意識を与えるのは近代的国民国家とその政府の意図に対する批判なのである。
さて2002年となり、我々は陰謀のセオリーについて再び討論を行なっていた。夕べの祈りへの誘いが空に響いたため中断された彼の議論が根拠としていたのは、歴史のあらゆる曲がり角と、変化や予測不可能な出来事への推進力の背後に、陰謀者と回し者がいると感じる伝統であった。1997年に端を発した政治、経済危機の後に以下のような動きが続いた。スハルトの失脚、インドネシア群島のいくつかの地域で起った暴動、学生デモと改革運動(reformasi)、銀行スキャンダル、信仰治療を行なう黒魔術師の殺害、華人、また華人―インドネシア人混血女性に対するレイプ、いわゆる奥地における人肉食と最近の首狩り、そしてもちろん議会における些細な、あるいはそれほど些細ではない政治問題。新聞、雑誌は、これら全ての裏側に、個人にせよ集団にせよ誰かがいるのだという一般の認識を刺激したり、うわさを裏書してみせようとした。
私たちの友情は長く続いていたものだったし、彼は近代的なものを理解する人間だと考えていたので、私はマス・ヤルトに向かって、そんな思いつきは不合理だとかなり決然と説明した。オサマ・ビン・ラディンのアルカイダの組織が計画の背後におり、攻撃を行なった証拠は明らかじゃないか、と私はためらいもなく(あるいは考えもせず)言った。
夏が過ぎていくにつれ、マス・ヤルトとの友情が、世界的に現れつつある感情のパターンから影響を受けていると次第に感じるようになっていた。私が到着してからというもの、私の学問的関心をジャワのイスラム教の固有の歴史と性格に導こうとすることに、彼は非常な関心を見せていた。自分とまた彼の小さな街の人々が博学なイスラム学者であると認めている人々とのインタビューを、彼は積極的にアレンジしてくれた。イスラム教の学識と実践を独学し、地域では著名な人物と会見することになった。その人物は、ジョクジャカルタから三十分ほど南に行った所にある、マス・ヤルトの住んでいる街に居を構えていた。彼は、この「インタビュー」に参加するようにと、ジョクジャに住む他の友人も招いていた。会談の予定は夕方に入っていたため、この友人たちが私を車で連れて行ってくれるのは、理にかなったことであった。彼らが到着するのを待っている間、処刑されたレポーター、ダニエル・パールの新聞に載った写真が突然頭に浮かんだ。彼は、縛られ椅子に座り、頭をたれていた。舞台裏で動いている捕獲者に髪を摑まれており、頭に銃とナイフを突きつけられていた。待っている間に自分でも困惑するほど恐怖に襲われてしまい、もし私が帰ってこなかったら気をもむだろうかとパートナーに告げるために家の中にいったん戻ったほどだった。マス・ヤルト - そしてメディアに伝達されたアイデンティティーの政治における私たちの存在は極度に暴力的になった。「現実解釈の可能性の複数性」は私の想像力の働きと一緒になって、驚くべき恐れを私にもたらした 1。
インドネシアで過ごした日々を通じて、私はこんな風に恐怖を感じたことはなかった。その上、私がこのように考え込んでしまったのは、友人や親族と呼べるような存在に対してであったのである。私達は共に働き、食事をし、遊んだ。私は彼の子供たちの勉強をみてやったこともあるし、彼は私のパートナーの仕事を助けてくれた。私たちの関係は、私がインドネシアで作り上げてきた他の様々な関係と同じく、いやそれ以上に相当なものがあったと思う。ミニバンに乗り込む時に私が感じた恐怖は、世界的な出来事と構造的なつながりを持っていた。この感情は、長く続いてきた、または常に進行形で作られつつある私たちの関係にとっての感情的責任に違背した。その晩、帰宅する前にこの恐怖についてマス・ヤルトに語るべきだったのだろうか。2年後(2004年)に私達はたった一度、ほんの短い時間再会した。私達は互いに語ることが少ないことに気付いた。それでも彼は私に贈り物を持ってきていた。モート とルザフォードがパプアに関して観察した「マスメディアによって表現された暴力(とその他の事件)は、出来事を説明する際に決定的な要因となる。」という言葉のように、最近のインドネシアを象徴的に示すような贈り物だった。彼は私に一冊の本を送ってくれた。その本は暴力を体現してはいなかったが、最近のインドネシアにおいて、想像力に課せられた複数の言い換え、(再)命名、虚構の現実を捉えているように思えた。その本は、英語を話す西欧の学者によるコーランのスーラの章に関する解釈のインドネシア語訳であった。
メディアによる伝達
政治、経済危機、パレスティナにおける第2次インティファーダ、9.11の事件、アフガニスタンとイラクにおける戦争、これらの事件以後、世界最大のイスラム教徒人口を持つインドネシアにおいて、その国際コミュニティーが抱いた希望は、インドネシアの国民と政治が「中庸」を保つことであった。専門家であろうとなかろうと、インドネシアに対する観察者は、一般的に以下のように認めている。政治上のアイデンティティーが極端に走らない原因は、歴史を通じて一貫した寛容性と、そこに住む人々の個性と社会生活のあり方に柔軟性が保たれていることに見出される。この寛容性と、方針決定と経験の柔軟性は、島嶼部東南アジア、とりわけインドネシアの文化的特色であるとされている。O. W. ウォルタースは、この地域の「文化基盤」を分析しながら、社会的、文化的境界を越えて広く評価されていた人間の特質について、19世紀のジャワ語文献においては、洗練された人物(wong praja)が、柔軟性のある人物(lemesena)と表現されていることを引用している(1991,161) 2。ベン・アンダーソンは、特にジャワ人にとっては「もしジャワ的な生き方の中に適応させ、説明付けることができるなら、ほとんど全てのことが容認される。」と語っている。しかしながら、近年において、アンダーソンは過ぎ去った時を回顧しながら、この「ジャワ人の寛容性」が薄れつつあること、また比喩的にも、あるいは多くの場合現実的にも、「異なる社会的グループの間に近寄りがたい高い壁」という社会的建造物が登場しつつあることを指摘している(2002,3)。
9.11以前、以後のインドネシアにおける社会的事件は、この文化的に複合的な国家の持つ寛容性と「環境を変える」というジャワ人の能力が挑戦を受けていることを物語っているといってよいだろう(Beatty 2002)。特に、個人とその宗教的な所属に関して、長く続いてきたいわゆる「柔軟な市民性」が、世の中一般に見られるような非寛容な方向性に近づきつつあるように思われる 3。アンダーソンが40年ほど前、また近年嘆いたように、国家主義の世界的な重圧と振興は、ジャワ人の「旧来の道徳的な多様性を明らかに脅かし」、「構造的に条件付けられていた寛容を徐々に衰えさせている」といえよう。(1996,42)。インドネシアに新たに課せられてきたアイデンティティー、とりわけ宗教的なそれについて、私は身近な、あるいは遠方からの観察と会話からここに分析してみたいと考える。モルッカ、カリマンタン、スラウェシにおける地域紛争は、民族的、宗教的、政治的、経済的、あるいはそれらの組み合わせによって、多分様々に論じられており、非寛容で柔軟性を欠くアイデンティティーの形成を説明する説得的な例となることだろう。が、以下において私は、2002年にジョクジャカルタとその近郊におけるフィールドワーク中に、長年の友とその仲間たちと交わした会話について考えを進めてみたい。
注目すべきことに、慣れ親しんだジョクジャカルタの他の環境において、私は初めて「ユダヤ人」、あるいは「ヤフディ」に出会った。注意深くこのことを考えてみるにつれ、この世界的な兆候は、9.11や、インドネシアの内外で起っている事件を解釈するためのみに人目を惹いているわけではないことに気付いた。その他の記号的な重みが加えられているのであり、これらの重みは、インドネシアにおける社会的形態と習慣の変容、アイデンティティー形成の両極性を反映している。インドネシアにおけるユダヤ人コミュニティーの数は僅かなものなので、インドネシア人にとって自らの経験に根ざしたユダヤ人に関する知識は殆どないといってよいだろう 4。またその上、スラバヤのコミュニティーに僅かばかり残っているユダヤ人が、近年差別の対象とされたり攻撃を受けた例はない。イスラム教徒達は彼らに「シャローム」と挨拶を投げかけ、コウシャー(ユダヤ教徒にとっての基準を満たした食料を売る店)は、イスラム教徒のハラール(イスラム教の戒律に従ってさばいた食べ物)を売る肉屋から仕入れた肉を扱っている。また10年以上も、あるイスラム教徒の家族が小さなシナゴーグの管理人を務めている(Graham 2004を見よ)。このことから考えて、インドネシアにおける、ユダヤ人を表す符合として世界的に認識されているイメージはインドネシア人にとっての社会的事件や懸念事項と共鳴しあっているといえよう。
例を挙げて言えば、インドネシアの第4代大統領、アブラハム・ワヒドの議会制に基づく選挙の後、イスラエル人とパレスティナ解放主義者間の暴力行為は国内の「どこか他の場所でメディアに伝達された」と受け止められるようになった 5。この時、政治的な符号としてのヤフディが、現在のような受けとめられ方をするようになったのである。メディアの中で目にすることのできる彼等の姿は、生々しい現実として目撃され、人間の行なう事件の真実に対する平等な洞察を自称する、その他の様々な符号の可視的な背景の中でより深い意味づけを獲得していくのである。フェルドマン(2000)は、この政治化された可視性を「観察統治様式」と呼び、いわゆる「現実解釈の可能性の複数性」が事件に対する人々の理解を形作るようになると述べている(Feldman 2000参照)。シーゲルは、「インドネシアにおいて『ユダヤ人』という語は、脅威を示している」が、この脅威には形状がない。」という点に注目している(2001,302)。シーゲルによれば、ユダヤ人の宗教的なアイデンティティーは、「キリスト教徒のそれに吸収されている」例もいくらか見られる(同、272)。ハッサンは、「シオニスト兼キリスト教徒の陰謀のセオリー」への、同じような同化の例を観察している(2002,163)。このことをバリにおける爆破犯が念頭に置いていたことは明らかである。有罪を宣告された爆破犯のうちの一人、アムゾーリは、彼らを爆破に駆り立てたのは、ユダヤ人、アメリカ合衆国とその同盟者達に端を発し、世界中を覆っている道徳的退廃であった、と語っている。彼の考えによれば、この悪の枢軸による世俗の「けっこうな」暮らしぶりは、道徳的退廃を生むために宗教と競っているのである。そこで彼は、「白人を殺したことには誇りを感じるが、インドネシア人の犠牲者を出したことには悲しみを感じている。」
シーゲルは、「メディアの上のユダヤ人」と結び付けられている反ユダヤ人主義は、インドネシア国内でおこっているイスラム教徒とキリスト教徒のコミュニティー間の暴力行為に関するメディアの叙述を通じ、インドネシアの多様性を持った宗教に関わってくるような日常の中での政治に入り込んできていると主張している(2001,303)。リードは、東南アジアの歴史において、華人が「東洋のユダヤ人」として知られるようになるにつれおこった、ユダヤ人と華人の結びつけに関する史料を引用している(1997,55)。シロは、「ユダヤ人に譬えられることは、東南アジアの華人知識人からは歓迎されず」、ただ「イスラム教徒に敵意を抱かせる」事にのみ役立っていることに注目している(1997,5)。実際、既に人種主義的な符号として重い意味づけをなされているユダヤ人の世界的な符号は、インドネシア社会において華人の社会的アイデンティティーが既に「人種的カテゴリー」となっていることについて伝えている。その結果、インドネシアの華人の、華人として、インドネシア人として、あるいは他の標識を持ったアイデンティティーに関する社会的な理論は、予言を叶える役割を果たしている。これは、民族主義がどのように働くかの例であり、社会生活と差異に対する理解に何故有益かという理由である。
インドネシアのメディアによって伝えられている「ユダヤ人」の世界的な符号は、インドネシアのイスラム教徒の間に、イスラム教に混ぜ物が混入されつつあるのではないかという恐怖をたきつけている。こういった恐れの感情は、「血」に関する言説の中にしばしば見られる。2000年10月に、マレーシアにおいて、イスラエルのクリケットチームがマレーシアの土を踏むことに対する抗議運動が行なわれたが、このことはジャカルタにおけるデモに刺激を与えた。インドネシアの抗議者らは、イスラエルの国旗に血を浴びせかけ、「ユダヤ人の血が欲しい。」と要求した。ワヒド大統領の外相アルウィ・シハブは、議会において以下のように論じた。インドネシア軍の人員が占領の最終期に犯したとされる人権侵害と戦争犯罪の証言を聴取するため開かれようとしている東ティモール国際法廷の設立を妨げようと努力するつもりなら、インドネシアには「ユダヤ人のロビイスト」が必要である。何故「ユダヤ人のロビイスト」なのか?それは、アメリカ議会がユダヤ人にコントロールされており、合衆国国務長官のマデリーン・オルブライトは、ユダヤ人の血を引いているからである。
リードは、今日のインドネシアとマレーシアにおいては、「近代化の犯人リストに関する最も粗野な人種的公式化は、理論的な構成概念としてのみ知られている『ユダヤ人』マイノリティに対して行なわれている。」と嘆息している(1997,63)。「近代化の犯人リスト」についてさらに詳しく述べる中でリードは、インドネシア人のモデルニサスィ、ウェストゥニサスィ、グロバリサスィに対する魅了のされ方と嫌悪 - をインドネシア人がしばしば一つのものに合体する歴史的な過程と条件に注目している。スハルトの新秩序下においては、そのような合成が奨励された。プンバグナン(発展)は、土着の民主主義、階級的社会秩序、公正で豊かな社会の土台としての物品とサービスの流通、またインドネシア国家の礎と一括して扱われた。レフォルマスィは、スハルトの夢が馴れ合い、腐敗、縁者びいき(Kolusi, Korupsi, Nepotisme, KKN) 6に基づいていたことを暴露した 7。
しかし、夢とはそこから覚めることが困難なものである。そしてここに皮肉な成り行きが見られる。もう一人のバリの爆破犯、アリ・イムロンは、「インドネシア国家の息子としての我々の能力は誇るに値する。」と語っている。この発言は、1928年において、インドネシアの民族主義者の「覚醒」を布告した青年の誓いを仄めかしている 8。この国家的なアイデンティティーの覚醒は、その大志という意味では国民国家と同種の近代性の段階に入っている。スカルノの旧秩序と「指導される民主主義」の下で、国民国家であることは、成熟、発展(maju)した社会になるための記号的な進歩であった。が、しかし、スハルトの新秩序統治体制においては、ただ単に国民国家になるだけでは不十分であった。近代性の記号は、技術主義社会にふさわしく設計されており、プンバグナンの条件を技術的に発展させるものであるべきだった。30年間のプンバグナンスタイルの心的傾向は、インドネシア人に対して、深い心理的、社会的、文化的影響を与えた。その中でも著しいのは、自分たちの社会におけるものにせよ、他者の世界と比較してみたものにせよ、自己に対する見方に対する影響であった 9。それ故、イムロンの誇りの源泉が爆弾を作り他者に示す能力と、途上国の貧しい村の若者が、アメリカやオーストラリアなどの先進国に打撃を加える能力であったことは驚くに足りない。2002年10月にクタビーチにおいて使用した技術を彼は記者会見の中で見せびらかし、自分がアフガニスタンで爆弾製造を学んだと主張した。そして「我々のインドネシア人としての能力は誇るべきものだ。が、その能力は間違った目的に使用されている。」と語った。インドネシアの国家を技術面における刷新と結びつける考え方は、スハルトの新秩序下における開発主義、プンバグナンのイデオロギーの主要な推進力であった。
バリの爆破犯の声明の中を勢いよく流れる開発主義は、新秩序体制政治の経済、文化的成り行きを反映している。スハルトの統治期においては、トルイヨが「構造の変化と資本の空間化」(2001,128)と定義したグローバライゼーションが明らかにインドネシアにおいても起り、社会の殆どあらゆる階級によってなんらかの形で感じ取られていた、と語るのが正しいように思う。トルイヨは、グローバライゼーションをそれぞれがばらばらの過程であると述べたが、また以下のようにも表現している。人々と空間(例えばインドネシア)を「その中においては、諸国家の理想がさらに似かより、増えつつある過半数の人々が、理解したり認識したりすることができないようにする手段ですらあるような消費の網」に結びつける「消費品市場の世界的統一」(同書、同ページ)。市場とそのメディアティックス - 人間生活における市場に対するメディアのパフォーマンス -は、バリの爆破犯が憎みかつ愛した「けっこうな暮らし」への欲望を体現、また誇示している(同書、同ページ) 10。テレビ、ラジオ、印刷物などの一般的なメディアは、未だにアメリカ、日本、香港、インドなどの他者に大きく影響を受けている 11。消費品の消費によって達成される「けっこうな」暮らしの社会的架空性は、インドネシアを新しく訪れた者の目にも、以前そこで時を過ごしたことがある者の目にも明らかである 12。このことは、反アメリカ主義以前に、私が会ったり新たに知り合ったりした多くのインドネシア人によって映し出された、非常に目につく圧倒的なイメージであった。
マス・ヤルトがその日の夕方早くにとった姿勢は、ある意味で同種の感情を反映しているとも言えよう。私は彼の前に座り、台頭しつつある「観察統治様式」の中で異議を唱えたり、彼の説に従ったりした。この「観察統治様式」の中においては、多彩な真実が近年において歴史的に固定的な解釈をされているが、友人、同僚としての生命を持った我々の歴史を侵略している。お互いを眺めながら、私達は共にたくさんの「どこか」-「伝達されメディア化されたどこか」について考え込んでいたに違いない。スピアーは、特定の場所に住む人々の実際の歴史を説得力を持って伝達するような「イメージ、語彙、サウンドバイツ(ほんの短いメッセージ)、スローガンそして軌道の混乱」とその特性を描写している(2000,28) 13。このことはマス・ヤルトにとってもその通りなのだろうとは思う。おそらくは尋ねてみるべきだったのだろう。が、ある夕べに私の感じた恐怖には、私の平静を乱す効果があった。
熱狂的信仰
同じように、これらの「同時代的メディア風景」は、コミュニティーのイメージ形成、いやもっと正確には、今日のインドネシアにおけるコミュニティーのイメージ形成にもまた影響を与えている 14。それは、今日の大変に重要な時期を迎えたインドネシアにおける、あまりにも多くの出来事、イメージ、活動、連想の一点への収束である。内部の人間も外部の人間も、インドネシア人が、おびただしい数の言い方でアイデンティティーや意見について表現しなければならない、レフォルマスィの能力と自由の表裏に注目している。アイデンティティーに関して言えば、ゲリー・ヴァン・クリンケンは、現在では「インドネシアでは、以前には公然と聞かれることのなかったエスニシティーに関する排他的な言説が」登場している、と述べている(2002、68)。ユダヤ人の血を求めたり、血というものは宗教的所属に生来的に結び付けられているという解釈を行なうことは、時勢の憂慮すべき兆候だろう。シーゲルは、「華人」というカテゴリーは、一部のインドネシア人にとっては「人種的カテゴリー」(「肉体的な特徴の遺伝」を意味する)に属すると認めている。彼はまた、インドネシア人は一風変わった人種差別主義の感覚を持っているとも述べている(1998,83,85)。彼によれば、「ヨーロッパの人種差別主義者」と「インドネシアの人種差別主義者」は、体現と同化の捉え方に関して差異がある。前者にとっては、脅威を感じさせるような何かを体現する他者の持つ要素に「耐え難い」。それに対しインドネシア人にとっての華人は、彼らが「よりよいインドネシア人」になろうとしない場合に脅威となる(同書、85)。
が、最近では、一人の人間が体現する耐え難い要素という概念は、民族的、宗教的紛争において顕著に根をはり出している。この小論の学会発表版において、私と同じ都市化したカンプン(村)でフィールドワークを行なった人類学者である私のパートナージャニス・ニューベリーは、何年かにわたって時折居を共にした家族の息子との会話について詳述している。
彼女の記憶するのは以下の通りである。
私は一家の長男と話しをしていた。彼は物静かで、家族を支えるため薬局で父親と共に長時間勤勉に働いていた。彼はとうとう結婚し、妻の家族の家に引っ越したが、最も長い時間を過ごしているのは、母の家だった。彼は口数が少ないのだが、彼が語る言葉は、結果的にはいつも言葉以上の重みがある。物事がどのように変わってしまったかを彼は語った。「ムバック(ジャワ語で年上の女性に対する呼称)、今じゃ子供ですら僕の手から金を受け取ろうとしない。僕はカフィールだから。」カフィールという語のこんな使い方は非常に印象的である。私はそれまでにこの言葉が使われるのを聞いたことがなかった。今では一人のカトリックが、小さな子供ですら自分に触れたがらない事実に接し、考え込んでしまっているのだ。これは非常に困惑的な瞬間であった。(Newberry and Ferzacca 2003)
パールマンと私が友達と付き合う中で経験した熱狂的信仰の増大は、- 一部のインドネシア人にとっては - 習慣、儀礼、神に対する見方、祈祷の様式における差異ではなく、身体の宗教的清浄を意味するようになっている。このことは、直接間接の両方の意味で明らかである。インドネシアにおいて新たに台頭してきた「決定的で宗教的な世界観」は、特にインターネットの中にメディア化されることによって煽られてきている(Bräuchler 2003参照)。近年の宗派間の紛争の多くが、同化(改宗)によって純化し得るのに対し、彼らは血管を流れる血に対し標的を絞っている。イスラム教民兵軍ラスカルジハードの引退した指導者であるジャファール・ウマール・タリブは、キリスト教徒とイスラム教徒の間の紛争が激しさを増していた時に「ラスカルジハードはイスラム教徒の血は大変高価だと考えている。実際、イスラム教徒の血は、カーバから来ているため、またアラファーから来ているためより高潔である。」と述べた 15。アブー・バカル・バアシールが、インドネシアにおけるテロリスト活動のかどで裁判にかけられている際に、2001年4月の発言として検察官は以下の語を引用した。「もし彼等の血がハラール(イスラムの戒律にとって容認しうる)なら、彼らの持ち物もまた同じである。」この意味は、非イスラム教徒の所有物は、イスラム教徒が獲得することができる、ということである 16。
そればかりか、血を宗教的帰属に結びつけるのは何も最近になって初めておこったことではない。この結びつけは、日本統治以前の幾年かの間に既に、完全に近代的な外観で登場していた。戦争が不気味に迫ってきている中で、ベンクーレンでオランダによって家屋内に軟禁されていたスカルノは、後にイスラム教徒の政党マシュミとなる(さらに後に Majlis Islam A’laa Indonesia、インドネシア・イスラム大会議、 MIAI)傘下団体に属する宗教学者たち(ウラマー)による決議に反応していくつかの記事を執筆した 17。1941年7月18日付けのプマンダカンの論説において、近代的人間、インシュニル(エンジニアー)のスカルノは、イスラム教学者らに輸血の利益を説こうと試みた(1959a、1959b)。ウラマーのうちある者は、敵(musuh)の命を救うためにイスラム教徒の血を使うこと、イスラム教徒の命を救うために非イスラム教徒の血を用いることに懸念を示していた。献血(mendermakan darah)と輸血(bloedtransfusie)について、スカルノはコーランとイスラムの歴史から集められた「データ」を用いながら論じた。
コーランは、多神論者(orang Musyrikin)を穢れている(najis)と主張しているのだろうか?確かにそのように言われている。が、何によって穢れているのか?穢れた身体?穢れた血?否!コーランによって説かれている穢れとは、その者たちの思慮、冒涜的な確信(itikad)、冒涜的な思考、冒涜的な宗教が穢れているということを指しているのである。もし多神論者が、- 複数の神への信仰(syirik)からイスラム教へと -、唯一の神への信仰を受け入れるのであれば、多神論者も穢れていないと即座にみなすことができる。そして彼等の体内を流れる血もまた穢れてはおらず、非神聖(tidak suci)でもなく、不潔な(kotoran)血にもならない。イスラム教徒もまた、「不潔な」血によって、穢れてしまうことを忘れてはならない。そのような不潔な血(darah kotor)は穢れている(スカルノ、1959a、505) 18。
スカルノは、宗教的帰属によってアイデンティティを帯びる血の概念(najis)と、生物学的過程により病理学的に不潔になる(kotoran)血についての生物学について、はっきりとたてわけている。こういった識別を行なう中で、スカルノは、ジャワ人の「寛容」に頼ろうとしたばかりではなく、身体と宗教的アイデンティティーの可変性を示すことをもまた望んだ。 イスラム教徒になることによって、その者の血は神聖(yang tentu suci)になる。そこで生物学は、歴史の下にあるものであり、同質に固定されたアイデンティティーにもともと結び付けられた固定的な自然の存在物ではない。これは近代性の頼もしさであり、アイデンティティをも創造し、技術設計してしまうレボルスィの将来性である。インドネシアの近代性に関する古典的なカテゴリーを呼び起こしながら、彼はイスラム教徒に対して、非洗練的(mentah)、原始的(primitief)、非文明的(biadad)粗野(kejam)ではなく、洗練された思想(berisi budi yang halus)に溢れた近代的で戦時のイスラム(Oorlogsethiek Islam)によるイスラム文化を成立させるよう呼びかけている(同書、501)。何故なら、技術と科学の進歩は、献血から受けた血を「不潔な血」ではなく、「清潔で純粋な(murni)血漿にするからである(同書、506)。
エリントンは、「島嶼部東南アジアにおいては、… 人々の差異(男女、背が高い、低い、ジャワ人か非ジャワ人か)に対する推論の根拠にとって、解剖学や生理学が重きを置かれることは殆どない」(1990,57)と指摘している。全般的に言ってこのことは正しいが、具現されたアイデンティティーがジャワ内外における差異の基準として働く例もまた多くある。アイデンティティー形成の不動性と柔軟性の両極間の行き来は、この地域の諸島においては常に見られる歴史である。ちょうど「インドネシア人であることは、何か『自然』で生物学的なことではなかった(また今もない)が、近代史によって作り出された(そして今も作り出されている)何かなのである」(Anderson, 2002,19)ように、近代史はマレー人をイスラム教徒に、バリ人をヒンドゥー教徒に、華人を無神論者に結びつける連想となんらかの関係があるのだ 19。
マス・ヤルトの街における宗教的権威との会話において、身体、エスニシティ、宗教の間の結びつきは、イスラエルーパレスティナ問題の本質的な説明として特徴付けられていた。この独学者が、夜毎に語って聞かせたのはそのような話であった。私に語られたのは、混合主義者的ジャワ主義の地理学の枠内に置かれた、内外の人間を等しく長きにわたって魅惑してきたヒンドゥー、仏教、イスラム混交の独特にジャワ的な神秘主義であった。ジョクジャカルタの南にある、このクジャウェン(ジャワ主義)の本拠地において、問題となっているのは、ユダヤ人とアラブ人の問題、つまり生物学的に定められた、あるいは少なくとも系図的に継続している民族的なアイデンティティーの問題であると私たちの教師は性格づけた。彼は、最近の出来事の中に明示されている紛争は、大書きされた単なる宗教紛争でもなければ、イスラム教のイデオロギーや神学に基づいた争いでもない、と論じた。彼は9.11のような事件を、系図的に語れる歴史の一部として引き合いに出した。この歴史は、アブラハムの子孫が、「近代的な」政治組織の進化に巻き込まれた時から起った、原初的な家族間の不和に端を発している。彼は昨今の暴力行為を、家族間から始まって、部族、首長国、そして最終的には国民国家間の紛争と社会的に進化していく一連の過程の中に筋道づけて概述した。
彼の持ち出したところによれば、宗教的なメッセージの清浄性が、世俗の欲望を満たすことと、人間の関わる物事のうち際立っていなければならない宗教の清浄性をないがしろにすることを目的とした、近代的なアイデンティティーの政治に攻略され汚染されたのは、国民国家という文脈においてであった。ジャハール・ウマル・タリブはこの意見に賛成しており、また同じような考え方をその夏、またそれ以降も私は繰り返し耳にしている 20。彼の視点によれば、その話はどれも皆殺人に端を発した二家族間の血讐から始まり、民族(血)の問題として続く。異常さを感じさせる同種の論争の中に、バリの爆破犯アムロズィの言葉がある。弟のイムロンが終身刑の判決を受けたのに対し、彼は死刑宣告を受けたが、弟が悔恨の念を見せていることに対して軽蔑を表明している。「もちろん、私達は違う。私は彼を認めることはできない。彼はますます弁護士みたいな服装をしているじゃないか。私達は違う卵から生まれたんだ。そうじゃないかい?」
宗教的、また民族的なアイデンティティーを定着させようとする動きのさらなる証拠は、インドネシア人の活動家による立法草案のいくつかの中に見出せる。彼らの恐れは、宗教的な調和を打ち立て維持しようという旗印の下に、日常の最もありふれた出来事にまで国家を持ち込む結果を生んでいる。あるイスラム教徒のグループは、国家の法典の中にシャリアット(シャリーア)を含めること、あるいは既存の法典をシャリアットに置き換えることすら望んでいる。このことは、宗教と国家を分離したい、つまりジャカルタ憲章なしのパンチャシラを望むインドネシア人にとっては憂慮すべきことである。こういったインドネシア人にとって、シャリアットの聖法が抱く問題とは宗教への帰属に関するものではなく、唯一無二の行動基準を規定するとする主張なのである。アラビア語ではシャリアットの語は、見通しのきく、よく踏み固められた水へと向かう道を意味する。変革を提唱する精神は純化の行動なのである。
刑法の改定(revisi Kitab Undang-Undang Hukum Pidana, KUHP)と調和ある宗教的共同体のための立法計画(Rancangan Undang Udang tentang Kerukunan Umat Beragama)の二件の立法草案が認可されるなら、インドネシア人同士のあらゆるコミュニケーションの中に国家と法律が持ち込まれることになるだろう。また、そういった改革や草案は、信仰の異なるもの同士の結婚、輸血、埋葬の準備と方法、性行動の方法、性的な好み、同棲、魔術、またその他の人間関係などに影響を及ぼすことだろう。中でも、イスラム教徒と非イスラム教徒の間に起りうる事柄には特別な関心が払われている 21。重要なことは、こういった立法は、身体と身体の間で行なわれるやり取りに関するものであり、宗教的な議論(argumentasasi agama)を一時的に和らげ、もし失敗しなければ、国家の分裂(disintegrasi Bangsa)を未然に防ぐために、こういったやり取りを制限する意図を持っているということである。
これらは、シャリアットをジャワの法典の基礎に置こうと試みる初めての試みではない。ディポヌゴロの聖戦、1825年から1830年にかけてのジャワ戦争は、そういった基本的目的を持っていた。注目すべきことに、少なくとも表面上は同じような状況と言説がその時も存在していた。ピーター・キャレイは、ディポヌゴロ物語のある版の翻訳と注釈を行なう中で、「宗教的な要素」こそが、それ以前に行なわれたジャワの人々の闘争とこの違いを際立たせている点だと論じている。彼は、ヨーロッパ人カフィールに対する聖戦としてのディポヌゴロによる反乱の枠組みとして、イスラム教徒ジャワ人に対するキリスト教徒ヨーロッパ人の態度、後者の宗教教師に対する嫌がらせ、ラッフルズによってもたらされ(後にオランダ人官僚に引き継がれた)た法制改革、またそれに加えて「アラビアにおけるイスラム世界の中心地」との接触の増加をあげている(1981、46)。キャレイはディポヌゴロ物語の以下の部分を引用している。「ジャワにおけるヨーロッパ人の権威はジャワ人にとって大いなる不幸である。なぜなら、ジャワの人々は、聖なる予言の法のもとから連れ去られ、ヨーロッパの法に服従させられている(同書、73n、241)。
その約200年ほど後に、近代的国民国家の官僚によって、同じような議論が戦わされつつある。法務、人権相のユスリル・イフザ・マヘンドラ博士は、刑法典には改正の必要があると述べている。何故なら、オランダの植民地期に起草された時から改定がなされておらず、イスラム法の価値観も反映されていないからである 22。コンパス誌に対する最近の発言の中でマヘンドラは、こういった改正は、イスラム法の法的な規範(kaidah-kaidah)、慣習法(hukum adat)、オランダから輸入された法(hukum eks Belanda)及び既に社会的に定着している国際法の改正の過程から生じている、と述べている。この改定が行なわれた後は、絶対規制的な法的規範がインドネシアの国家法になりうる 23。本稿執筆時に、選挙後の国会は、2004年10月に開始される改定についての議論に着手した(現在のところ進行中)(同書)。
感情の風景
公的な宗教と個人のアイデンティティーに関して、スハルト後の時代は刺激的でありかつ困難な時である。華人、またプラナカンは、現在では自らの民族的アイデンティティーを賛美するようなイメージについて表現したり、活動や協会に参加したりする自由を手にしている。が、同時に、1999年にアチェにおいてシャリアットが履行されるようになったことにより、「一掃」や「イスラム式服装の査閲」が行なわれるようになった。それらの動きの中では、「様々なキャンペーンの焦点となったイスラム教の身体的なシンボル」が結局身体的な罰をもたらすものとなってしまっている(Suraiya、2004)。プラガンドン、つまりモルッカのキリスト教徒とイスラム教徒間の平和な共存の終焉は、近年の、国内における暴力の集中的な増加 ― 具体的には、地域的な自治、経済的、政治的理由による群島間での人々の流れ、国家的な経済と政治の不安定、また、暴力、伝達、交通のテクノロジーを追う広範で世界的な兵力を伴う、長く続いた規律に縛られた統治からの移行の恐るべき一例である。この成り行きは、スピアーがアンボンで観察したある種の「過度の解釈学」なのかもしれないし、あるいはそうである必要もないのだろう。彼の観察によれば、アンボイナにおいては、かつては人々の関係は緊密であったが、今では「ごく普通のアンボイナ人の外形をした人に向かって、あれは『キリスト教徒だ』、『イスラム教徒だ』という識別を互いに行なおうとするようになっている(2000:35-36)。」1965年から66年にかけての暴力行為に関するバリの女性の回顧について、ドワイヤーが行なった思慮深く敏感な研究の中で指摘されているように、社会における人間関係が非常に強烈な力関係になってしまっている時には、どこに帰属するかということのシンボルは、「知識自体の不安定性を示す指標的なサイン」になりうる(2004)。そのようなシンボルは、社会構造と社会的な人間関係の「観察統治様式」を動揺させ、困難にさせながらも、同時に誰が誰で何が何であるかを知るために必須のものにさせる。
今日のインドネシアにおけるこんなにも多くの流れと変化を全て合流することによって、安全とアイデンティティーに関して、故意、または非故意の結果がもたらされている。建議中の刑法典の改定は、寛容な混合主義の一例として表面に上ってきている。しかし、立法化された地域の自治(otonomi) 24、人と土地を結びつける原初的な想像力(masyarakat adapt 運動と立法)、地方の資源を管理する紛争にあたって「生粋の土地の息子」(putra daerah)の地位というものを強く主張する地方政治家、政治的空間の「解放」、移住の成り行きと再居住のプログラム、魔女狩り、民族的な浄化(pembersihan etnik)、宗教的な言葉で表明されたテロなどの変化は、実はもっと不吉なものではないだろうか。それらは、少なくとも潜在的には「異なった特色を持つものに対する暗号化された話し方(振舞い方)の方法」ということを我々に伝えており(Luts and Collins 2002、92)、国家的レベルでは「究極的で乗り越えられない差異を表す修辞語句」を強調している(Gates、1985、5) 25。
私自身は、12年間にわたって続いており、そして今も進行中の友情の枠内で、あるささやかな形の説明を行ないたい。私が指摘したいのは、人間同士の付き合いの最も中心的な部分で持ちうる「恐怖、戦争、経済的な合理性、あるいは人権に関して世界的な規模で口にされている言説」の重要性である 26。人類学者にとっての挑戦とは、言うまでもなく、日々出会うような民族誌的な意味での飛び地において、歴史とアイデンティティー形成の合流について感知することである。時間的、空間的に離れた場所から、急な関心を持った人物が人類学によってある土地の知識や場所柄を語るというのは、かなり危なっかしい仕事であるように私には思われる。民族誌学的な仕事は、いつも前置きなしで話の中心部から始めるものである。しかし、90年代初期からの私のフィールドワークの偶然性に左右されたもので、大きく見積もっても私が取り組んだ期間は短く、限られたものだった。- 私の夏季における民族誌学的な没頭は、その他もろもろの社会的に必要な行事を消化するために時期を限られていた。私の考察の根拠となっているのは、自分とっての緊密なある人間関係のたった一つの例なので、民族誌学的にはあまり深い根拠のあるものではない。この関係は、基本的には時には会い、時には会わないという、常に中断期間をはさんだものであった。その上で私が思索するのは以下のことである。私たちが深い人間としての付き合いをする時、また敵意や侮辱、また友情や喜びを築くことが許される時、いかにメディアによって伝達されたイメージが、何かを示すサインとして充分に使用されることか 27。
民族誌学がこうむるさらなる困惑とは、自分の研究し学んだ対象が、歴史とアイデンティティー形成の合流を、危機下において、または不安定な事件の慢性の状態として経験しているということである。ある特定の場所における長期間のフィールドワークを、その地方において歴史の重みを課せられている見聞に注意を払いながら行なうことは、今日的な意義を持つ証言を提示していく上で決定的な意味を持っている。このことは、概念、メディア、ものごと、人々等々の「流通、移動を調べる」ために「多方位的な風景」や、「地域に縛られない」活動を追わねばならない場合も同じである(Appadurai 1991、Marcus 1998)。外部の出来事や言説から刺激を受け得る、アイデンティティー形成を取り巻く同時代的な状況や、ある者は混沌としていると表現するかもしれないが、多分危険なほど自由な、インドネシアの国家政治の新しい現場について考察する際には注意が必要である。が、インドネシアにおけるアイデンティティー形成に関する生の材料は、永続性を強調したり、寛容と流動性を示唆するような内容のものが多かったと指摘することはあながち誇張ではない。このようなアイデンティティーの対立は、内外からの影響力によって、インドネシアでは変化を遂げつつある。世界的に流布しているユダヤ人の象徴性がこの特定の場所 - インドネシアに、ヤフディーとして入り込んできている。ヤフディーとは、ユダヤ人という語を世界的におなじみの「けっこうな」暮らしぶりを得ることに夢中で紛争に関わっている人々の懸念や欲望に役立ち、彼等の欲するところを満たすようなかたちに合わせた語である。世界的な規模で作り上げられ、公共の領域に注ぎ込まれた「けっこうな」暮らしぶりのイメージと現実性によって、コミュニケーション(テレビ、携帯電話、インターネット)と戦闘(銃と爆発物)の技術が常に登場している。これらの技術は、一部のインドネシア人が異なった宗教、民族間に長く続いている悪感情を表現する手段として役立っている。
宗教、血、世界的規模の欲望が政治的な象徴として流布している時、我々はこれらの象徴が負わされ、また勢いよく流れている感情の風景を忘れてはならない。インドネシアにおいて、政治的な試金石としての役割を課せられたユダヤ人のイメージが目立って登場してきていることは、インドネシアの土地の人々の感情や感覚が遂げている、予期できるものもできないものも含めた変化の一例である。これらの変化は、世界的にメディアが伝えている政治と同じくらい、不安定で不確かな未来に直面している国における人民主義の社会関係について多くを語っている。マス・ヤルトのようなインドネシア人にとって、「けっこうな」暮らしぶりについての世界的に流布した象徴に具現化されて目に見えるような、実際の世界的な近代性に参加したいという欲望は、インドネシアの精神生活の基礎をしばしば脅かしている。過去に植民地化されていた人々の間で受け入れられているこれらの、またはその他のカテゴリーの持続性を考える時、近年の不和と暴力の根であるこれらの深刻な問題に我々も連なっていることに注意を払う必要がある。我々がそうしてみるまで、マス・ヤルトと私の間に起ったような物語は、程度と範囲を変えて繰り返されるだろう。
スティーブ・フェルザッカ
Steve Ferzacca is associate professor of anthropology at University of Lethbridge in Alberta, Canada.
Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 6: Elections and Statesmen. March 2005
Notes:
- 私はここにアレン・フェルドマン(2000,49,59)の「観察統治様式」という概念に言及したい。この語は以下のように定義されている。「実践と言説でその全体が出来上がっており、目に見える行動と対象物、政治的に正しいとされるものの見方について、その真実性の主張、典型性、確実性を一般に対して確認させる。」またその中においては「現実解釈の可能性の複数性」が作用し始める。 ↩
- 語幹部分の lemes には、非厳格、柔軟性に富むなどの意味がある。また、滑らかでマナーのよい人付き合いのよい態度 (luwes) や、様々な状況に対応して多様な方法でものごとにあたれるような熟練した (prigel) 能力をも指している。 ↩
- アイーワ・オン(1999)の「柔軟な市民性」の概念は、柔軟な資本主義者の資本蓄積、旅行、解任に順応する流動的で日和見主義な被統治者性に言及している。私がこの場合に指す「柔軟な市民性」の語は、流動的で日和見主義な国民という面を強調しているが、この特徴を資本主義の文化的な論理を超えて用いている。 ↩
- インドネシアと東南アジアにおけるユダヤ人のダイアスポラについて語る歴史史料は極めて稀である。ここに示す内容の多くは、ユダヤ人である東南アジア研究者から学んだこと、インドネシアを旅行、研究調査中にスラバヤのユダヤ人コミュニティーで目にしたこと、インターネット、リストサーブ、またそのほかの電子メディアから拾った記述を寄せ集めたものである。大変小さなものではあるが、インドネシアにユダヤ人コミュニティーは存在してきた。17世紀において、オランダ、ドイツ、イラクにルーツを持つユダヤ人商人がオランダ領東インドに到着し香料貿易に従事した。1920年代までにユダヤ人コミュニティーは、スラバヤと植民地時代の首都であったバタビア(現在のジャカルタ)において地歩を固めていた。第二次世界大戦前に、ナチズムの勃興を逃れたユダヤ人がこれらのコミュニティーに加わり、数千の人口を持つ居住地に拡大した。日本の占領は、ユダヤ人コミュニティーの発展とユダヤ人の移民に終焉をもたらした。スラバヤの沿岸都市における、30人ほどの小規模なコミュニティーだけが残った。この地にシナゴーグは存在したが、ラビなどの宗教的指導者はいなかった。(スマトラの沿岸都市にも、コミュニティーがあった可能性がある。) ↩
- 「どこか他の場所でメディアに伝達された」という認識がアンボイナの宗派間における暴力に影響を及ぼす様子に関しては、Spyer 2000を参照。 ↩
- 実際には、スハルトの統治という建造物のひびは、レフォルマスィよりも以前に明らかになっていた。1990年代初頭において、インドネシアが西欧式のライフスタイル(gaya hidup barat)を採ることによって引き起こされる、発展の病弊が次第に広まりつつあるという言説が、国家的、地方的レベルで暑い関心を呼んでいることに私は注目していた。メディアによって伝えられている場、国家的な舞台においては、この言説は多分世俗化と西欧化に関する宗教的関心の前触れであったことを、当時の私は気付いていなかった。その一方で私が注目していたのは、私の知り合ったイスラム教徒の医師達の関心事と成長の病弊に対する治療法には、かなりのイスラム教的要素が処方されていたということである。Ferzacca 2001を参照。 ↩
- スザンヌ・ブレナーは、インドネシアにおける「イスラム教の復活」の一部は、特に中産階級にとっては、政府の役人の厚かましい楽天主義や、エリートの恥を知らない富と力のひけらかしに対する憤りなどの、知覚できるものによって引き起こされていると強調している ↩
- しかし、スンパープムダを利用するにあたって、イムロンは宣誓原文には含まれていた「娘たち」を省いている。 ↩
- ヘルヤントの、比喩としてのプンバグナンに関する卓越した研究を参照。彼はこの研究において、プンバグナンがいかに「知識と認識の新しい主体、新しい価値と世界観、さらに重要な意味においては新しい認識」を体現しているのかを(コーホート記号論によって)略述している。 ↩
- ロバート・ヘフナーもまた、この宗教的な修辞と経験に関する皮肉について観察している。彼は「彼らがいくら独自で不変の真実を装っても、彼等の行動は、広く普及している穴だらけの社会的多元主義の禁断の果物を既に味わってしまっていることを告白している。」と結論付けている。(1998,100) ↩
- クリシュナ・センとデイビッド・T.ヒルは、以下のように記している。「インドネシアの国内制作チャンネルによるテレビ番組の半数以上が、アメリカ、日本、香港、インドからの輸入である。様々なラジオ局から流れる音楽の半数は、西欧の音楽である。書籍、雑誌は他言語の原作から翻訳されたものが多い。また、インターネット上の交通は、地球上の位置を突き止めようとする試みを一切受け付けない。」(Sen and Hill 2000,13) ↩
- 新体制期における、経済発展と消費市場の発展に対する拡張主義的な配慮については、Hill and Mackie 1994を参照。都市とカンプン(村落)関係における消費主義を分析した同書中のパトリック・ギネスの小論を特に参照のこと。 ↩
- スザンヌ・ブレナーは、ジャワ女性のジルバブ(ベール)使用に関する記事の中で、メディアによって伝達された世界的なイスラム教が、ジャワの家族生活の中の社会的習慣と個人の持つ技術にに親密な形で届いていることを例証している。(1996,683) ↩
- カイトリーは、メディア研究を論評する中で、以下のように述べている。「現代のメディア風景において、我々は物事に巻き込まれながら、時流、人々、メディアのベクトルを追わなければならない。」(Kitely 2002,209) ↩
- “Laskar Jihad ini memandang darahnya kaum muslimim demikian mahal. Bahkan darahnya kaum muslimim lebih mulia dari Ka’bah dan lebih mulia dari Arafah” (Ja’far Umar Thalib 2000, 19). ↩
- 「バアシール『信奉者に西洋人を殺せと命じる』」The Jakarta Post.com, October 30, 2004. http://www.thejakartapost.com/detailheadlines.asp?fileid=20041029.@01&irec=0. Accessed October 30, 2004. ↩
- MIAIは、ナブダトゥル・ウラマ(NU)を1926年に建てた、K. H. M. ハッシム・アシアリによって1937年に設立された。MIAIは、 NU、ペルサトゥアン・イスラム、ムハンマディア、その他のイスラム教諸グループの協力を目指す、イスラム教組織の連合として運営された。(Hefner and Horvatich 1977を参照) ↩
- 旧式のインドネシア語のつづりは現在使われているものに置き換えた。 ↩
- インドネシアにおける歴史とアイデンティティーの関係に対する極めて重要な理解が、一部のインドネシア人にとっては絶滅の危機に瀕しているというアンダーソンの発言を、残念ながら認めざるを得ない。 ↩
- “Maka kalau darah kaum muslimim tertumpah hanya untuk politik tertentu, atau demi tokoh tertentu, itu suatu kezaliman yang luar biasa” 「それゆえ、もしイスラム教徒の血がある特定の政治的理由のためだけに、あるいはある決まった政治的人物によってのみあふれ出るのだとすれば、これは大変無慈悲なことである。」(Ja’far Umar Thalib 、2000,19)これらのコメントは皆、分離というテーマに共通の立場を見出している。イムロンや私の会った独学者は、胎動期を共にしたの後の分裂を懸念し、ラスカルジハードは、アンボイナに民兵を派遣する理由はキリスト教徒との戦争のためではなく、キリスト教徒の分離運動を食い止めるためであると宣言している。 ↩
- Ahmad Basoの“Argumen Fikih Mengoreksi RUU KUB,” Kompas, 23 October 2003: 1; および“Revisi KUHP Berpotensi Lecut Kontoversi Horisontal,” Kompas, 1 October 2003 を見よ。 ↩
- “Yusril Bantah Revisi KUHP Mengadopsi Syariat Islam,” Sinar Harapan, 1 October 2003、及び A’an Suryana, “Code Revision Says ‘No’ to Casual Sex, Sorcery,”ジャカルタポスト、12、2003年11月を見よ。 ↩
- “Pembahasan KUHP Terhambat Pergantian DPR,” Kompas, 21 August 2004. ↩
- Undang-Undang (UU) Nomor 22 Tahun 1999 tentang Otonomoi Daerahを参照。 ↩
- 専門的な出典によるものにせよ、ごく一般の人々による文化的な作品によるものにせよ、インドネシアにおける暴力、差別、破壊に関する文字やイメージによる恐ろしげな表現は、インドネシアの内外で近年増え続けている。このことは人間性に対する進行中の悲劇を示しており、このような状況下においては、破壊行為を引き起こしたり、目撃したいという欲望が世界のあらゆる場所においてその劇場的な戦闘を続けている。 ↩
- ナンディニ・スンダルは、人類学者は今の世にあって「世界的に口にされている言説の共通の光に屈折している文化を探求すること」を切迫して行なうべきだと主張している。 ↩
- これらのメディア化が、不安定な時代において人間関係に及ぼす「人工のオーラ」についてはあまりはっきりしていない。「長距離の国家主義」という講義の中でアンダーソンは、交通と伝達の新技術が「ドラマ、犠牲、暴力、スピード、秘密主義、ヒロイズム、陰謀の人工のオーラ」が遠距離における政治参加に及ぼす影響についてコメントしている。こういった政治参加は「責任と説明義務」を欠いた政治をもたらすだろうと彼は確信している。(1992、11)インドネシアの国家範囲にも同じような条件がある、ということができるだろう ↩