イサーンにおけるアイデンティティと2019年選挙、その他における赤シャツの再来

Saowanee T. Alexander

Isan Redshirts Indentity KRSEA

不気味なほど重苦しい2019年選挙の雰囲気は、タイの民主主義への道のりが、今なお軍事政権に支援された支配層エリートという、代わり映えしない門番に阻まれている事の隠しきれない兆だった。野党第一党のタイ貢献党(The Pheu Thai Party)は議会の過半数を獲得したが、政権樹立には至らなかった。これらの選挙結果は(イサーンとも呼ばれる)東北地方の有権者たちにとって何を意味しているのか?軍事政権の指導者、プラユット・チャンオーチャー将軍(General Prayuth Chan-ocha)が権力の座に居座るつもりだという明確なメッセージは、長年、イサーンで政治的不満の表れであった強力な赤シャツ運動を復活させる事となるのだろうか?本論では後者の疑問について、この政治運動に携わる一般活動家の視点からの回答を試みる。赤シャツ派のアイデンティティと、イサーンにおけるより一般的な政治的アイデンティティが、2019年になって一層複雑化している事、しかし、これが民族的な政治運動には発展していない事を論じる。

タイの政治情勢における赤シャツ派の歴史

政治的対立は2006年のクーデターをもたらし、渦中のタクシン・チナワット(Thaksin Shinawatra)首相を失脚させて国を二分化した。一方の黄シャツ運動(以前は民主市民連合、PAD/the People’s Alliance for Democracyと呼ばれていた)は、タクシンとその政治的協力者に激しい反感を抱き、その理由として汚職や縁故主義、権力乱用、反王政主義を挙げた。黄シャツ派の大半は中産階級の都市住民で、汚職政治家に対する嫌悪を公然と口にし、「タイらしさ」と関連した保守的価値観を支持していた。2005年から2006年にかけ、彼らは一連の抗議活動を行ってタクシン失脚を目論んだが、これが奏功して2006年のクーデターが実現した。対する赤シャツ運動(以前は反独裁民主同盟、UDD/ the United Front for Democracy Against Dictatorshipと呼ばれた)は、2007年頃にクーデターと黄シャツ運動に対抗して形成された。赤シャツ派デモ参加者の社会経済的背景は様々であったが、大多数は北部各県や貧困に苦しむ東北(イサーンとも呼ばれる)地方の出身者であった(Naruemon and McCargo 2011)。

2014年には、プラユット・チャンオーチャー将軍率いる軍事政権がタクシンの妹のインラック・チナワット(Yingluck Shinawatra)前首相と縁のある政権を排除した。タイの「色分けされた」街頭運動が、再び政治の中心に登場する事となった。このクーデターは元黄シャツ派デモの参加者やエリート支持者、反チナワット組織の同盟である民主主義改革協議会(the People’s Democratic Reform Committee /PDRC)の街頭デモに乗じ、赤シャツ派による対抗デモを口実に起こされた。ところが、PDRCの指導者たちが2014年のクーデター後に軍部の制裁対象とならなかった一方で、赤シャツ派は国中で厳しい取り締まりを受けた(Saowanee and McCargo 2019)。軍政の暴力的で抑圧的な手段のため、赤シャツ運動は実質上、無力化されてしまった。クーデター直後の抗議デモは小規模で散発的であり、そのほとんどが大学生や学者、あるいは自分は赤でも黄でもないという者達によって組織されていた。

クーデターから数年後、ようやく赤シャツ派は再び姿を現し、全国各地の様々な政治イベントに参加してその支持を表明するようになった。2016年7月24日にクーデター後最大の集会が憲法草案を検討するためにタマサート(Thammasat)大学で実施されると、大勢の赤シャツ派が集い、これ見よがしと赤い服装や装備一式を身に着けた。赤シャツ派は国民投票の監視など、個別の活動を実施しようと試みるが、これらが許可されることはなかった(Saowanee and McCargo 2019)。その上、軍政支配が進むと、赤シャツ派の指導者たちは絶え間なく訴訟攻めに遭った。国外逃亡した者もいれば、逮捕され、軍事法廷で裁かれ、投獄された者もあった。筆者が軍政期に行った現地調査旅行からは、怒りと不満の語りを持ち帰る事となった。ある時、筆者はウボンラーチャターニー(Ubon Ratchathani)で赤シャツ派の村人の一団に取材をしていたが、彼らの一人は著者の質問に答える代わりに、いつになったら誰かが指導者として立ち上がり、軍部を追放するのか、と唐突に聞いてきた。赤シャツ派は比較的静穏を保っていたものの、深い不満を抱え、軍部の強力な支配力が緩むのを待っていたのだ。

March 24, 2019: Thailand’s prime minister Prayuth Chan-Ocha, casts a ballot at a polling station during a general election in Bangkok. Image: thanis / Shutterstock.com

赤シャツ派と2019年選挙 —高まる不満

度重なる先延ばしによって、ほぼ5年が経過した後、ようやく2019年3月に総選挙が行われた。赤シャツ派は動員された。かつてと同じように、彼らは東北地方でのタイ貢献党の大規模決起集会の聴衆の間に、その赤いUDDシャツを身につけて姿を現した。今回、違う事と言えば、党の決起集会の主要講演者たちが赤シャツ運動との関りを口にしなかった事だが、他の講演者たちはそうする事を禁じられていたわけではない。地元のUDD・タイ貢献党指導者らは、クーデター前後の赤シャツ派の苦境、特に赤シャツ派指導者らが獄中で体験した過酷な試練について語り、この運動がその抗議デモ全盛期に反対運動を行った「ダブル・スタンダード(二重基準)」の不満を増強させた。このレトリックは反軍政的な党綱領と共に述べられ、聴衆には甚だ好評であった。

赤シャツ派は反軍政の国家貢献党(Pheu Chart Party)や、解散した国家維持党(Thai Raksa Chart Party)の決起集会にも参加した。国家貢献党の選挙参謀は、UDD議長のジャトゥポルン・プロンパン(Jatuporn Promphan)であった。大勢の赤シャツ派がカーラシン県(Kalasin Province)の決起集会で前部座席に陣取る様子は、彼らの2010年の集会当時を彷彿とさせた。解散した国家維持党は、もう一人の極めて有力なUDDの指導者で、雄弁家でもあるナッタウット・サイクア(Nattawut Saikua)が主導した党であり、やはり赤シャツ派の関心を引いていた。2019年3月13日には、ローイエット県(Roi Et Province)で国家維持党がウボンラッタナ(Ubolratana)元王女を首相候補に指名したかどで解散させられた後、ナッタウット・サイクアがスピーチを行い、民主主義と反軍政の価値観を代表する政党ならどこでも構わないので投票するよう有権者たちに呼びかけた。ここでもやはり、赤シャツ派が前部座席に姿を見せ、講演者たちに熱烈な声援を送っていた。

この事から分かるのは、イサーンの有権者たちが選挙政治については、もはやタイ貢献党のみを自らの「赤シャツ派である事」と同一視しているのではないという事だ。彼らは、より多くの選択肢があると考えていた。彼らの多くは、今もタイ貢献党を支持しているが、それは彼らがこの党を自分たちと同じ不正行為の犠牲者で、2006年のクーデター以来、共に戦ってきた存在と考えているためだ。 1 その事は全く驚くような事ではない。彼らの政治的信念に関する現在進行中の研究プロジェクトの一環として、筆者は選挙後の赤シャツ派にインタビューを行ってきた。興味深いことに、彼らの多く、特に最も熱心な活動家たちが、新未来党(Future Forward Party)の党首、タナトーン・ジュンルンルアンキット(Thanathorn Juangroongruangkit)の大胆で挑戦的な手法に好感を持っている事が分かった。もう一人の反軍政の政治家で、警察長官のセーリーピスット・テーミーヤーウェート(Seripisut Temiyavet)の方がいいと言う者もいたが、これは彼らがこの国を長年支配してきた軍部の独裁体制と張り合う事ができるのは強権を持つ人物しかないと考えていたからだ。 2

選挙は、赤シャツ派の一部の人々が著者に言ったように、この国の長期にわたる対立を解消できた事も、した事もなかった。これまで目にしてきた通り、選挙はより多くのプレイヤーが、支配層エリートの利益のため一層公然と彼らの権力を行使する状況を許容する事で、問題の一端となってきた。このために軍部は政治への影響力を維持していられるのだ。本稿の執筆時点で、タナトーン訴訟の判決が迫り、日々の厳しい経済状況は深刻さを増している。そのような中で、大規模な街頭デモが再び勃発しないという保証はない。だが、赤シャツ派の中には他の者達よりも慎重で、まずは議会制度を通じた闘いを続行させようと望む者たちもいる。しかし、議会がもはや機能不全に陥るような状況になればどうするのかと聞いたところ、ほとんどの者達は「ja ok maa(出て行くさ)」、つまり、今も街頭に繰り出してデモに参加する用意があると言ったのだ。

すなわち、今日の赤シャツ派の活動家たちは必ずしも「赤い」シャツを着ているとは限らないが、その政治経験と信念を内在化させているという事だ。厳しい抑圧を経験し、その指導者や活動家仲間の苦境や最期を目撃しながらも、高齢化する一般活動家は、今もつぶさにニュースを観察し、より小規模で結束力の強い集団と連絡を取り合ったりして政治に関与し、自分が「赤シャツ派である事」を示す機会をうかがっているのだ。その機会がどのようなものになるのか、またこれらの活動家がその「赤派」イデオロギーをどの程度具体的に表現するのかは不明だ。分かっているのは、この運動はまだ決着がついておらず、休眠状態ではあっても、消滅したのではないという事だけだ。

Isan consists of 20 provinces in the northeastern region of Thailand. It is Thailand’s largest region.

赤シャツ派のアイデンティティとイサーンのアイデンティティ

時と共に、赤シャツ運動はこの国で最も人口の多いイサーン地方と著しく結びつけられるようになった。だが、これは赤シャツ運動が民族運動だという意味ではない。第一、赤シャツ派はタイ全土に存在し、反対勢力の拠点である南部にも存在する。第二に、イサーンの全ての住民が赤シャツ派なのではない。では、イサーンのアイデンティティと赤シャツ運動との間にはどのような関係があるのだろう?

これまでに別の場所でも書いた事だが、赤シャツ運動は完全に統制のとれた運動ではなかった(Saowanee and McCargo 2016, 2019; Saowanee 2018)。赤シャツ派連合を率いた主な組織は反独裁民主戦線(United Front for Democracy against Dictatorship /UDD)であったが、これが唯一の赤シャツ派組織というわけではない。事実、この運動には様々な派閥があったが、それらの全ては民主主義支持を主張していた。赤シャツ派全てがタクシンを支持していたわけでもない(中には彼を嫌悪するものさえあった)。逆に、常にPT(タイ貢献党)に投票し、タクシンに好意を持ちながら、赤シャツ集会には一切参加した事が無く、それでいて自らを「赤派」と称する者達もいた。

さらにイサーンには、その他にも非赤シャツ派の運動があった。これらの運動は「政治」そのもの以外の理念に基づく傾向にあり、例えば貧民連合(the Assembly of the Poor)などがある。過去において、抗議者団体がしばしば自分たちの理念を「政治的」なものに分類する事を避けていたのは、「政治は悪」という見方がタイ社会に深く根付いていたためだ。 3ところが、赤シャツ運動はそのアイデンティティを「政治運動」だと認めていた。このため、他の一部の運動は、彼らと赤シャツ派のアイデンティティとの間に距離を置くようになった。最近の2019年10月のバンコクにおける抗議デモでは、貧民連合の抗議者数名が、彼らと選挙政治とを結び付けてくれるなという不満の声を上げたが、これは政府がそのような関連性に付け込み、彼らに裏で操る者(タクシンなど)がいると難癖を付けて来る事を恐れたものだ。

一般的に「赤」というアイデンティティには、幾分のリスクと社会的不名誉が付いて回る。多くの人々は、自分が赤であると堂々と認める事で、赤の属性の一部と考えられている反王政や反軍政などのために迫害される事を恐れているのだ。以前、熱心なデモ参加者であった人々の多くは、タイ貢献党に投票したとしても、自分が「赤」だと言う事には消極的だ。

これは「赤」というアイデンティティが、おそらくは最も主流であったとしても、イサーン地方、あるいはイサーン人の特徴を示すものにはならない事を示している。この地域が一部の観測筋の論じるような、エスニシティに基づく内戦の地となる事は無いだろう。民族的アイデンティティは存在するが、分離主義の原動力となる程強くはない。ラーオ(Lao)のアイデンティティは、見事にタイの地域的アイデンティティに吸収され、これに変容したのだ(Saowanee and McCargo 2014; Ricks 2019)。

赤シャツ運動が、この地域の住民が一般に抱える不満を表していないと言いたいのではない。イサーン人がこの国の正当な有権者であり、市民であるという強い信念が、赤シャツ派であれ、非赤シャツ派であれ、彼らの政治参加の主な原動力になっている。赤シャツ派も、非赤シャツ派も、イサーンの人々は不平等がタイの大きな問題だと考えており、イサーン地方は発展したというよりも、顧みられず、搾取されてきたと感じている。そのため、イサーンの人々は既に赤シャツ派の誕生以前から、様々な大義のために、国家に自分たちの声を聞かせようと奮闘してきたのだ。赤シャツ運動とイサーン地方の政治文化の共通点は、もっぱら統合と発展に対する願望だ(Saowanee 2019b参照)。そのようなわけで、イサーンの赤シャツ組織が民族的なレトリックや分離主義の目標に着手する動きは見られない。

Saowanee T. Alexander
Ubon Ratchathani University, Thailand

参考文献:

Saowanee T.  Alexander & McCargo, D. 2016, ‘War of words: Isan redshirt activists and discourses of Thai democracy’, South East Asia Research, vol. 24, no. 2, pp. 222-241.
Naruemon Thabchumpon & McCargo, D. 2011, ‘Urbanized villagers in the 2010 Thai Redshirt protests: Not just poor farmers?’, Asian Survey, vol. 51, no. 6, pp. 993-1018.
Saowanee T. Alexander, 2018, ‘Red Bangkok? Exploring political struggles in the Thai capital’, Critical Asian Studies, vol. 50, no. 4, pp. 647-653.
Saowanee T. Alexander, 2019b, ‘Isan; Double trouble’, Contemporary Southeast Asia, vol. 41, no. 2, pp. 183-189.
Saowanee T. Alexander & McCargo, D. 2019, ‘Exit, voice, (dis)loyalty: Northeast Thailand after the 2014 coup’, in MM Montesano, T Chong, M Heng (eds.), After the coup: The National Council for Peace and Order era and the future of Thailand, ISEAS, Singapore, pp. 90-113.

Notes:

  1. Saowanee T. Alexander, 2019a, ‘Cooptation doesn’t work: How redshirts voted in Isan’, New Mandala, 10 April, viewed 16 October 2019, https://www.newmandala.org/cooptation-doesnt-work-how-redshirts-voted-in-isan/.
  2. 外観上、新未来党の決起集会に赤シャツ派の参加者は見られなかったが、一部の者たちは、少なくともウボンラーチャターニー県の集会には参加していた。理由はどうあれ、赤シャツ派が新未来党の決起集会で自分たちのアイデンティティを示したがらなかったという事だ。この背景にある理由は調査する価値があるが、この事は赤シャツ派の間で新未来党を堂々と支持する事に、何らかのためらいがあった事を示している。
  3. 皮肉な事に、目標という点で、貧民連合などの活動家には赤シャツ運動と多くの類似点がある。イサーンには、国家主導の巨大プロジェクトに抗議する多くの集団があるが、彼らは赤シャツ派が同じように不平等と不公平を語り始める前から常に存在している。