世界経済における中国の重要性の高まりと、同国の東南アジアとの結びつきの強化を受け、東南アジアの為政者は、より積極的な中国からの外国直接投資(FDI)の誘致を適切と判断した。だが、複数の東南アジア経済では、中国FDIへの要請が産業発展の低迷期に生じたため、中所得国の罠(MIT: middle-income trap)への懸念が高まっている。 1 だが、マレーシアでの出来事は、この問題に有益な洞察を与えるだろう。これまで、マレーシアは長年にわたる中国との関係を活用し、二国間の経済協力の推進を試みてきた。中でも、当時のナジブ・ラザク首相(2009年~2018年)は、中国多国籍企業(TNCs)の誘致に多大な努力と配慮を行った。このため、ナジブ政権は、通常より投資回収期間の長い、野心的な事業を追求し、中国TNCへの依存を徐々に高めた政権と見られている。 2 実際、最も重要な中国プロジェクトの一部がナジブ時代に開始され、歴代首相によって継続された。これには、東海岸鉄道連絡船(ECRL: the East Coast Rail Link)や、マレーシア・中国クアンタン工業団地(MCKIP: Malaysia-China Kuantan Industrial Park)、バンダル・マレーシア(Bandar Malaysia)などがある。 3
プラットフォーム化を重要な要素とするデジタル経済の推進にあたり、マレーシアが協働者に選んだのが、Alibaba(アリババ)だ。近年、国際舞台に登場した中国TNCの中で、最も勢いがあると思われるAlibabaは、デジタル自由貿易区(DFTZ: Digital Free Trade Zone)に関わっている。これは、中国とマレーシア、両国のアンカー企業が関わる官民連携(PPP: public-private partnership)として、盛んに宣伝された。セランゴールのセパンが拠点の同プロジェクトは、この国のデジタル・トランスフォーメーションの起爆剤になると期待されている。また、Alibabaがもたらす技術・知識の移転によって、国内企業が低賃金労働中心の競争から、より付加価値を生む、一層洗練された活動に移行すると予測されている。さらには、これがマレーシアを中所得国の罠から脱け出させるという期待もある。とにかく、マレーシアの技術力や、イノベーション力の向上にとり、DFTZは、少なくとも、理論上は成功例のはずだ。だが、本当にそうなのか、それとも、現実は異なるのか、この記事では、主にこの点を考察したい。
DFTZ Goes Live 2017. Promotional launch video.
デジタル自由貿易区は現実的か
さて、DFTZと、マレーシアの産業生態系(industrial ecosystem)形成の軌跡には、どのような相互関係があるか?少なくとも、このプロジェクトの始まりは、ナジブが2017年の予算演説でDFTZの設置を発表した2016年10月に遡る。それから数週間以内に、ナジブはAlibabaのカリスマ的創業者、ジャック・マー(Jack Ma)をデジタル経済の政府顧問に任命した。 4 主に、マー氏のマレーシアへの協力が期待されるのは、電子決済や、アリペイ(Alipay)、オンライン・バンキング、オンライン融資などを導入する際のeエコノミーのパッケージ化だ。だが、これまで、協力が最も顕著に表れた例の一つがDFTZだ。 5 このプロジェクトは、2017年3月に開始されたが、これは、マレーシア政府が申し入れをしてから、わずか数か月後のAlibaba襲来と同時の出来事だった。
実際、DFTZのビジネスモデルを検討すれば、Alibabaの著しい影響が窺える。このビジネスモデルの価値提案は、DFTZの区域では、確実に迅速な商品配達を行うのに必要な一連のサービスが、時間差で提供されるように計画されている点にある。この地区は、Alibaba初のインターネット・ベースの貿易プラットフォーム、世界電子貿易プラットフォーム(e-WTP: electronic world trade platform)だ。また、このeサービスのプラットフォームを補完するのが、物理的なeフルフィルメント・ハブと、衛星サービス・ハブだ。なお、これらのハブの開発は二段階で行われ、第一段階は、ポスマレーシア(Pos Malaysia/マレーシアの国営企業(SOE: State-Owned Enterprise))が6千万マレーシア・リンギットの費用で引き受けた。 6まず、この予算を使って、ローコスト・キャリア・ターミナル(LCCT)旧跡地がDFTZの施設に改修された。この施設は、少なくとも、2019年から操業可能な状態だ。これに対し、プロジェクトの第二段階については、ほとんど明らかになっていない。だが、Alibabaは株式の70%を取得しており、今後も重要な役割を果たしていくと思われる。ちなみに、残る30%の株式は、もう一つのSOEであるマレーシア・エアポート(MAHB: Malaysia Airports Holdings Berhad)が所有している。
さて、これまでに提示した情報から、二つの重要な考察が浮かび上がる。一つ目に、このプロジェクトは、飛び地(enclave)に近い環境で運営され、より幅広い産業界とはごく僅かな関わりがあるばかりの様子だ。また、商業の中心地、クアラルンプールからは、やや隔離されている(約1時間半)上、マレーシア人がDFTZによる技術移転をどれほど享受したかも定かではない。とはいえ、多少の推測なら可能だ。例えば、このプロジェクトでは、中小企業(SMEs)の起業家エネルギーの活用が見込まれていた。つまり、これらの中小企業にDFTZへの参加を促せば、マレーシアの未熟なeコマースの刺激になるかもしれないとの期待だ。少なくとも、マレーシア国際貿易産業省(MITI: Malaysian International Trade and Industry)は、そう考えていた。 7 現に、推定的な分析によると、2019年末には、DFTZを通じ、地元の中小企業1万3千社が地域や世界のeコマース市場に参入している。それに、2017年末には、2千社に過ぎなかった参入企業の数も急増している。 8
だが、これらの数字からは、明らかになることより隠されることの方が多いようだ。ThamとKam 9 は、二つの懸念を提示した。一つ目の懸念は、eコマースのプラットフォームで、新参の中小企業と、DFTZ設立前からeコマースを使用していた経験豊かな中小企業とが、事実上、識別不可能なことだ。二つ目の懸念は、DFTZのeコマースのプラットフォームに掲載された中小企業の離職率に関する情報が確認できないことだ。要は、もっと多くの情報が入手可能になるまで、懐疑的(あるいは、少なくとも、楽観的だが慎重)な態度を取る方が堅実と思われる。
第二に、資本所有においても、「飛び地効果(enclave effect)」が確認される。要するに、DFTZとは、マレーシアのSOE(ポスマレーシアとMAHB)の集団と、技術集約型の海外TNC(Alibaba)を結ぶパートナーシップなのだ。だが、このような協力関係は、マレーシアの産業化プロセスに精通したアナリストにはお馴染みのものだ。なぜなら、以前から、FID誘致は、国の技術的後進性を補うために行われてきたからだ。なお、これが他のどの場所よりも明白なのが、マレーシアの電気・電子技術の中心地であるペナンだ。1980年代には、マレーシアが重工業化を積極的に推進したが、この時、この国のFDI依存がさらに高まった。これを受け、政府は、海外TNCとの合弁事業を立ち上げて技術的後進性を補おうとしていたSOEの直接的な動員を適切と判断した。 10 だが、財政支出にもかかわらず、SOEには、最も解決が困難な問題があった。その一つは、ライセンス供与などの技術上・経営上の要件が、自分たちの手の届かぬところに置かれている事態だ。要するに、国内SOEが非技術的な問題(規制や、マーケティングなど)を担い、ベンチャーのより技術的側面(インプットや、工場設計、製造ワークフローなど)を海外の投資家が取り仕切る労働の役割分担が生じた。こうした自律性の欠如から、マレーシア人ステークホルダーは、有機的能力(より先進的な市場で、より高い製品規格に向けた努力を行うなど)のより持続的な形の開発を思いとどまり、あるいは、阻止された。
この結果、今では、これらの企業の多くが、各業界から退いてしまった。それに、これらの重工業におけるマレーシアの存在感(世界市場でのシェアなど)も、取るに足らぬものとなった。これについて、複数の研究は、高度化推進のための、この国のFDIと国内SOEへの依存と、民間部門や、ミクロ経済的要因(技術育成や、全ての起業家のための均等な機会など)の相対的な軽視が同時に生じたと指摘する。 11 国内企業が次第に技術的進歩を遂げ、ますます複雑化する商品やサービスの生産・販売から、より多くの価値を獲得するためには、これらの問題に対処し、「中所得国の罠」を克服する必要がある。 12
結論
最後に、政府や組織は、デジタル・トランスフォーメーションの手段として、プラットフォームをますます活用するようになった。DFTZは、マレーシアのデジタル経済への移行の加速という、意欲的とされる理想に、プラットフォーム化がいかに活用されるかを示す一つの事例だ。だが、これまで、DFTZは、より幅広い経済界の、その他のステークホルダーと、最低限の関わりしか持って来なかった。しばしば、様々なステークホルダーには、相反する思惑があるものだ。だが、DFTZは、その価値提案を見直し、ビジネスモデルによって、これに対処する必要がある。 13さらに、DFTZでの、地元のSOE・非SOE企業による直接的な資本所有が無ければ、マレーシア経済の高度化に関する技術的専門知識の実質的な移転も減るだろう。
とりわけ、待ち望まれた技術移転が欠ける中で、DFTZのような大規模PPPが、マレーシア経済の高度化に最適なアプローチかどうかを政策決定者はよく検討するべきだ。あるいは、エコシステムのアプローチなど、新たなガバナンスの形を検討しても良いだろう。エコシステムのアプローチは、SOEがサポーティングアクターとなり、多国籍アンカー企業が関与する構造をもたらす。さらに、このアプローチは、一層多様なステークホルダーを価値創造に関わらせるもので、アンカー企業・サポーティングアクター・ステークホルダー間の技術交流や知識交換が明確な焦点となる。つまり、都市・地方・国家のレベルで、プラットフォーム化が真のデジタル・トランスフォーメーションの目的を果たすには、新しく、体系的なアプローチが必要なのだ。
Guanie Lim
National Graduate Institute for Policy Studies, Japan
Yat Ming Ooi
University of Auckland, New Zealand
Notes:
- Ohno K, The Middle Income Trap: Implications for Industrialization Strategies in East Asia and Africa (National Graduate Institute of Policy Studies 2009) ↩
- Gomez ET et, China in Malaysia: State-Business Relations and the New Order of Investment Flows (1st 2020 edition edn, Palgrave Macmillan 2020) ↩
- Liu H and Lim G, ‘The political economy of a rising China in Southeast Asia: Malaysia’s response to the belt and road initiative’ (2019) Journal of Contemporary China, 28:116, 216-231; Camba A, Lim G and Gallagher K, ‘Leading sector and dual economy: how Indonesia and Malaysia mobilised Chinese capital in mineral processing’ (2022) Third World Quarterly,43:10, 2375-2395 ↩
- Ho WF, ‘Najib: Alibaba founder Jack Ma agrees to be advisor to Malaysian Govt on digital economy’ (2016) The Star ↩
- Ho WF, ‘Najib: Alibaba founder Jack Ma agrees to be advisor to Malaysian Govt on digital economy’ (2016) The Star ↩
- Tham SY and Yi AKJ, Exploring the Trade Potential of the DFTZ for Malaysian SMEs (ISEAS–Yusof Ishak Institute 2019) ↩
- Ee AN, ‘Govt wants more SMEs in Digital Free Trade Zone’ (2018) www.thesundaily.my ↩
- Chin M-Y and others, Digital Free Trade Zone in Facilitating Small Medium Enterprises for Globalization: A Perspective from Malaysia SMEs (2021) ↩
- Tham SY and Kam AJY, ‘Re-examining the Impact of ACFTA on ASEAN’s Exports of Manufactured Goods to China’ (2014) Asian Economic Papers 63-82 ↩
- Hasan H and Jomo KS, ‘Rent-Seeking and Industrial Policy in Malaysia’ in Jomo KS (ed), Malaysian Industrial Policy (NUS Press 2007) ↩
- Menon J, ‘Growth without Private Investment: What Happened in Malaysia and Can it be Fixed?’ (2014) 19 Journal of the Asia Pacific Economy 247-271; Gomez ET, Cheong KC and Wong C-Y, ‘Regime Changes, State-Business Ties and Remaining in the Middle-Income Trap: The Case of Malaysia’ (2021), Journal of Contemporary Asia, 51:5, 782-802 ↩
- Menon J, ‘Growth without Private Investment: What Happened in Malaysia and Can it be Fixed?’ (2014) 19 Journal of the Asia Pacific Economy 247-271; Gomez ET, Cheong KC and Wong C-Y, ‘Regime Changes, State-Business Ties and Remaining in the Middle-Income Trap: The Case of Malaysia’ (2021), Journal of Contemporary Asia, 51:5, 782-802 ↩
- Ooi YM and Husted K, ‘Framing multi-stakeholder value propositions: A wicked problem lens’ (2021), Technology Innovation Management Review, 11:4, 26-37 ↩