ベトナムにおける漫画の概念 ベトナムにおける漫画が、一般の人々から批判を受けてきたのは、彼らの「漫画」という言葉に対する解釈のためである。ベトナム語の「漫画」は “truyen tranh” で、“truyen” が「物語」を、“tranh” が「絵」を意味する。年配世代はこの言葉を子供用の絵入りの物語と認識している。その一方で、若い世代は「漫画」を日本のマンガと同一視している。 「絵入りの物語」としての漫画が、社会で高く評価されていないのは、長年にわたる中国儒教からの影響がある。「物語(truyen)」の内容に教育的、道徳的価値観が無くてはならないと考える人が少なくない。1990年代までの漫画は、知恵や理想についての代わり映えのしないストーリーばかりだった。しかし、漫画にはいろんなジャンルがあり、あらゆる年齢層を対象としている。性的なシーンや暴力、大人の言葉づかいや大人向けの題材で書かれた漫画を見れば、年配世代はこれらが子供達に有害なものだと考えるかもしれない。 つまり、漫画が若者たちに大変人気で、ベトナムの若者文化に欠かせぬものの一部になっているという事実にもかかわらず、漫画は文学あるいは国の「精華(tinh hoa)」であるとは見なされていない。 ベトナムの漫画 漫画は新聞に発表されるだけではなく、作品集のかたちでも出版されてきた。ベトナム漫画には様々なテーマがあり、娯楽や教育、さらにはプロパガンダにも用いられてきた。1960年代後期から1975年まで、漫画はサイゴンで全盛を極めていた。この時代がベトナムで漫画家を増やすきっかけとなった。当時、最も有名な漫画家はVo Hung Kietで、彼は切手を手掛けるイラストレーターでもあった。彼の漫画は子供達に大変な人気があった(図2、3)。1970年代には、ベトナム漫画の外に、中国の连环画(Lianhuanhua: 手のひらサイズの絵本で、連続的な絵が描かれている)やバンド・デシネ(フランスとベルギーの漫画)、アメリカン・コミックス(アメコミ)などが存在した。しかしこれらの漫画は、粗末な印刷の海賊版がベトナム語に翻訳されたものでしかなかった。 ベトナム漫画の発展に大きな変化があったのは1987年以降である。この時代の漫画はアメコミに似せて作られたが、1987年から1990年にかけて着実に発展し、漫画家の人数も、漫画のジャンルも増加した。さらに子供達の需要に答え、政府は漫画制作の促進をとりわけ重視した。最も有名であった漫画家はHung Lanで、その漫画(“Vietnamese fairy tales”, “Toet and Xe”, “Co Tien Xanh”など)は広く読まれていた。ただしその内容というと、教育や道徳哲学などに関するものであった。 1992年には、『ドラえもん』がKim Dong 出版社によって輸入され、ベトナムで初めて出版された日本の漫画(マンガ)となった。『ドラえもん』はすぐに大流行し、4万部以上が販売された。その成功の後、他の出版社もマンガの出版を手掛けるようになる。1995年には、『美少女戦士セーラームーン』と『ドラゴンボール』が出版され、マンガ旋風を巻き起こした。教育的で道徳的な物語のベトナム漫画を圧倒したマンガには、若い読者たちの需要を満たす物語があったし、非常に安い価格で売られていた。マンガは、ほとんどが海賊版であったにもかかわらず、漫画市場全体を支配していた。これに変化が起きたのが2004年で、ベトナムはこの年、文学的および芸術的著作物の保護に関するベルヌ条約の拡大版に署名して、著作権を重んじるようになった。結果、マンガの販売と内容の管理は、以降、厳しい規制を受ける事になった。 新しいベトナム漫画のかたち 日本マンガの他には、韓国と中国の漫画が漫画市場を占めてきた。漫画は子供向けのものであるという偏見が根強いため、ベトナム独自スタイルで漫画を制作する事は困難である。外国漫画の大流入に直面し、ベトナム人漫画家たちも漫画を描くように努めてきた。2002年には、Phan Thi社が、“Than dong Dat Viet(ベトナム神童)”というタイトルの連載漫画を刊行し、これがベトナム漫画に変化をもたらす事となった(図4、5)。“Than dong Dat […]