東南アジアのほぼ全域において、社会的、政治的な対立が増加している。いくつかの国々は、経済的不平等と政治的不平等の両者を抱え、これが今日、民衆の抗議運動によって問われているが、そのような状況はベトナムのように、団結や抗議、集会の権利が制限された国でも同じである。不平等の政治力学、すなわち、実際の、あるいは認識された、様々な形をした不平等に対して、社会的な抗議運動がどのように生じ、いつ、どういう理由で、これらが民主化への要求、つまり、民主化の「ディマンド・サイド」に転換されるのかという事が、東南アジアのコンテキストでは、意外なほどに学者達に注目されてこなかった。最近の報告書の中で、アジア開発銀行(ADB)は、不平等の高まりが地域の政治的安定に対する、より大きな脅威の一つであるとしている。の推測では、「この地域の人々の大半、約5分の4の人々が、さらに不平等化する国々で暮らしている」。 ベトナムでは、ベトナム共産党(CPV)主導の、権威主義的な一党政権下での30年近い高度経済成長の後に、社会的抗議や民主化への要求が生じているわけだが、この国はしばしば、比較的「包括的な成長(inclusive growth)」を示す、所得格差水準が並の事例に挙げられ、中には1993年から2006年にかけての所得格差の低下を示唆する研究もある。この研究を踏まえれば、近年の大規模な抗議運動や、その他の形をした動員を通じて、不平等が政治問題化されている事が謎めいて見えるだろう。だが、不平等に対する許容度は、イデオロギーや、その他の異なるコンテキストによって変わり得るものだ。ある国では許容できる水準でも、イデオロギーや文化、その他の理由から、許容されない事もあるという事だ。ベトナム政治のコンテキストにおいて、党の公式レトリックは繰り返し、経済的平等と(レーニン主義版「中央集権的民主主義」とあだ名された)民主主義、さらには「国家」が中立国でなく、労働者や農民たちを支援する国である事を強調している。しかし、経済的平等や民主主義についての公式的な言説と、国民の暮らしの現実との間には、認知的不協和が拡大している。この不協和は、2006年以降の政治ブログやソーシャル・メディアの急増と関係がある。ソーシャル・メディアは、2013年の制限規定の導入により、議論やオンライン上でのニュースの共有、その他、政党国家に反する、あるいは国家安全と社会的秩序及び安全を脅かす、国家の結束を妨害すると思しき情報が全て禁止となった事、著名ブロガーたちの投獄が広く議論された事をよそに、今も発展を続けている。これらのブログでは、様々な物議をかもす問題、例えば、ベトナムと中国との関係や、民主化、多元主義、人権、汚職や不平等などが論じられている。中でも、党指導部による巨額財産の不正蓄財疑惑は、人々の大変な怒りを買っている。 不平等は、国家の空間に等しく広がったものではない。地方の中には、未だに人々が多かれ少なかれ同じ様に貧しい所もあれば、別の場所では、発展がかなり均一的であったり、また別の地域では、格差の急速な拡大が見られたりしている。つまり、不平等の全国統計水準では、不平等の政治に関わる地理的パターンがわからないのである。全国的な水準では不平等の推移が穏やかであっても、ベトナムの事例は、極めて高い水準の不平等の地理的な集中が発達している事、すなわち不平等の凝集を示している。これらの地域はまた、2005年から2006年にかけて、大規模な抗議運動の起きた地域とも一致する。また、これは多くの民主化運動の活動家たちの故郷でもあり、彼らが地ならしをした事によって、大衆が政治体制の民主化を求める、かなり主張の強い政治的市民社会が発展したのである。 不平等の凝集は、集中した「不同意の空間」(space of discontent)が発達する構造的な条件を形成したようだ。この「不同意の空間」では、異なる問題領域 (例えば労働問題や低賃金、人権侵害、社会保障制度の欠如、土地収奪、土地配分、環境破壊など)に関する抗議運動などを含む、様々な形をした動員が、互いに影響を及ぼし合いながら、権威主義的な政治の抑圧に対峙し、政治空間を広げている。インターネットを通じることによって、当初はむしろ地域的なものであった抗議が、政治への関心と地理的な広がりを持つ新たな支持者たちを得たのである。 経済改革と不平等の凝集 産業化は、海外直接投資(FDI)が主導する製造業の著しい集中を、ホーチミン市やドンナイ省、ビンズオン省などのいくつかの地方にもたらす事となったのであるが、これらは、市民団体らが国家に対して組織的自治や民主的権利を求める長い奮闘の歴史がある地域である。 経済改革が最初にもたらした結果は、地域化された経済的不平等であった。富が増々集中する国の南部では、ジニ係数の不平等水準が他の地域よりも高いものとなった。最近の国連人間居住計画(UN-HABITAT)の報告書は、諸都市におけるジニ係数を推定し、ホーチミン市を、アジアだけではなく、世界中でも最も不平等な街の一つと指摘し、そのジニ係数を0.53と推定した。これによって、ホーチミン市は「不平等の水準が非常に高い」というカテゴリーに当てはまることとなったが、UN-HABITATによると、これは「所得分配における制度上の欠陥を示す」もので、「市およびその他当局が、不平等を緊急を要する事柄として対処すべき(…)」状況であるということだ。この区分では「不平等の水準が危機的な高さに近づいている」。 所得ジニ係数0.4の定義は、「国際的な警戒ラインで、これを超えると不平等が政治的、社会的、経済的に、深刻な悪影響をもたらし得る」という事である。提示されたデータによると、ホーチミン市は「数値が全国平均を大きく上回る」、高度に不平等な都市として突出している。これに比べ、ハノイにおける不平等の水準はずっと低く、0.39と推定される。つまり、分配に対する経済成長の影響は、その結果が全国的に見られたものであるか、特定の地域を対象に推定されたものであるかによって異なるというわけだ。 また、不平等に対する認識も、これと同様のパターンのようだ。2014年に発表された調査は「不平等に対する重大な懸念」が、ベトナム市民の間に存在する事を示しているが、中でも、都市部の住民が最も強い懸念を示しており、都市部の住民10人のうち、8人が不平等の水準の上昇を不安と感じ、その大半の者達が同じ地域に住んでいるという事だ。 不平等の凝集と不満空間 この南部の産業的中心地のあたりこそは、改革時代に最初の大規模な労働者抗議の行われた場所であった。ストライキは違法であったが、改革時代を通じて拡大を続け、2005年と2006年、それ以降には爆発的に増加し、何十万もの抗議者たちを引きつけた。これが南部から全国へと拡大しはじめると、ベトナム共産党は次第に抗議運動を社会的、政治的秩序に対する潜在的脅威と見るようになった。国家の反応がさらに対立的となったのは、抗議者たちが他の民主主義擁護団体の支持を得る事となったためである。だが、これらの抗議運動は、既に土地の収奪や宗教上の権利、環境破壊反対、その他の問題に関する、他の形をした抗議行動のための政治的空間を開いていたのだ。幾つかの民主主義擁護団体が組織され、新たな政党や自主労働組合が公に発表されたが、中には「労働者の権利を保護し、これを増進させる。その権利には、政府の干渉を受けずに組合を組織し、これに加入する権利も含まれ、(また)土地を政府関係者らによって押収された人々の公正を期し、危険な労働環境をなくす」という明確な目標を持つものも存在した。 同年4月から10月にかけ、公に発表された民主主義擁護団体の中で、最も広く知られていたのが、ブロック8406であった。彼らはインターネット上に、「自由および民主主義に関するマニフェスト2006」を公表した。多くの著名な反体制活動家たちが、この労働者抗議を支持したが、その会報の中には「Tổ Quốc(祖国)」のように、不平等の高まりに触れ、より公正な社会の実現には、民主化を通じるより他の方法はないと論じるものもあった。Carlyle Thayerは、この時代を「民主主義擁護団体が明確な運動と融合しはじめた時代」と表現した。 戦後のベトナムで、このような最大規模の抗議運動が増加してから、わずか数か月後に一斉検挙が行われ、最も重要な指導者達が逮捕される事となった。 取締り強化の第二段階では、メディアやインターネット、それから社会科学の研究者たちまで、最も独立した意見の発信源が対象となった。抗議運動の指導者や、反体制活動家たちの裁判が開始された後は、公判で彼らを擁護した弁護士たちまでもが取締り対象となった。またYou Tubeに投稿された映像は、ジャーナリストたちが抗議運動の現場から報道、取材を行おうとした際、暴力的な襲撃を受けた様子であるとされる。 この暴力的な抑圧と、長期刑の判決が、抗議運動の若き指導者達に言い渡された事で、これが多くのブロガーたちから非難され、階層を超えた住民たちの怒りを招く事となった。より大規模な抗議運動が、2011年と2012年に再発し、このすさんだ歳月には、土地収奪をめぐる幾つかの対立が、国家側と自分達の土地を守ろうとする抗議者側の両側で暴力に発展していった。2012年の末には、新たに市民たちの民主化要求が生じ、2013年のはじめには、新憲法発布と同時に「嘆願書72」が、ジャーナリストの一団を前に、党執行部に手渡されたのであった。これは複数政党制による民主主義を主張したものであったが、わずか数週間後にはインターネット上に投稿され、12,000名の署名者を得たとされている。古参党員、たとえば憲法の専門家や、元司法大臣たちが、この嘆願書グループを率いていた。この新憲法には、民主的な方向に向けた変更点が何も含まれていなかったのである。 南部で生じた大規模な抗議運動は、政権交代を求めるものではなかったが、政権に充満した政治的不平等を疑問視する他の者達に、政治的空間を開くこととなった。多くの者たちが、ベトナムの政治体制の正当性と安定について、これが経済成長を生み出す限りは賛成だと主張した。だが、民主化のディマンド・サイドに着目すると、この期待には矛盾があるようだ。大規模な抗議行動への動員が急増したのは、むしろ高度経済成長期であったし、繁栄する南部では、貧困レベルが全国最下位であっても、非常に高い水準の不平等が存在する。2005年から2006年にかけての抗議運動の間とそれ以降に政治的市民社会が拡大したことの意義は、政治的代議制度や政治参加などの政治体制の諸局面についてベトナム共産党と切り離しては考えられないものだ、という支配的だった規範が変化しつつある事を示唆している。人々はたとえ政治的権利が保証されていなくとも、増々、そうした権利を有する国民として振舞い始めているのだ。 東南アジアの不平等の政治力学については、さらなる研究が必要であるが、このベトナムの事例は、全国レベルの下での動きが、不平等の空間的凝集、それが政治化される方法と政治体制の変革との関連性を探る上で重要である事を示している。 ストックホルム大学 政治学科Eva Hansson博士SE-106 91 Stockholm, Sweden eva.hansson@statsvet.su.se Issue 17, Kyoto Review of Southeast Asia, March 2015