気候変動は、東南アジアの長期的な繁栄と安定に深刻な脅威をもたらす。ISEAS-ユソフ・イシャク研究所(ISEAS-Yusof Ishak Institute)が実施した東南アジアの現状2025年(the 2025 State of Southeast Asia)調査では、回答者が初めて、気候変動と異常気象事象を地域の直面する問題の第一位に挙げた。つまり、これらの懸念が東南アジア人の大多数にとって、過去2年間の最大の懸念だった失業や不況に取って代わった(Seah et al., 2025)。また、同研究所が発表した2024年東南アジア気候見通し(the 2024 Southeast Asia Climate Outlook)では、回答者の60%が、今後10年間に自分たちの生活が気候変動の影響を大きく受けると考えていた(Seah et al., 2024)。また、気候変動を差し迫った脅威と見る人々の中でも、フィリピンとベトナムの回答者は地域平均より高い懸念を表明していた。
気候が引き起こす災害は、最も貧しく周縁化された地域社会に偏った影響を及ぼしている。例えば、豪雨による洪水は、フィリピンの首都、マニラの住民の大部分に影響するが、都市部貧困層の地域住民は洪水が起きがちな場所に住んでいる事が多く、さらなる危険にさらされる。また、このような地域には、災害や緊急事態からの回復手段が欠けているため、より脆弱でもある。実際、最近の絶え間ない洪水は多くの人々を怒らせ、尋常ではない水害防止工事の調査要請を引き起こした。[1]さらに、ミャンマーでは、2023年のサイクロン・モカと、2024年の台風ヤギによって、少数民族、特に、女性や少女たちの置かれた状況が悪化した。このような女性たちは、国軍と2021年クーデターへの反対勢力との間で起こった紛争の激化により、国内で住む場所を追われた人々だ(Bauchner, 2023; Relief Web, 2024)。だが、これらは気候変動の一次的影響が、いかに地域の人々の安全と生活を脅かすかを物語るほんの一例に過ぎない。一時的影響以外にも、気候と安全の結びつきから考えられるのが、気候変動が強制退去や社会不安、紛争、その他の安全保障上の脅威の原因となるか、それらを深刻化させる可能性だ(McDonald, 2013)。気候変動の悪影響が対処されずに放置されれば、ASANが努力して手にした相対的な政治的安定や着実な経済成長も危うくなる。
この論文では、気候変動ガバナンスに関するASEANの最近の出来事と、現在の地政学的状況が気候変動に対する地域協力にどのような影響を及ぼすかを取り上げる。また、気候変動の緩和と適応、さらには、気候関連の目標達成や、地域の気候変動ガバナンスへの貢献に向けた外交に関するフィリピンの現在の取り組みや計画についても論じる。非伝統的な安全保障の観点から見れば、気候変動は、単に国家の安全や地域の安定だけでなく、脆弱な地域社会の存続をも脅かす。

ASEANの気候変動ガバナンス
この地域内では各国が似たような気候関連危機に直面しており、炭素排出削減への緩和策や、気候関連リスクへのレジリエンス強化のための適応策を講じる上で、地域の戦略は、国家や地方の取り組みを補完し得る。そして、気候変動の影響が長期に及ぶという事は、ASEANが地域構想の構築に重要な役割を求められるという事だ。実際、ASEANは、気候変動問題の認識に、ブロックとして相当な対応を行ってきた。2007年以降、ASEANは共同宣言や共同声明を発表し、共通の目標や利害を明確にしてきた。また、ASEAN域内と、関心を持った域外の協力者との対話が続いており、気候変動がASEANの多くの協議の議題となっている。低炭素成長への公正な移行の実現に向けて、社会経済的発展を阻害するのではなく、支援する気候変動対策を推進することが、ASEANの主な検討事項だ。
全てのASEAN加盟国が2015年パリ協定を批准し、それぞれの国家計画を打ち出してきた。だが、これらの計画は、気候変動に対する適応策やレジリエンスより、主に、緩和策を強調している。また、不十分な規制能力と限られた財源も、これらの計画の完全な実施を妨げている(Krishnan et al., 2024)。つまり、気候変動に対する地域的な枠組みや機構はあるものの、大半の加盟国が、各自の気候変動に関する目標を達成するには及んでいない(Salazar & Katigbak, 2024)。2024年の環境パフォーマンス指数(Environmental Performance Index)は、気候変動の緩和において、タイとシンガポール以外のASEAN加盟国のほとんどを世界ランキングの下位半分に位置づけ、より厳しい排出削減計画の必要性を指摘した(Block et al., 2024)。また、適応策について、シンガポールは、ノートルダム大学グローバル適応イニシアチブ国別指数(the Notre Dame Global Adaptation Initiative Country Index)に基づく脆弱性スコアは低く、準備度スコアは高いことから、地域内では特異な存在のようだ。だが、加盟10ヵ国の中で、ミャンマー、カンボジア、ラオス、フィリピンは、脆弱度スコアが高く、準備度スコアが低い。つまり、これらの国には、気候関連リスクを低減する緊急対策が必要で、適応力の改善に一層注力する必要があるという事だ。
また、資金力の制約があるため、ASEAN加盟国は、先進国からの気候変動に関する支援を必要とする。フィリピンとインドネシアは、より高額で公正な気候資金を積極的に要求し、公平で、利用可能な財源を脆弱な国に確保しようとしてきた(Antara News, 2025; Lo, 2024)。2024年11月には、アゼルバイジャンのバクーで第29回締約国会議(COP29)が開催された。その際、気候変動に関するASEAN共同声明では、気候資金の協議が遅々として進まず、気候変動適応のための途上国への資金の流れが最低限であるとの懸念が提起された。また、COP29では、先進国が途上国に提供する気候資金を2035年までに年間1,000億ドルから3,000億ドルに引き上げるとの合意がなされた。だが、これは途上国が2035年までに民間部門などの資金源から年間最大1兆3,000億ドルを調達する必要があるということだ。そして、ASEANは他の途上国と同様に、気候資金は政府の財政負担を最小限に抑える無償資金援助を主体とし、低利融資を補完的に活用すべきと要求している。先進国や多国間金融機関からの気候資金の流れが不十分であることから、ASEAN加盟国は緩和策・適応策プログラムのため他の資金源を模索せざるを得ない。
さらに、炭素税市場の設立に関する議論も行われている。シンガポールは、この構想を主導しているが、他の加盟国は方針策定の様々な段階にある(Das, 2025)。現時点では、シンガポールとインドネシアだけが、カーボン・プライシング政策を定めている(Rakhiemah et al., 2024)。また、この地域のグリーン・トランジションへの移行に向けたASEANのカーボンニュートラル戦略には、多大な社会的・経済的利益を生み出す可能性がある。これらの目標を達成するために、ASEANは、加盟国を支援し、気候変動対策の実施を妨げる要因に対処しなければならない。特に、資金や技術の開発・移転、低排出技術の開発・実施などの能力強化、実施を可能にするインフラ整備に対する支援が必要だ。また、2023年8月には、ASEANが気候変動構想に関する地域協力・連携の促進に向け、ブルネイ・ダルサラームにASEAN気候変動センター(ACCC:the ASEAN Centre for Climate Change)を設立すると発表した。
現在進行中のこれらの取り組みの全ては、ASEANの効果的な対応には、ガバナンスの各レベルにおける行動が必要だと強調している。例えば、気候の影響の局地的性質から、国と地方の両レベルにおける気候変動対策の実施が必要となる。また、緩和は世界的な排出削減努力の役に立つ。ただし、「緩和はグローバル、適応はローカル」というパラダイムにとどまらず(Burton, 2011, 481)、地域的な取り組みは、気候変動リスクの国境を超える性質を強調するべきだ。実際、このリスクは国境を越えた生態系にも、共有資源にも、貿易と投資の流れ、そして何より、人の流れにも及ぶ。

フィリピンの気候変動対策
フィリピンの2023年から2028年の国家安全保障政策(National Security Policy 2023-2028)は、気候変動に対するレジリエンスを国家安全保障上の利益と宣言し、気候変動がもたらす地質災害は、社会的・政治的・経済的制度を揺るがす可能性がある事を認めている。つまり、気候変動や災害への備えの強化と、環境悪化の防止は、国家安全保障の中心にある福利に対する脅威削減にとって必要な措置だ。
2023年から2050年の国家適応計画(NAP : The National Adaptation Plan 2023-2050)は、レジリエンスの構築と、気候による損失や損害の最小化、主要部門の適応力強化を目的としている。さらに、NAPは、適応の分野横断的な特徴を認める戦略を明確化した。(1)重要なインフラのレジリエンス向上、(2)社会的セーフティネットと気候対策を利用した国民生活の保護、(3)地方自治体と地域社会が解決策を実行できるようにすること、(4)利害関係者・政策立案者・各機関の間での協力促進、(5)可能な場合は、自然に基づく解決策を優先すること。また、気候変動の緩和において、フィリピンは、適応策の一環として、低炭素成長に向かう方針を立てた。さらに、気候資金や、技術移転、能力開発などによる国際支援を条件に、国が決定する貢献(NDC)を72%と定めた。つまり、フィリピンがNDCを達成するには、外交を通じて自国の気候関連の目標を支えてくれる協力関係を築く必要がある。
気候外交では、フィリピンは損失・損害対応基金(FrLD: the Fund for Responding to Loss and Damage)理事会を主催するなど、いくつかの構想を主導している。また、排出削減や、人権擁護、世界的な安全保障の推進に向けた国家の義務について、他の90ヶ国と共に、国際司法裁判所(ICJ)に明確な法的指導を求めている。COP29では、フィリピンがFrLD理事会の開催国となる合意書に署名した。FrLDは、異常気象事象などの気候変動がもたらす経済的・非経済的な損失・損害に脆弱な国が対処するための国際支援の運用を可能にする基金だ。2024年8月、フェルディナンド・マルコスJr.大統領は、FrLD理事会に法人格と行為能力を授ける授権法に速やかに署名した。また、ICJが2025年7月23日に示した画期的な勧告的意見は、気候変動に関する国際連合枠組条約(UNFCCC)の締約国には、気候変動への緩和策と適応策を講じる義務があり、特に、附属書Ⅰ国や、先進国は気候変動対策を先導するべきだと定めている。これらの外交努力に沿って、フィリピンのローレン・レガルダ(Loren Legarda)上院議員は、2015パリ協定の土台となった2015年マニラ気候変動に対する行動要請(the 2015 Manila Call to Action on Climate Change)のような地球規模の気候変動対策をフィリピンが率先する事を提案した。

気候と地政学
また、これらの国家的・地域的取り組みの全てが生じる背景には、大国、米中の覇権争いがあるが、これは地政学的緊張や、国家安全保障上の懸念、地理経済的な課題をもたらし、地域に影響を与えている。例えば、米国による相互関税の賦課と、その他の国による報復関税は、クリーンテクノロジーの国際的な供給網を混乱に陥れる。また、気候変動に対する米中間の協力は不可欠だが、二国間の議題から気候変動が外された事や、米国のパリ協定離脱などは、地域的・世界的な気候変動対策の大幅な後退だ。もし、世界的な気候変動対策の推進に米中が連携して指揮を執れるなら、特に、この地域の途上国には得るものが多い。
米国のドナルド・トランプ大統領は、緑の気候基金(the Green Climate Fund)に40憶ドルを寄付するという当初の公約を撤回した(Mathiesen, 2025)が、これは他の先進国が同じようにする前例を作った。また、トランプ大統領の主張に従い、北大西洋条約機構(NATO)加盟国は、2035年までに防衛費を年間国内総生産(GDP)の5%に引き上げると約束した(Letzing, 2025)。たとえ、NATO加盟国がこの公約を履行しなくても、現在、多くの欧州諸国政府が防衛予算引き上げの必要性を認識している。そして、これを実行するには、各国政府がその他の支出を削減しなければならなくなる。つまり、政府開発援助や、気候資金に対する予算が打撃を受けるのは間違いない。欧州と米国からの支援が無くては、利用可能な資金と技術の蓄えが減り、東南アジア諸国が気候関連の目標を達成するための資源の動員が一段と困難になる。
ほとんどのアナリストや学者は、気候変動を脅威増加要因、あるいは、他の軍事的・経済的な優先事項との間で手段的なトレードオフをもたらす問題と見ている。だが、先に進むには、幅広い視野での思考が役立つかもしれない(Colgan, 2021)。この視野を拡げたアプローチでは、気候変動は単に一つの問題ではなく、他の全ての問題に影響を及ぼす広がりを持った背景条件だ。また、このアプローチにより、政策立案者や利害関係者が国際協力や国際競争に、より包括的で戦略的な方法で対処する事も可能になるかもしれない。最近の出来事を理解するのに役立つ、もう一つの枠組みは気候安全保障という概念だ。気候変動の影響から生じる紛争が避けられない事と(Caballero-Anthony, 2024)、この地域での大国の覇権争いの幅広い影響を考慮すれば、これはASEANの公式会談でいくらか注目されるべき概念だ。このように、気候変動を総合的視点から検討すれば、脆弱性の高い地域におけるリスクの相関性と複雑さが明らかになる。
Virgemarie A. Salazar
Assistant Professor at the Department of Political Science, University of the Philippines Diliman.
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Notes –
[1] There have been allegations that some legislators received huge kickbacks from overpriced or substandard flood control projects (Santos, 2025).