女性が主導権を握る時:共産主義運動におけるPerempoean Kromo(一般市民女性)

Rianne Subijanto

Indonesian Communist women ca. 1920s exhibited in Marx-Engels-Forum, Berlin, Germany (courtesy of author)

2019年晩夏、学会旅行の際、ドイツのベルリン、Mitte(ミッテ)区中心部のマルクス・エンゲルス・フォーラム公園を訪問した。シュプレー川の土手近くにある、木々の生い茂った公園に到着した時、私の注意を引いたのは、Ludwig Engelhardt(ルドウィッグ・エンゲルハルト)のマルクスとエンゲルスの銅像ではなかった。それより、私は、マルクスとエンゲルスの銅像を取り囲む鋼鉄製の壁面に刻まれたインドネシア人女性の写真を見て息を飲んだ。その壁は、世界各国の共産主義運動の様子を描いたレリーフで構成され、その多くには女性が描かれていた。このインドネシア人の写真には、ジャワの伝統装束、kebayaをまとい、konde(髷)を結った10人の女性が写っていた。そのうちの3人は、ハンマーと鎌が描かれ、“P.K.I.” (インドネシア共産党/Partai Komunis Indonesi/ the Communist Party of Indonesia) と “S.R.” (人民同盟/ Sarekat Ra’jat/the People’s Union)の文字がある看板を中心に座っていた。この看板は、この写真がpergerakan merah(共産主義運動)の全盛期に撮影されたことを示す手がかりとなった。なお、これは、1920年代に植民地時代のインドネシアで、国民による初の急進的な反植民地デモを組織した運動だ。だが、この時代の歴史文献と、この鋼鉄製レリーフの間には甚だしい相違点があった。非常に興味深いことに、1986年に建設されたフォーラム公園が共産主義運動の代表として女性を公然と選んだのに対し、この運動の歴史文献からは女性の存在が欠けたままになっている。

Communication against Capital explores the revolutionary communication strategies of the pergerakan merah, the anticolonial “red movement” in 1920s Indonesia.

最新の著書、“Communication against Capital: Red Enlightenment at the Dawn of Indonesia”では、この懸念を論じた。同書では、この急進的な運動が非常に大衆的だったなら、なぜ、この時代の既存の歴史文献が、運動を男性指導者の目線でしか語らなかったのかを問う(cf. McVey, 1965; Shiraishi, 1990)。この大衆運動での庶民の役割とはどのようなものだったか?同書は、共産主義運動への庶民の積極参加について解明し、この運動が市民の日常的背景から生じ、時と共にジャワを超え、インド諸島各地や、海外にも拡大して行った過程を示す事を目的とする。さらに、この運動が、新たに生じたコミュニケーションの技術や実践を中心とする集団的・非暴力的な活動の展開により、オランダ支配に対する反植民地の抵抗運動を促した事も明らかにする。マルクス・エンゲルス・フォーラムの写真の10人の女性は、この運動に参加した何百、何千人もの女性に比べると、ごく僅かな代表でしかない。

まず、女性の共産主義運動への積極参加には、狭義における女性運動を生み出す意図がなかった点を明確にしておく。つまり、共産主義の女性たちは、女性の大義のためだけに結集したのではなかった。この記事では、“Communication against Capital”の主な洞察を解説し、共産主義運動で、女性たちが女性部門の利害のためだけに結集したのではないという事実を明確に示す。むしろ、女性の関与は運動全体に見られ、女性のものと思われないような問題も提唱された。共産主義運動の歴史に限らず、女性運動の歴史においても、これこそが、共産主義女性の最大の功績だと論じよう。では、女性に関する問題以外の運動に女性が結集した際、一体、何が起きたのか?

この問いに答える前に、共産主義運動への女性の関与の性質について理解する事が重要だ。これを理解するため、Sinar Hindia新聞の初の女性編集者、woro (Ms.) Djoeinahの言葉を見てみよう。1921年2月7日のSinar Hindia新聞の記事、“Beladjar Ta’ Mengasingkan Diri!”(Learning to Not Alienate Oneself!)で、woro Djoeinahは、自身がこの記事の著者である事実を政治参加の一形態と見なしていた。次に、彼女の言葉を挙げる。“Dengan hati merasa ta’ tetap, kami akan mengoeraikan kata-kata di dalam halaman S.H. itoe, toeroet berlomba-lomba dilapangan politiek”(我々は、落ち着かない心で、S.H. [Sinar Hindia] の紙面に言葉を述べ、政界に参戦する)。この“lapangan politiek” (政界)という表現は重要だ。また、他の匿名記者は、これと同じ意味を示すために“medan politiek”という別の表現を用いる(D.T., 1921)。つまり、woro Djoeinahなどの関与した女性たちにとり、共産主義運動は政界であり、これへの関与は政治的行動だった。このように、植民地主義や、資本主義に反対し、人権・正義・自由を求めるインドシナ諸島と世界の連帯運動で、共産主義運動は一人一人のkromo(一般市民)を結束させた。したがって、ここで、政治的な行動をするという認識には、尊厳ある暮らしのために、kromo階級が生計や生産の手段を所有・管理する実権を求める闘争の意味が備わっていた。もっとも、そのような暮らしは、ジャワ貴族による封建主義や、オランダ植民地支配の下で望めるものではなかった。

ここで、kromoが共産主義運動において、人々を結束させる集団的アイデンティティだった点を明確にしておきたい。つまり、kromoとは、階級も地位もない下層階級を意味する。その大部分は、読み書きが出来ない下層階級の幅広い集団で、農民や、労働者、船乗り、湾港労働者、都市部の貧困層や、母親、専業主婦など、様々な背景を持つ人々が含まれる。当然、この支部名に、“perempoean”(女性)という語が使われだすと、“perempoean kromo”という呼称が急速に広まり、共産主義運動で女性を結束させるアイデンティティとなった。

PKI meeting in Batavia (now Jakarta), 1925. Wikipedia Commons

では、「政治的行動」と解釈される実践とは、どういうものだったか?“Communication against Capital”の重要な結論の一つは、共産主義運動が植民地時代のインドネシアで(以前の闘争のような)武力衝突によらず、画期的なコミュニケーションの創出を通じて行われた初の反植民地闘争だったというものだ。特に、1918年 に“Sarekat Islam”(イスラム同盟)の女性支部、“Sarekat Islam Perempoean”(女性イスラム同盟)の設立後、女性が運動に参加し始めると、openbare vergaderingen(市民集会)の参加者や計画者などが大勢集まった。とりわけ、鉄道労働組合、VSTPが主導した1923年5月のストライキを受け、(男性)指導者の大半が逮捕され、離島や海外に追放されると、女性の参加はさらに拡大した。1923年から1925年にかけ、運動の拡大と普及、一層の急進化においても、結集を促す女性の存在が際立っていた。彼女たちは、ジャワ島全土、他にも、スマトラやMaluku(マルク)などの様々な都市の住宅や事務所、学校、映画館などで集会を主導した。このような女性たちは、集会で議長を務め、発言し、党の結成や動員戦略、共産主義思想を語った。また、彼女たちは、商品や食品の流通を左右する女性の力を活用し、昔からの市場(pasar)でのストライキも計画した。実に、女性たちは、売り手(大半はkromo女性)が商品の販売を停止すれば、上流階級の人間が食料品を入手できなくなる事を十分に承知していた。また、女性たちは、VSTPのストライキで一部の指導者が逮捕されると、その家族が確実に暮らせるよう、寄付金を募った。Sinar Hindia紙のvergaderingenの報告では、募金運動は、大抵、市民集会の後で行われ、女性たちは同志を支えようと、お金や食品、宝飾品まで寄付したという。女性たちは、これらの市民集会を様々な場所で開催したが、中でも、最も珍しかった場所がパブリックキッチンだ。これらのキッチンは、さらに多くの女性が家族に食事を用意しながら政治的議論に加われる場を提供した。

集会や大会、ストライキの外にも、共産主義女性の実践には、執筆や読書、教育などがあった。実際、woro Djoeinahのような多くの女性が、Sinar Hindia紙など、革命派の新聞各紙に寄稿した。そして、市民集会で論じられた話題が様々だったように、これらの記事では、女性の問題以外にも、植民地主義や、保守的な反共団体、革命戦略など、様々な話題が論じられた。また、離婚や、一夫多妻制、リプロダクティブ・ヘルス、子育てや結婚などは、「女性の問題」とされがちだが、女性だけでなく、男性もこれらの話題を論じた。例えば、1921年には、共産主義政治局員、Darsono(ダルソノ)が “Kaoem Perempoean”(女性)という題で、3部作の連載記事を発表した。ここでは特に、prijaji(上流階級)女性とkromo女性の違い、共産主義運動でのkromo女性の立場が論じられ、この運動におけるkromo女性の意見が表明された。さらに、男性と並んで、女性もまた、共産主義の学校、Sekolah Ra’jat(人民学校)の発展と教育に携わった。これらの学校は、1926年から1927年の暴動の後に禁止されるまで、多くのkromoの子供たちが学ぶ場となった。Sekolah Ra’jatの創設者、Tan Malaka(タン・マラカ)が1922年に除名された後、この共産主義の学校はジャワ各地で急増した。それらの地域には、Bantam(バンタム)や、Buitenzorg(ボイテンゾルフ)Batavia(バタヴィア)、Preanger(プレアンガ)、Cheribon(チルボン)、Pekalongan(ペカロンガン)、Semarang(スマラン)、Madioen(マディウン)、Kediri(クディリ)、Bodjonegoro(ボジョネゴロ)、Soerabaja(スラバヤ)、Besoeki(ブスキ)などがある。なお、スマトラのWestkustでは、これらの学校はThawalib校と呼ばれた。これらの共産主義の学校が拡大する中、Woro Djoeinahは、女性たちが互いにリプロダクティブ・ヘルスなどの技術と知識を学び合う女性の特殊学校の設立に尽力した。

The front page of Sinar Hindia, September 9, 1918. The paper’s its editors Mas Marco Kartodikromo and Semaun were instrumental in the rise of the Communist Party of Indonesia. Wikipedia Commons

すでに明確と思われるが、共産主義運動におけるperempoean kromoの政治分野は、単に女性の利害とされるものだけが中心ではなく、この運動のより大きな利害も担っていた。現に、彼女たちの演説や文章では、女性の抑圧と搾取が家父長制度と資本主義の絡み合いに基づくと理解されていた。したがって、この抑圧と搾取を終らせるには、資本主義からの脱却が必要だった。この際、ジェンダーや性は、階級を表すものと認識された。ここで言う階級とは、職業的な階級ではなく、実権として理解する必要がある。つまり、Perempoean kromoには、尊厳ある生活を手に入れる実権が欠けていた。この典型例は売春だが、他にも、女性が教育や医療、政治的権利、結婚における平等を手にする権利もこれに当たる。要するに、女性のジェンダーや性に関する利害がkromo階級の利害に包含されたのではなく、perempoean kromo階級の特徴が、何より、女性のジェンダーや性に特有の経験を通じて表れていた。

この階級とジェンダーや性を組み合わせた理解こそ、perempoean kromoによる重要な功績の一つだと私は考える。また、彼女たちは、経済をより広く捉えるように主張した。そもそも、彼女たちにとって、女性の闘いとは、単に参政権や被選挙権、統治を手にする闘いではなかった。むしろ、それは、しばしば、「非経済的」(価値を生み出さない)とされながら、実際には、社会・経済組織に直接寄与する組織を育む闘いでもあった。具体的には、そのような組織とは、学校や教育、文学やジャーナリズムを含む公共圏、市場、医療、各種組合などの政治同盟を指す。こうして、女性たちは、この運動における女性の代表性の問題以外にも、「女性の問題」が極めて重要となる前述の社会・経済団体の設立と維持のための戦略を中心に据え、運動に貢献した。そして、100年前に、植民地時代のインドネシアで共産主義の女性たちが示した見解は、Tithi Bhattacharya(ティティ・バターチャリア)や、Susan Ferguson(スーザン・ファーガソン)、Nancy Fraser(ナンシー・フレイザー)、Silvia Federici(シルビア・フェデリーチ)など、現代のマルクス主義フェミニストの社会的再生産に関する盛んな研究にも影響を与えている。

ここで、この記事の冒頭の問いに立ち返ろう。果たして、女性たちと、「女性の利害」は共産主義運動にどのような影響を与えたか?また、より広範なkromo階級の運動の利害は、女性の利害の重要性を下げたか?実際は、これと正反対で、perempoean kromoがこの運動に政治的に関与したことで、女性解放が運動全体の要求となり、反植民地・反資本主義の中心課題の一つに位置づけられた。こうして、「非経済的」で、「非公式的」な社会的再生産の平凡な領域は、闘争の重要な領域となった。これにより、政治は、党大会だけでなく、結婚や医療、ファッション、子供の命名、子育てなどの文化的領域にも生じた。さらに、女性たちがスピーチや文章を通じ、運動の階級的利害を要求したため、kromoの要求は普遍的となった。さらに、これらの要求は、男性や、エリート指導者だけのものではなく、運動全体の集団的な要求として共同で表明されるようになった。また、男性との連帯により、女性は、共産主義運動の参加者や問題のさらなる多様化を促し、これをより包摂的で普遍的な運動に変えた。このperempoean kromoの話から分かるのは、女性が主導権を握ると、彼女たちは、運動構築の平凡なプロセスを重要なものに変え、これをより民主的で平等主義的な運動にする可能性があるということだ。

Rianne Subijanto
Rianne Subijanto is Associate Professor of Communication Studies at Baruch College, The City University of New York. She is the author of Communication against Capital: Red Enlightenment at the Dawn of Indonesia (Cornell UP, 2025).

References

D.T., 1921. “Terhadap Kaoem Poeteri Terpeladjar” (To the Educated Women). In Sinar Hindia, February 16.
McVey, Ruth Thomas. 1965. The Rise of Indonesian Communism. Ithaca, NY: Cornell University Press.
Shiraishi, Takashi. 1990. An Age in Motion: Popular Radicalism in Java, 1912-1926. Ithaca, NY: Cornell University Press.