ミャンマーの和平プロセス —2010-2021

Claudine Haenni

Sittwe, Rakhine State, Myanmar, 2015: Rohingya child selling watermelon in street. Photo: Suphapong Eiamvorasombat / Shutterstock.com

1957年から2010年までのミャンマーの歴史は、現在も続く国軍(現地ではタトマドー: the Tatmadaw: と呼ばれる)と、様々な少数民族武装勢力(EAOs)との武力衝突を特徴とする。この間、国軍は、時として一部の組織と停戦に至る事もあったが、2010年に開始された政権移行には、より包括的な和平合意の達成という明確な目標があった。この全国停戦合意(The Nationwide Ceasefire Agreement: NCA)は、2011年に政権を取った軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)政権が提案したもので、これが変化のきっかけとなった。この記事では、停戦交渉に向けてUSPDが用いる新たなアプローチから、国民民主連盟(the National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下で進行した、政治交渉の官僚主義化まで、和平プロセスの展開を分析する。その後、2021年2月のクーデターが和平プロセスのステークホルダーの立場や認識、関係に、どのような影響を与えたかを検討する。だが、これらの考察によって、当事者全員に自分たちが「勝つ」という思いがあるうちは、和平交渉は再開されそうにない、という残念な結論が導かれる。何より、たとえ和平交渉が再開されたとしても、もはやNCAは平和を実現する有効な手段とはならないだろう。

社会契約が無い国の中央集権化

ミャンマーには、実に多様な民族集団があり、話される言語には、ビルマ語や、シナ・チベット語、タイ語、モン語やサンスクリット語由来の言語などがある。そのせいか、英国植民地支配の下では、ビルマ中心部が直轄統治を受けた一方で、山間の国境地帯は、現地の少数民族の指導者との一連の曖昧な取り決めを通じて支配された。

1947年には、ビルマから植民地の支配者を追放するため、多数派ビルマ族とカチン族、シャン族、チン族の指導者間に緩やかな同盟関係が結ばれた。ただし、この協定の規定では、10年後に連邦国家の設立に関する国民投票の実施が求められていたが、これが履行される事はついになかった。その後、1962年には国軍が権力を掌握し、国軍によるミャンマー支配は、2010年に政治、経済、和平をめぐる移行期が開始するまで続いた。だが、国軍はその後も、文民政権との臨時的な権力分担の取り決めを通じて自身の影響力を保った。

1957年から2010年までは、軍事支配に対する、武装した少数民族の抵抗運動が広範囲で行われていた時代だ。この運動の主な目的は、少数民族の自治、あるいは独立を達成し、少数民族の地域から国軍を追い出す事だった。確かに、一部のEAOsはイデオロギー上の信念のもとで結成されていたが、大半の組織に、その政治的思想の指針となる「世界像(Weltbild)」があったとは言い難い。

国軍はその統治期間を通じ、様々な武装組織と停戦交渉を行うことで、そのような組織の鎮静化を試みた。これらの交渉の成果は様々で、中には何十年も停戦が続いているもの(例えば、モン州やチン州、ワ州など)もあれば、(カチン州など)不安定で、紛争が繰り返される例もある。だが、これらの停戦協定は単なる紳士協定に過ぎず、紛争を煽る不満を和らげるための、政治体制の変化に向けたさらなる交渉にはつながらなかった。しかも、国民アイデンティティや、少数民族の包摂という概念についての議論も行われず、多数派ビルマ族の象徴的な中心性がそのままとなった。これと同時に、少数民族は(認識上、事実上の)「ビルマ化」政策を、自分たちが必死に闘って守ろうとしているアイデンティティの存続を脅かすものと理解した。

Map of armed conflict zones in Myanmar (Burma). States and regions affected by fighting during and after 1995 are highlighted in yellow. Wikipedia Commons

和平プロセスの第一段階(2010—2015)

2010年に政治的自由化(political opening)が開始された後、軍政寄りの連邦団結発展党(USPD)が当選を果たし、1962年以来の準文民政権として権力を握った。当時、USDPが実行した多くの改革には、少数民族地域の鎮静化という新たな試みがあったが、同党はこれに全く新たな手法で取り組んだ。すなわち、以前の和平交渉の多くが臨時的で、現地の国軍司令官とEAOsの個人的な会談だったのに対し、新たな交渉は閣僚級の担当者を中心とした、はるかに組織的な会談だったのだ。

さらに、政府の交渉責任者(ウー・アウン・ミン元中将: U Aung Min, a former Lieutenant General)は、誠意を持って会談に臨む気があるなら、どのような武装勢力とも無条件で会うつもりだと表明した。また、彼が自分の善意の証として、交渉に備えて設立したミャンマー平和センター(Myanmar Peace Center: MPC)のスタッフには、海外から帰国した大勢のビルマ人を含む民間人アドバイザーがいた。しかも、そのようなアドバイザーは、国際情勢に詳しい専門家や篤志家と、元中将本人よりも上手く付き合う事ができた。そこで、アウン・ミン元中将は窓口となる彼らを励まし、その助言を受け入れる一方で、この和平プロセスが、ミャンマー国民が中心となるミャンマーのプロセスであるとも主張した。さらに、彼はEAOsのアドバイザーと関わりを持とうと意図して努め、このプロセスが信頼できるものである事を示した。

アウン・ミン元中将には、交渉のための幅広い権限が与えられていたが、彼の権限を越える決断が必要となれば、大統領に直接面会する事もできた。また逆に、大統領もこの最高司令官と直接協議する事で、彼の支持を取り付ける事ができたのだ。

そしてついに、この交渉努力が実を結び、全国停戦協定(NCA)が実現した。ちなみに、この交渉にはEAOsから13組織が参加していたが、2015年10月15日に同協定に調印したのは、(武装勢力の30%にあたる)わずか8組織のみだ。その他の組織の一部は、軍によって調印から除外され、また他の(主には中国との国境沿いで活動する)組織には、調印しないよう圧力がかけられていた。

ところで、NCAには、いくつかの新たな要素があった。例えば、これは書面による協定で、軍部と全EAOの間で締結される事を想定した多者間協定(で、以前の二者間停戦合意によって補完されるもの)であった。また、同協定は国際社会の6か国(中国、インド、タイ、日本、国連、EU)の立会人によっても調印され、停戦を監視するための正式なメカニズムも備わっていた。しかも、NCAは「フェデラル民主連邦(federal democratic union)」の設立という明確な目的を持った政治対話の礎となり、これが改憲への道を開いた。そして、2016年2月には、初の連邦レベルでの和平会議が開催され、この直後に、2015年選挙で圧勝を収めたNLDが政権を取ったのだ。

Leader of the National League for Democracy in Myanmar, Aung Sang Suu Kyi, at the 21st Century Panglong Conference. Wikipedia Commons

和平プロセスの第二段階 ——交渉のさらなる官僚主義化(2016-2020)

NLD政権は、多くの人々から民主主義の勝利と見なされていたが、政権交代の優先が和平交渉に悪影響を与えるのではないかという懸念もあった。後に、この懸念は適切であった事が、誰も予測しなかった形で判明した。

そもそも、新政権は和平交渉の仕組みを完全に変えてしまった。ミャンマー平和センター(MPC)は廃止され、これに代わって国家和解・平和センター(National Reconciliation and Peace Centre)が設立されたが、そのスタッフは全て政府の公務員だった。さらに、前政権の交渉人やアドバイザーは解任され、新たな交渉責任者にティン・ミョー・ウィン博士(Dr. Tin Myo Win)が任命された。ところが、同博士には、和平プロセス、少数民族のいずれについても、それまでの経験がほとんど無かった。つまり、(引き続き経験豊富な交渉チームを残した)軍部やEAOsの交渉相手とは違い、政府の交渉チームには、以前にどのような交渉が(どのように)行われていたか、という組織としての記憶も理解も欠けていたのだ。

しかも、NLDの新たな交渉人には、自分自身で決断を下す権限が無かった。彼は事実上の政権トップであるアウンサン・スー・チーと直接面会する事はできたが、彼女の下の(信頼の欠如と権力闘争を独自の特徴とした)官庁が決断の妨げとなった。その上、守旧派のテクノクラートと、経験に乏しいNLD幹部のコンビは、EAOsの根本的な不満を見くびり、民選政府とはいえ、「ビルマ族の」政府に対する少数民族の信頼欠如を甘く見ていた。さらに、NLDは、議会の外でのプロセスが、議会における自らの主導権を脅かすものではないと理解するまでに、貴重な時間と信頼を失ってしまった。

こうして、NLD政権と国軍の間で次第に亀裂が深まり、不信感がくすぶり続けた結果、メッセージのやりとりに齟齬が生じ、政治対話の有効性も急降下した。それに、いわゆる「軍事問題」とは距離を置き、「政治問題」をリードしようとするNLDの試みは、同政権を和平プロセスの第一線から退ける事となった。結局、NLD政権は文民統制の機会を取り戻すより、むしろ国軍に相当な自律性を与えてしまったのだ。さらに、多くの人々が国軍を「出し抜く」試みと捉えていた新政権による和平交渉で、NLD率いる交渉チームは、前回調印していなかった組織をNCAに加盟させる事を優先し、信頼できる政治プロセスの構築を後回しにした。

その結果、4年間の懸命な努力の末、二つの小規模なEAOsがNCAに加盟した。また、政治交渉がほとんど具体的な成果をもたらさなかったのは、(800人以上の参加者が出席した)パンロン会議(Panglong Conferences)の形式にも問題があった。実際、この会議は決め手となる交渉にも決断にも結びつかなかった。むしろ、和平プロセスは大いに後退し、連邦制や武装解除、動員解除と再統合(DDR)に関する曖昧な議論となった。このように成果の出ない状況は、協定に調印したEAO指導部に計り知れぬプレッシャーを与え、NLD主導のプロセスに対し、彼らを益々幻滅させる一因となった。EAOsは、分権的な連邦制の設立を「ビルマ族による侵略と国軍による占領」に対する唯一の保障と理解していたが、これに対する意欲が政府にも、国軍にも無いと感じていたのだ。

Taunggyi, Myanmar, March 2021: Myanmar military cracks down on peaceful protesters. Photo: R. Bociaga / Shutterstock.com

武装した無政府状態への逆戻り(2021年2月以降)

この記事を執筆している現段階で、今回のクーデターが和平交渉にどのような影響を与えるかを予測するのは時期尚早だ。だが、明らかに、EAOの国軍に対する認識は、解決策をもたらす可能性を秘めた存在から、最大の公敵へと変わってしまった。今回のクーデターは突然の出来事のように感じられたかもしれない。だが、これによって、国軍は信用ならないという、全てのEAOsが抱いていた疑念が事実であると確認され、国軍が対話や和平、まして民政移管に関して誠実であったためしは無いという確信も、さらに強められた。

これまで、EAOsは、自分たちの地域で国軍の迫害を逃れようとする人々を保護するために尽力してきた。彼らはまた、都市部の若者の一部に「自己防衛」のための訓練を積極的に施そうとしているが、(1988年とは違って)それらの新たな志願兵をEAOsの兵士として採用してはいない。

それに、NCAに調印したEAOsは、民主化運動やクーデターに対する抵抗運動の支持を即座に誓った。彼らは、口先ではNCAの取り決めに同意しているものの、国軍と政治対話を行う事には消極的だ。なお、調印済みEAOsの調整機関が先頭に立ち、NCAの立ち合い人の下で行う、全てのステークホルダーに開かれた対話が呼びかけられたが、この取り組みは日の目を見ずに終わった。その理由は、国軍が部外者による仲介や、調印済みEAOsの異議を認める事を拒否したためだ。また全体として(民主派の国民統一政府: National Unity Government: NUGとの連携から、軍部主導の国家行政評議会: State Administrative Councilへの加盟まで)、EAOsの様々な組織の多様な反応も、この調整機関を機能不全に陥れた。

一方、未調印のEAOsにとって、今回のクーデターはNCAが無効である事を裏付けるものとなった。彼らは皆、国軍との対話を見合わせ、カチン州やシャン州北部、カヤー州では、一段と激しい戦闘が再開された。

さらに、NUGが各組織に自衛のための武装を呼びかけると、国民防衛隊(the People’s Defense Forces: PDFs)の名の下に、新たに多くの武装集団が生じた。現にNUGは、既存のEAOsと、これらの新興集団を集め、「連邦連合軍(Federal Union Army)」を創設しようとしている。だが、このイニシアティブは、大半のEAOsから懐疑的な目で見られ、まだ明確な指揮統制システムも無い。これがどういう展開となるかは、いずれ時が経てば分かるだろう。

未来を見つめて —新たなプロセス出現の機が熟すまで

今回のクーデター以前からすでに、NCAが今後の進むべき道だという確信は少しずつ薄れていたが、最近の出来事はこの進行に拍車をかけた。包括的な政権移行はともかく、たとえ国軍に停戦プロセスでさえ検討する気があったとしても、NCAはもはや、これらの目的の手段とはなり得ないだろう。

次第に攻撃性を増す無数の国民防衛隊(PDFs)という形で、武装した新たなアクターが(特にカヤー州や、サガイン管区域、マグウェー管区域に)現れ、事態をさらに複雑にしている。たとえ、国軍に対し、様々な集団を結束させる作用が今回のクーデターにあったとしても、この10年間を振り返れば、共通の敵の存在が必ずしも統合に結びつくとは限らない事が分かる。しかも、ミャンマー国内のアクターは複雑で、彼らの相互信頼のレベルは極めて低い。従って、外部から円滑化の働きかけが無くては、おそらくプロセスが成功する見込みはないだろう。

目下、全ての当事者には、自分が「勝つ」という思いがあるため、彼らはどのような交渉を始めるつもりもない。だが、ミャンマーの歴史を見れば、一方に絶対勝ち目を与えない事と、全員が敗者となる緩やかな消耗戦には、時として大差が無いという事も分かるだろう。前進するには、対話の道しかないという事に、一人、あるいは複数の当事者が気付くまで、差し当たっては、そのような展開となる可能性が最も高いと思われる。

Claudine Haenni
Director, Bridging-Changes
Thailand