ミャンマーの革命の焦点、連邦主義

Htet Min Lwin

独立以来、ミャンマーが模索してきたのは、自国の豊かな文化や言語、民族、宗教のアイデンティティーを包摂できる政治機構だ。これまで、少数民族は連邦主義を、全ての民族集団の平等や権利を確保する手段と主張してきた。だが、1962年から2010年までミャンマーを統治した軍事独裁政権は、極めて中央集権的な政治体制を敷いた。そのため、このような体制下で、連邦主義の議論をする事は一切不可能だった。その後、2008年憲法の下で行われた民政移管は、中央集権型の連邦主義を生み出した。ところが、ビルマ政府の実態や構想は、国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)政権(2016-2021)の下でさえ、中央政権的なものに止まっていた。

これについて、この記事では歴史的概要を述べた後、2021年のクーデターが連邦主義をめぐる政治論争をどのように根底から変えたかという事に焦点を当てる。まず、少数民族の若手指導者が、いかに連邦主義を反クーデター運動の中心的要望としているかを考察した上で、エスニシティに関するディスコースの変化にも言及する。このディスコースについては、以前の民族系統モデル(ethnic-genealogical models)から、包摂的な行政区域モデル(civil-territorial model)の連邦主義へと焦点が移りつつある。次に、連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CRPH)が2008年憲法を廃止し、連邦民主憲章(Federal Democracy Charter)を採択した事の重大性を考察する。ちなみに、同憲章の第一部では、幅広い視野の連邦制の原則が謳われている。これらの展開や、連邦主義がミャンマー政治の未来として認められた事は、連邦主義の実現に向けた過去数十年間の取り組みの成功を示している。だが、エスニシティや地理的環境、市民権、宗教などをめぐる、根深く、多角的で重層的な社会の格差は今も残されている。つまり現在の状況は、これらの格差を解消しておらず、国民を一夜にして団結させるものでもない。さらに、不信感も根強く残っている。その上、連邦民主憲章の第一部に提示された価値観を実践し、連邦制を樹立するには、特に同憲章第二部に関する現実的な交渉が必要となるだろう。

ミャンマーにおける連邦制のジレンマ

ミャンマーは民族、宗教、言語、文化に関して、極めて多様な国であるが、数の上では仏教徒のビルマ族が大多数を占め、彼らが昔から政府を牛耳ってきた。一方、少数民族の(各種政党や少数民族武装勢力: Ethnic Armed Organizations: EAOsの)指導者は長年、連邦主義をビルマ族による搾取や抑圧などから自民族の権利や利益を護り、中央政府から州レベルに権力を移行させる手段と考えてきた。そのため、このような地方分権化や連邦主義を求める声が、国家の指導者から歓迎された事は滅多になかった。早くも1959年には、Silversteinが「連邦制のジレンマ(federal dilemma)」という新たな言葉を編み出している。この言葉は、指導者が多数派優位型の民主主義を望みつつも、政治的な理由から、少数民族のためにある程度、連邦主義の要素を認めざるを得ない状況を表している。

1962年から2010年にかけ、ミャンマーを支配した軍事政権は極めて中央集権的な体制を築いた。当時、軍事支配の正当化の理由の一つに、国家崩壊を回避する必要性が挙げられ、連邦主義は(少数民族州による分離への第一歩となる可能性があるとして)問題視された。その後、2010年に始まった政権移行と共に、連邦主義の話題はタブーではなくなったが、2008年憲法下でも、権力は依然として中央に集中し続けた。

また、NLD政権下でも、前政権と同様に、いずれの政治機構が少数民族の求める自治を実現しつつ、その他の問題を生み出さない、あるいは悪化させないかという点で、政治的エリートの意見が割れたままとなった。だが一方では、大きな歩み寄りも生じ、ミャンマーの未来が連邦国家にあるという意見の一致で、和平プロセスをめぐる交渉が収束した。それでもなお、特に「連邦制民主主義(federal democracy)」と「民主主義連邦国家(democratic federal state)」の違いなど、用語をめぐる激しい意見の対立が残った。この対立は、ステークホルダー間の信頼欠如を反映すると共に、NLDが連邦主義より民主化を優先しているという認識を少数民族の指導者に抱かせる一因ともなった。

一方、市民社会団体は、民政移管後に開放された市民空間がもたらした機会を捉え、市役所で開催されるような集会から、より個別の需要に即した専門講座まで、連邦主義に関する幅広い教育活動を実施した。このような活動によって問題意識が広まり、連邦制はまぎれもなく開発のディスコースの一部となり、新たな連邦制支持者も確保された。

反クーデター運動とゼネスト民族委員会(GSC-N)における連邦主義

そもそも、2021年2月1日のクーデター直後には、連邦主義は政治的要望の焦点ではなかった。初期の反対運動の要望は、政治的指導者の釈放と民選政府の復元であり、連邦主義には言及していなかった。つまり、当初のデモ隊はクーデターの撤回を要求していたものの、2008年憲法によって規定された概念的枠組を越える事はなかった。むしろ、今回の反クーデター運動に、連邦制民主主義という政治的要望を持ち込んだのは、ゼネスト民族委員会(the General Strike Committee of Nationalities: GSC-N)だ。同委員会は、国民の要望として、あるいは連邦議会代表委員会(CRPH)が承認した方針として、この要望を持ち出した。ちなみに、GSC-Nは青年ネットワークの連合体で、そのメンバーの多くは、過去10年間に連邦主義などの社会学の概念に触れていた人々だ。またこのメンバーの大半は、ヤンゴンを拠点としていたが、少数民族の州に生まれ、少数民族の政党や少数民族武装勢力(EAOs)との個人的、組織的つながりを持っている。このような背景を考えると、GSC-Nの要望に、フェデラル民主連邦(federal democratic union)や集団指導体制、平等と正義、相互尊重や民族自決権の確立が盛り込まれていても不思議ではない。これらは、囚人の釈放や2020年選挙の結果の尊重を重視する、その他のデモ集団とGSC-Nの間に一線を画する要望だ。あるGSC-Nの指導者の言葉によると、「少数民族は、より多くの要求を抱えている。我々の構想は、ミャンマーの一員である全ての民族と共にフェデラル民主連邦を設立する事だ」。この構想は特に少数民族の州で人気を集め、それらの州ではGSC-Nの名の下で抗議運動が行われ、少数民族の「五つの要求」に対する共感が示された。

Taunggyi, Myanmar – March 2021: Peaceful protesters against the military coup: R. Bociaga / Shutterstock.com

包括的な構想の必要性 ―集団的公式謝罪

以前より、ミャンマーにおける連邦主義の要求は、民族系統モデルの連邦主義を想定していた。つまり、少数民族の州を設立し、その中で少数民族が大多数を占める事で、その独自の言語や文化の維持が可能となると考えられてきたのだ。その結果、エスニシティと連邦主義の問題は密接に結びつけられてきた。そのために、GSC-Nがミャンマーにおけるエスニシティの概念や、ナラティブの再定義を試みた事は興味深い。

従来、「エスニシティ」は、ビルマ語の“taìn-yìn-dhà”に相当する語で、これは国家によって認められた135の「民族」のみを指すと解釈される。つまり、この言葉には、華人やロヒンギャ族など、その他の少数民族は含まれていない。そこで、この“taìn-yìn-dhà”という語から連想される狭い定義と距離を置くため、GSC-Nは自らを「多様な“lu-myò”(人種)」を意味する“lu-myò-zoun”と称した。ちなみに、GSC-Nのlu-myòsリストに含まれる“ka-byà”や「ミャンマー人ムスリム」は、いずれも“taìn-yìn-dhà”として認められていない。全国各地の抗議者は、GSC-Nの名称や指針を導入する上で、このようなエスニシティの概念の変化も受け入れてきたのだ。

また一方で、ミャンマー軍の残虐行為を目の当たりにした多くの人々が、ロヒンギャ族などの少数民族の苦境に対する自らの認識を見つめ直す事となった。ソーシャル・メディアの利用者は、自分たちのこれまでの態度を謝罪し、少数民族に対する連帯を表明した。例えば、ある利用者は次のように言う。「我々は、これら全ての出来事から教訓を得るだろう。今後はロヒンギャ、その他のtaìn-yìn-dhàに対する、いかなる人権侵害や不正に対しても、地理的環境やエスニシティ、宗教を問わず、異議を唱え、フェデラル民主連邦と正義のために闘うつもりだ。これからも、我々はミャンマーの全てのtaìn-yìn-dhàの人々と共に闘い続けて行く」。また、若者たちも、ソーシャル・メディア上で‘taìn-yìn-dhà’の概念や、これを民族系統モデルの連邦主義の根拠に用いる事に疑問を抱くようになり、代わりに行政区域モデルの連邦主義を主張している。それに路上のデモ隊は、エスニシティや宗教に基づく差別を無くそうと呼びかけている。こうして、GSC-Nによる連邦制民主主義の要求と、市民の謝罪によるカタルシスが重なり、連邦制民主主義に対する国民の強い要求が生じる事となった。

Muslim Rohingya waiting the foods in the refugee camp in Bangladesh. HAFIZIE SHABUDIN / Shutterstock.com

連邦議会代表委員会(CRPH)とその若手指導者

統一政府の樹立に関する議論の際に、国民統一諮問評議会(the National Unity Consultative Council: NUCC)は、CRPHや少数民族政党、各運動の指導者が政情を議論し、新たな文民政権を組織する場となった。このような状況の中で、CRPHのメンバーはGSC-N から次のような提案を受けた。それは、CRPHが2008年憲法を廃止し、GSC-Nの指針を是認する正式合意に署名して、連邦制民主主義に本気で取り組む姿勢を示すべきだという提案だった。また、GSC-Nのスローガンによって、「連邦主義」か「民主主義」のどちらが正式な政治用語で先に来るべきかという議論も再燃した。結局、「連邦制民主主義」という表現が民間で有力となり、少数民族政党やEAOsなどの高官クラスの指導者からも強く支持された。

これについて、CRPHのメンバーは、この和平プロセスの交渉中に生じた用語をめぐる議論に終わりが無い事も、統一同盟の早急な形成の必要性も理解していた。そのため、CPRHは少数民族の政治団体の主張に歩み寄り、3月5日に「連邦制民主主義」を公式用語として正式に採用した。それと同時に、この未曾有の政治的状況の打開に臨むCRPHは、NLDの従来の公式政策であった国民和解を捨て、2008年憲法を廃止し、代わりに連邦憲法(federal constitution)の制定を誓った。これらの公約の遂行に向け、NUCCが連邦民主憲章を起草し、その第一部で幅広い視野の連邦制の原則を提示すると、CRPHは2008年憲法の廃止を公表した。これについて、ある法律の専門家が指摘した通り、この決断は法的考慮よりも、むしろ政治的動機によるものだった。なぜなら、2008年憲法は、公選された政府に法的な連続性や正当性を付与し、政府が国際的に認められる可能性をもたらすものであり、同憲法の廃止は、法的観点から見ると異常なものだったからだ。

当然ながら、CRPHによる譲歩は単なる国民のご機嫌取りで、連邦制民主主義に対する真摯な取り組みを反映していないのではないかという懸念もあった。言い換えると、これはSilversteinの言う「連邦制のジレンマ」への逆戻りではないか、という懸念だ。あるいは、ビルマ族の政治指導者による以前の連邦制イニシアティブと同じで、結局は「誠実で一貫した譲歩というより、冷笑的で便宜的な譲歩」となるのではないか、という懸念だ。さらに、CRPHがNLDの政治的遺産を引き継いだ事で、これらの懸念が高まった。なぜなら、CRPHは主にNLDのメンバーを中心に組織されており、NLDの指導者から支持されているからだ。従って、CRPHがNLDによって支配されている(故にビルマ族によって支配されている)と思われても無理はなく、形が変わっても実態は以前の組織と大差ないのでは、という疑念が拭い切れないのだ。だがまた、CRPHはNLDの最高幹部が組織した集団ではないという事実もある。そして、CRPHの新たな若手指導者が連邦制ビルマの実現を願う心は本物だという見方を、この事実が支えている。この点からも、あるCRPHメンバーによるロヒンギャ族への謝罪は、CRPHの姿勢を表す重要な出来事として受け止められた。

結論

この記事は、政権移行期の後、特にクーデター直後の複雑な混乱期における連邦主義の議論の展開について、理解を試みるものだ。当初、反クーデター運動の焦点は、軍事独裁政権の排除に置かれていた。しかし、特にGSC-Nや、その関連の社会運動が次第に注目を集めるようになると、運動の焦点は素早く切り替えられ、国家構造の変革という、より大きな政治目標が焦点となった。だが、この目標を達成するには、軍政の排除が明らかに必要となる。ここで重要なのが、軍政を排除するには、クーデターに反対する当事者の間に、統一された政治指導部がなくてはならないという点だ。そして、これは少数民族政党の抱える根深い不満が解消され、人種差別や偏見が軽減され、長年の信頼欠如が克服されて、初めて実現が可能となるだろう。

そのような事は、乗り越えられない障害にも等しいと思われるかもしれないが、国民の姿勢は大きく変わりつつある。現に、国民は連邦主義の概念を受け入れているだけでなく、民族系統モデルよりも、次第に行政区域モデルの連邦主義に期待を寄せるようになってきた。そして、この変化は、CRPHが連邦制の樹立に全力を注ぎ、2008年憲法を廃止するのを促す支えともなった。たとえ、これによって、何十年も続く、ミャンマーに最も相応しい連邦制のあり方を問う議論が解決されないとしても、これらが前向きな変化である事に変わりはない。要するに、今回のクーデターは、ミャンマーの連邦主義の議論を根本から変え、“taing-yin-dhà” 問題に関する建設的な議論を促したのだ。ただし、そうは言っても、政治体制の改革に向けた道のりは、まだ先が長い。

Htet Min Lwin
PhD Candidate, York University, UK