社会学者であるモーリス・アルヴァックス(Maurice Halbwach (1925))の記憶にまつわる有力な論文の出版に際し、ポール・コナトン(Paul Connerton)はこれを評して「集合的記憶」を論じ続ける上で、この語には「極単純に、個人間のコミュニケーションの現実」が包含されているとの認識が必要だと言明した(Connerton 2010: 38)。アルヴァックスの根本的な教えに倣い、筆者は本論における集合的記憶の意味を、社会集団によって生み出された過去の出来事のナラティブとし、また常に現状を考慮して再考され、語り直されるものとする。この論文では、9年間に及んだカンボジア西部のポーサット州でのフィールドワークに基づき、集合的記憶を生成し、伝達する個人的活動であるコミュニケーションが、場所を介在して行われている状況を説明する。カンボジアにおけるクメール民族の集合的記憶は、土地に関する認識や慣習と密接に結び付いたものであると考えられる。この結びつきは、社会生活の多くの側面における土地の決定的な重要性を反映するものだ。つまり、集合的記憶は必ずしも国家的なものとは限らず、地域的なものでもあるという事だ。
宗教体系における重要要素としての土地
カンボジアでの土地は、80%の人々が今でも田園地方に暮らす中で生活の中心となっている。また、土地は国民の宗教体系にとっても重要なものである。大地は今なおクメールの宗教体系の中で重要要素であり、その最も明白な例は土地の守護精霊(anak tā)と彼らの住処との深い結びつき(Ang 2000)や、視覚文化に頻繁に引用される大地の女神Braḥ Dharaṇī (Guthrie 2004)である。このような信仰は、古代東南アジアの諸宗教における「大地の力の神格化」という、より大きな概念に支えられたものであり(Mus 1933: 374)、この概念の中で、大地と大地の精霊たち、あるいはヒンドゥ化過程の後にはヒンドゥの神々が融合され、固有の実在となっている。この土地に付された大地の力を神と融合させ得る力は、カンボジアではサンスクリットでデーヴァ・ラージャ(神のような王)信仰として知られるkamrateṅ jagat ta rājyaというアンコール朝の宗教以来、馴染みの深いものとなっている。古典的な解釈では、これを王と(特に)シヴァ神(Coedes 1961)との結合を祝するものと見なすが、別の学者達(Jacques 1985など)は、これがaN anak tāや王の守護精霊の性質の一部を具えた神と見なしている((Estève 2009)。
カンボジアでは、東南アジアの大部分と同様で(Allerton 2013)、そのような信仰が特定の場所にそれ独自の介在者を与える。この介在者はカンボジアでは、主にmcās’ dịk mcās’ ṭī,、「水と大地の支配者」の姿をとって現れる。彼らの主な懸念は、自分たちの土地を不適切な行いをする訪問者や、許しを請わずに木を伐り果物を取る欲深い土地の利用者たちから守る事である。
上の要約はPaul MusやAng Chouleanなどの優れた人類学者達によって詳述されたカンボジアでの土地のオントロジーの基本原理を紹介するものである。筆者は自身のフィールドワークから、カンボジアでは大地と時が異なるオントロジーとしては認識されておらず、むしろ一つの範疇内で括られたものであるとの判断に至った。これを可能にしているのが、クメール人のparamī (boromeyと発音される)の力の認識 1である。(国あるいは地方レベルで考えられる)カンボジアの領土は、「paramīが充満した」、効験があると認められた場所のネットワークによって構成されている。そのような場所は、特別な古い僧院をはじめ、立派な形をした特定の古木や、樹木が茂り、壊れた像の転がった丘など、様々である。どのような形にせよ、そのような効験あらたかな場所の大半には、宗教や王権にちなんだ歴史上の出来事との関連性が共通して存在している。Judith Bovensiepen (2009)が述べたティモール・レステの事例と同様で、カンボジアの土地は所定の場所で起きた過去の出来事を、いわば「吸収する」事ができるのだ。
上述の大地の性質は、効験のある場所を記憶の場として機能させ得るもので、そのような場所で過去の出来事が記憶され、(とりとめもない事もあるが、大抵は祭祀の根拠についての)解釈を与えられる事で、現代の社会生活や個人生活と関わり合っている。ここで紹介する事例研究の主題は、クレアン・ムアン(Khleang Muang/ghlāṃ mīoeṅ) という名のポーサットに主神殿がある重要な土地の守護精霊(anak tā)に守られた地域である。
効験のある場所はいかに大地に歴史地図を描くか
地元の伝承や地名、それに18世紀の『王朝年代記』によって伝わるクレアン・ムアン物語の時代背景は、シャムの軍事的な圧力により、クメールの王たちがアンコールを明け渡し、トンレサップ湖の南に新都を建設した頃である。クレアン・ムアンはクメール王Ang Chan (Aṅg Cand)に忠実な16世紀の将軍で、シャム軍との戦いを率いた人物だ。クメール国王軍がシャムに敗北すると、クレアン・ムアンは自害して冥界へ赴き、幽霊軍を召集する事を決意する。彼の死せる兵士たちは、シャム人達を打ち負かした。彼らは(最も人口に膾炙した話によると)コレラにかかったのである。カンボジアが1953年に独立を手にした後、さらには1960年代を通じて、シハヌーク殿下の人民社会共産党(サンクム・リアス・二ユム/Sangkum Reastr Niyum)政権の下、クレアン・ムアンは国中で愛国的英雄として敬われた。現在でも、彼は村落レベルでの強力な土地の守護者である。
クレアン・ムアンの主神殿の周囲、半径100平方キロメートル以内に住む村人たちは、クレアン・ムアンの英雄的事績の重要な出来事によって座標が印された、ある種の大きな地図の上に暮らしている事を意識している。これらの場所の大半はparamīの力が満ち溢れていると言われる。つまり、彼の物語を伝える伝説は、(その二重になった介在者と効験ゆえに)村人たちと交流する特定の場において、文字通り、地上に地図を描いているのだ。これらの場所は、(村人たちが認識する通りの)クレアン・ムアンの時代を記憶しておくための有形要因であると同時に、現代の出来事についての意見を組み立てて表現する場でもあり、また個人的生活を盛んに目撃する場ともなっている。
この村の学校にはクレアン・ムアンにちなんだ名が付けられ、小学生以上であれば全ての村人たちが各地の歴史の、少なくとも最小限のバージョンを知っている。最も短い話でも、人それぞれに少しずつ違っているが、より長いバージョンの話ができる村人たちもおり、彼らの話では、様々な典籍から引用された要素が、家族や個々の解釈によって膨らまされている。埃っぽい道を進んでクレアン・ムアンの神殿を過ぎ、森林に覆われたカルダモン山地に向かって行くと、神殿から400メートル程のところでBraḥ jīと呼ばれる祭壇に出る。仏教に教化されたこの場所 2は、一部の村人たちからクレアン・ムアンの個人的守護霊(grū)の住処と見なされている。もう一キロ、同じ道沿いを行くと、vatt bodh(i) mān puṇya(徳に満ちた菩提樹の僧院)が静かに佇んでおり、その広大な中庭にはラテライトの塔(prāsād)の遺跡が横たわる。18世紀に記された『王朝年代記』は、Ang Chan王のいとこのPonhea Ongの遺灰が、この地が僧院に造り変えられる前に収められた事を断言している。さらに4キロ進み、赤土の道がポーサット川に接する所には王の僧院(vatt hluoṅ)があり、ここにある円形の葬送碑の中にはAng Chan王の子の遺灰が収められていると伝わる。その他のクレアン・ムアンとの関連性を示す証拠には、Mr Renをachar(在家の儀礼専門家)とクレアン・ムアンの神殿の儀礼司祭者という、伝統的には世襲制の職 3に二重に任命した事がある。
クレアン・ムアンの神殿から、森林に覆われたカルダモン山地に向かって10キロほど北上した所にあるPakān(Bakanと発音される)僧院もまた、一基のラテライト製の古い塔(prāsād)のある場所で、著しい効験がある所だと考えられている。Ang Chan王はポーサット州に来てシャムに宣戦布告をした後、南に向かって行ったと伝えられる。ロンヴェーク(トンレサップ湖の南)に都を設立する前、王はウドンで菩提樹の種をまき、その後、その苗木を残して新たな住居へと出発した。故郷に対する郷愁の念に打たれたこの若木は、ポーサット州に向かって川上へと流れ、Bakan僧院に流れ着いた。今では一本のバンヤンの巨樹がPakān僧院の古塔の上に生えている。
これらの場所は活気を失った過去の一角などではない。それどころか、これらの場所は村人たちが交流する場所のネットワークを構成している。このような交流を通じて過去の人物や物語、出来事を記憶する事により、村人たちと場所が次々と結び付けられてゆき、新たな記憶のネットワークが生み出されていると考えられる。
現代の社会・個人生活の相互的証人としての効験のある場所
上述の空想および現実の地理上の中心的交点がクレアン・ムアンの神殿である。村人たちはしばしば、この神殿を訪れては彼の精霊に自分達の私生活への加護を求める。加護が請われる一般的な領域として、新規ベンチャー事業や子供達の試験結果、健康問題などがある。同様の加護を求めるお願い事は、Pakan僧院の効験あらたかなバニヤンの巨樹の前でも行われ、それらは水と大地の支配者に向けられている。
これらの精霊への願い事が、場所と強く結びついたものである一方、クレアン・ムアン自身の出現はこれとは異なり、夢や幻を通じて現地の人々の生活に干渉する。筆者はフィールドワークの間、クレアン・ムアンの神殿に近い村に住んでいたが 4、近所の人々との日々のお喋りには、決まってクレアン・ムアンが出てきた。何年間も私の面倒を見てくれている一家の49歳の女性は、ある時私に彼女が1998年に最後の子を身籠っていた時、クレアン・ムアンが夢の中で彼女の妊娠を告げた事を教えてくれた。彼女の見た夢は、彼女が道端で跪いていると、クレアン・ムアンが全兵士と家来たちを率いて行進し、通り過ぎようとして立ち止まり、彼女の両手の中に受胎の印として指輪を置いたというものである。隣人の一人である53歳の女性(2015年当時)はある占い師から、彼女の成人した子供達の仲が良くない事の原因を、最近、彼女の中庭にシロアリ塚の形を取って宿った土地の精霊(anak tā)のお祀りを彼女が怠っている事であると助言された。このanak tāは、偶然にもクレアン・ムアンの将官の一人であった。この揉め事は、一家の者がこの土地の精霊に相応のお供えを定期的に行うようになった後に解決された。
そのような個人に対する干渉の外、先述した効験のある場所は、現代の出来事に対応するための創造力豊かな場ともなっている。ある日、筆者は一人の女性がポーサットの街から10キロかけ、正義を求めるべく、先述の仏教に教化されたクレアン・ムアンの個人的守護霊ゆかりの地であるBrāh jīの祭壇までやって来たのを目撃した。彼女は土地の精霊に地方の政府高官が彼女の隣人を立ち退かせてしまった土地紛争で、彼女に力を貸すよう祈っていたのである。
最後に、この空間のネットワークはまた、歴史的な時代を場所に積み重ねる事により、村人たちがポルポト政権の破壊(1975-1979)の記憶の共有に携われるようにしている。多くの人々が時には家族にさえ語りたがらぬ、個々の辛い体験は別として、この全体主義体制の痕跡は、今でも効験のある場所で語られ得るものなのだ。強制労働によってクレアン・ムアン神殿の中ほどに掘られた運河は、非生産的な聖域を破壊するという、毛沢東主義の政策を実行に移したものであったが、これは今でも盛んに議論されるテーマである。多くの者達は、その場所にあった木々を恐れもせずに伐ったクメール・ルージュの兵士たちが、その場の効験そのものによって殺された事を信じている。現在、ポルポト政権後の村落共同体の回復力が、効験あらたかな場の言語によって、またしばしば、彼らがその場に居る時に論じられている。
記憶を現した効験のある場所において、「個人間のコミュニケーション」(Connerton, 2010)は、現在と強く結びけられた創造的な記憶の生成を促す事が可能であり、また、これによって現在の出来事を個人、家族、あるいは家族を超えた規模で解釈し、あるいは解明する事も可能である。対話の一作用としての記憶、というコナトンの見解と、ピエール・ノラ(Pierre Nora)の鮮明な「記憶の環境(milieu de mémoire)」(Nora 1984)という表現の両方を踏まえ、筆者は「創造的な記憶」(creative memory)という言葉を用いよう。
Anne Yvonne Guillou
パリ フランス国立科学研究センター(CNRS) 終身研究員 文化人類学者
バンコク 現代アジア研究所(IRASEC)担当
Issue 20, Kyoto Review of Southeast Asia, September 2016
References
Allerton, Catherine (Guest Editor). 2009. Anthropological Forum. Special issue “Spiritual Landscapes of Southeast Asia: Changing Geographies of Religion and Potency”, Vol. 19 No.3.
Ang, 2000. Choulean. People and Earth. Phnom-Penh: Reyum, 2000.
Bovensiepen, Judith. 2009. “Spiritual Landscapes of Life and Death in the Central Highlands of East Timor”, Anthropological Forum Vol. 19 No.3. 323-338.
Connerton, Paul. 2010 (first publ. 1989). How societies remember. Cambridge: Cambridge University Press.
Coedes, George. 1961. « Les expressions vrah kamraten an et kamraten jagat en vieux khmer », The Adyar Library Bulletin Vol. 25 No.1-4. 447-460.
Estève, Julia. 2009. Étude critique des phénomènes de syncrétisme religieux dans le Cambodge angkorien, Phd Thesis in Religious studies, Paris., Ecole Pratique des Hautes Etudes.
Guthrie, Elisabeth. 2004. A Study of the History and Cult of the Buddhist Earth Deity in mainland Southeast Asia, PHd thesis in Religious studies, Christchurch, New Zeland, University of Canterbury.
Halbwachs, Maurice. 1925. Les cadres sociaux de la mémoire. Paris : Alcan.
Jacques, Claude. 1985. « The kamrateṅ jagat in ancient Cambodia ». in Noboru Karashima (ed), Indus Valley to Mekong Delta : Exploration in Epigraphy. Madras : New Era Publications. 269-286.
Mus, Paul. 1933. « Cultes indiens et indigènes au Champa », Bulletin de l’Ecole Française d’Extrême-Orient Vol. XXXIII No.1. 367-410.
Nora, Pierre. 1984. « Entre mémoire et histoire. La problématique des lieux ». in Pierre Nora (dir.), Les lieux de mémoire. I. La République. Paris : Gallimard. XVII-XLII.
Notes:
- Although this is a widespread scheme, new cultural influences are flowing into Cambodia. I was recently told by a 35 year-old urban educated man that he did not believe in paramī. ↩
- This site has undergone complex religious influences that cannot be detailed here. ↩
- The department of Culture of the province of Pursat has now taken over this function. ↩
- I have lived in this village (and another one nearby) approximately two months a year from 2007 to 2015. ↩