マレーシアにおける君主制 ―正当性をめぐる闘い

Ahmad Fauzi Abdul Hamid and Muhamad Takiyuddin Ismail

         

マレーシアにおける君主制 ―正当性をめぐる闘い

 近年、マレーシアにおける王室の政治的役割に関する学術的関心が再び高まっている事は、Kobkua Suwannathat-Pian 1やAnthony Milner 2、Ahmad Fauzi、Muhamad Takiyuddin 3らの最近の研究発表を見ても明らかである。このようなリバイバルが起きたのは、マハティール・モハマドが首相であった時代(1981-2003)以降、特に公務において、王室がさらなる注目を浴びるようになった事にちなむ、王室主導の要素が存在するためである。二つの観点から、この展開にはポジティブな影響がある。第一に、マレーシアの君主制に関する研究は比較的なおざりであった。批判的な研究がマレーシアの公立大学を拠点とする学者たちによって行われた例は無きに等しい。彼らを阻んでいるのは、連邦憲法が神聖とする王室組織への不敬罪で起訴される可能性だ。第二に、公の場での王室の役割を再活性化する事は、マレーシアの若い世代に、変わりゆく時代に適応せんとするマレーシア王家の有用性、適応性やその活力を啓発する役に立つ。以前よりも国の「新政治」の価値観、例えば、社会的正義や透明性、民主的な説明責任などにさらされた若者たちは、君主制の政治的将来について否定的な意見の影響を受けやすい。高学歴を持つペラ州の皇太子、ラージャ・ナズリン・シャーは、2004年7月に公開講演を行い、君主制を古代の風習としないため、王室に必要とされる変化について語った 4。以来、王侯貴族たちが熱心に世論をうかがい、自分たちを国民の「守護者」とアピールする姿が見受けられる。これはちょっとした前進であり、以前の彼らは長年のあいだ、マハティールの中央政権下で行政府を運営する政治家たちに追随していたのである。

 2008年3月のマレーシア第12回総選挙の衝撃的な結果を受け、封建的体質と現代的統治構造の間に緊張が浮かび上がった。統一マレー国民組織(UMNO)は、マレーシア与党連合、国民戦線(BN、あるいはBarisan Nasional)の有力な連立相手であるが、彼らはその先住マレー系住民の「大いなる守護者」という伝統的役割から手を引いた 5。事実、この過程はアブドゥラ・アフマッド・バダウィ政権(2003-2009)の発足以来始まったもので、その当時は自由化の気風の中、政治的空間が開かれていた。しかし君主制再興は、UMNOが自省にこもり、空いた隙を埋めつつも、保守的なマレーの理想回復、あるいは、UMNOの民族中心主義的な権力の要請を再主張するひそかな企てであろうとさえ、いとも容易く誤解を受けかねなかったのである。マレーシア政界の近代化する多民族の歩みについて、このような保守的反発が更に高まったのは、ナジブ・ラザク首相 (2009年より現在)の任期中だが、彼の壮大な1マレーシア計画は、未だUMNOの全面支持を得るには至らない。マレー市民の間のUMNO支持の低下をくい止めんとする土壇場の努力で、保守政党や超保守のマレー非政府組織(NGO)などは、民族を切り札とし、マレー民族の主導権の象徴機関である王室が、マレーシアの主要野党に潜む反イスラーム及び共和政とされる分子のために廃絶の危機にあると述べている。彼らは「究極の選挙」と呼ばれる、次期第13回総選挙の後、プトラジャヤで組閣するべきなのであろうか。野党人民連盟(PR/Pakatan Rakyat6 は困難な仕事に直面している。彼らは、かつて連邦レベルで非BN政権に仕えた事のない官僚たちの支持を求めるだけではなく、おそらくは不穏な王室との関係から生じる潜在的被害をなくさなくてはならない。2009年から2010年のペラ州における憲法危機では、ペラ州の王族がPR政権からBN州当局への権力移譲を認可した。これは元PR州議会議員3名が現職議員への忠誠を放棄した事を受けたものであるが、この事件は今もPR指導部の心に刻まれている。国家機関の共謀がペラ州でのPR失脚を招いたという事については、権力移譲の適法性が司法的検証によって裏付けられたとされているが、これは州議会での不信任投票を経ていない。この一連の出来事に決着をつける上で、重要な要素となったのは、スルタン・アズラン・シャーの声明であった。自身が元首席裁判官である彼は、PR政権が州議会で過半数を割ったため、新たなBN政権を認可したと述べた。

 新政治の主唱者や改革主義者、PR支持者たちが、ペラ州の憲法危機に失望した事は、王室がいまだに封建政治に絡む機関だという事が是認された点である。皮肉なことに、ペラ州のスルタンこそが、現代的状況における王室の新たな役割を強調する取り組みの火付け役だったのである。この危機は、ペラ州の王族に拭い去れぬ印象を残した。例えば、彼らは一体どこまで本気で君主制改革を支持し、おそらくはこれを指導する覚悟であったのだろう。ペラ州での出来事の後、王室をめぐる問題が矢継ぎ早に生じた。憲法学の著名な教授、アジズ・バリは、セランゴール州のスルタンを批判したために大学を停職となった。クリーンで公正な選挙連合(BERSIH)が先導する選挙制度改革を求める動きに対しては、王族から不快の念が表明された。さらには、ジョホール州の王室メンバーが軽犯罪を犯したとされている事などである。すでにイメージの汚れていた王室の正当性が、さらなる疑問に付される事となったのは、王室がUMNOや主流メディア、右派NGO、それにマレーシアの従順な行政府内の保守分子などの大義と同定される事を明らかに意図していたためである。王室の神聖な地位を、苦境にあるマレーシア政体の中に守ろう、というのが彼らの政治的スローガンの一つとなった。

 王室を現代的政治情勢に適合させる上で考慮すべき重要な一面は、王室が民族や宗教の垣根を超えた、より普遍的な価値観を理解する事を国民が広く期待しているという事である。2012年5月に、ペラ州のモハマド・ニザール元州首相は、ある懸念を提起した事で厳しい叱責を受けた。それはジョホール州のスルタンが、特別な車のナンバープレートを52万 マレーシア・リンギットの入札価格で無駄に購入したとされる件についての懸念であった。州関連の利害関係者たちが、ニザールを治安法違反で告発せよと勧めた事は、UMNOやBNが、王室を尊き象徴機関と崇めているらしき事を際立たせた。これに続き、2012年11月には、27歳の積算士、アフマド・アブドゥル・ジャリルが恣意的に逮捕された。彼はジョホール州のスルタンをソーシャルメディア・ネットワークのFacebookを通じて愚弄したとされるが、この件によって王室に対する失望の念がさらに高まる事となった。 7しかし、このような高圧的な態度は、BN主導の国家と王室の両者に対する代替メディアによる不満の集中砲火を止めるものではなかった。王族たちの乱痴気騒ぎや粗野な行為を列挙したウェブログやウェブサイトは、サイバースペースで容易に見つける事ができる。情報・通信技術の発達は、王族たちに国民と直接コミュニケーションを図るためのメディアを与えてくれる。その一方で、各州のイスラームの名目上の長にはあるまじき、王族たちの贅沢な生活様式や思慮に欠けた性格については、この技術の発達が国民たちの眉をひそめさせてきたのである。マレー系ムスリムにとり、王室への忠愛は常に彼らの政治生活の重要な一面であった。当然のこと、彼らは国費で賄われた王宮の裏で、全くイスラームらしからぬ行為が、ひそかに行われている現実が、屈辱的なまでに露呈された事によって悩んでいる。王室とその支持者たちが王室をマレー民族及びマレーシア人両者の愛国心の防壁となる機関として保護するよう、絶えず訴えてきた事を考えれば、王室自身の責任は、それが「手の届く」存在である事を証明し、「国民の思いを共有し」、「住民たちに不利なものと認識される」事が無いようにする事である。 8

The Malaysian Coat of Arms (Jata Negara)
The Malaysian Coat of Arms (Jata Negara)

ケランタン州のスルタン・モハマド4世  ―王室の新種?―

 概して君主制の風評に暗いイメージがつきまとう中、君主制の未来に希望が生じたのは、2010年9月に、トゥンク・ファリス・ペトラが王位を退いた父親で、以前のスルタン・イスマイル・ぺトラに代わり、クランタン州のモハマド4世の座に就いた事であった。2011年12月には、彼が副ヤン・ディ・ペルトゥアン・アゴンを務める事となったが、これはスルタン・アブドゥル・ハリム・ムアザム・シャーが、ヤン・ディ・ペルトゥアン・アゴンの座に二度目に就いた時であった。比較的若く、野党支配の長い州の出身であるスルタン・モハマド4世は、その簡素な生活様式や謙虚さ、親しみやすい気質、さらには、クランタン王家にまとわりついてきた諸問題を回避する事によって、王政に活気を吹き込んだ。広く噂されるところによると、彼の両親は彼の弟のトゥンク・ファクリー・ペトラを寵愛し、彼に王位を継承させようとしていた。しかし、インドネシア人でティーンエイジャーのモデル、マノハラとの注目を集めた結婚と離婚騒動により、トゥンク・ファクリーは豪奢であると悪評が立ち、彼はクランタン王宮の長老たち、ましてや市民たちの眼に適わなくなったのである。スルタン・モハマド4世についてより重要な事は、彼がクランタンの古参で州首相、PAS (汎マレーシア・イスラム党) のニック・アジズ・ニック・マットとの間に、心からの理解を築いてきた事であった。彼自身の信心深さは間違いなく、UMNOに支持されていたと見られる父親との不安定な関係の要因となった。彼は不当に取り沙汰される事を好まず、クランタンのイスラームの長という公的立場にふさわしい暮らしを送ろうと、集会礼拝を指揮し、毎年恒例のメッカ巡礼シーズンの供儀際では儀礼的屠殺に加わり、‘Daulat Tuanku’(国王万歳)という王への敬礼を、“Allahu Akbar”( アッラーは偉大なり)に変更したのである。スルタン・モハマド4世が、正義を求めるクランタンの人心を暖めたのは、彼がクランタン沖で採取された石油の採掘権に対する州当局の要求を支持した事であった。また、彼が個人的に民族を超える新たな政治や良い統治に関心を抱いている事は、彼が短期間オックスフォードで国政術を学んだ実績に違わず、彼の人気を非ムスリム集団や進歩主義的ムスリム集団の間にも高める事となった。国際法曹協会の2012年11月の第三回アジア太平洋地域フォーラム会議の際には、彼が法の専門家や裁判官たちに「我が国の暗黒の数年に二度と逆戻りする事がないよう」、切々と言い聞かせ、マレーシアの1988年の司法危機の闇に触れた。当時、首席裁判官のサレー・アッバスが、マハティール首相の要求によって突如解雇されたのである。 9

 君主制全般、特にクランタン州のスルタン制の復興はさておき、モハマド4世が国政の舞台に登場した事は、時代の変化に沿って変わろうとする近代的政府機構と封建制度との調和のとれた合理化への希望を一新した。PRの政治家たちは、ヤン・ディ・ペルトゥアン・アゴンが4年後にその王座に就く際、彼らの大義に賛同する事を密かに望む事であろう。しかし、モハマド4世については、いかなる政治的パートナーシップをも拒む可能性の方が高いだろう。そのようなパートナーシップは、政治に無関心な支配者に期待されるものである。まさにこのような中立性こそ、一部のスルタン達が過去に示す事のできなかったものである。かくして、マレーシア立憲君主制の維持と、おそらくはその正当性強化のため、王室機関改革の気運が高まったのである。

 

Ahmad Fauzi Abdul Hamid
Associate Professor of Political Science at the School of Distance Education
Universiti Sains Malaysia (USM), Penang, Malaysia

Muhamad Takiyuddin Ismail
Senior Lecturer at the School of History, Politics and Strategy
Universiti Kebangsaan Malaysia (UKM), Bangi, Selangor, Malaysia.

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 13 (March 2013). Monarchies in Southeast Asia 

References

Ahmad Fauzi Abdul Hamid and Muhamad Takiyuddin Ismail. 2012. The Monarchy and Party Politics in Malaysia in the Era of Abdullah Ahmad Badawi (2003–09): The Resurgence of the Role of Protector. Asian Survey 52 (5): pp. 924-948.
Chandra Muzaffar. 1992. Pelindung? Penang: ALIRAN.
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Milner, Anthony. 2012. “Identity Monarchy”: Interrogating Heritage for a Divided Malaysia. Southeast Asian Studies 1 (2): 191–212.
Raja Nazrin Shah. 2004. The Monarchy in Contemporary Malaysia. Singapore: Institute of Southeast Asian Studies.
Kobkua, Suwannathat-Pian.  2011. Palace, Political Party and Power: A Story of the Socio-Political Development of Malay Kingship.Singapore: NUS Press.Wong Chin Huat. 2012. Maintaining the monarchy. The Nut Graph, 19 November 2012 http://www.thenutgraph.com/uncommon-sense-with-wong-chin-huat-maintaining-the-monarchy.html (accessed 12 December 2012)

Notes:

  1. Kobkua Suwannathat-Pian, Palace, Political Party and Power: A Story of the Socio-Political Development of Malay Kingship (Singapore: National University of Singapore Press, 2011).
  2.  Anthony Milner, ““Identity Monarchy”: Interrogating Heritage for a Divided Malaysia”, Southeast Asian Studies, vol. 1, no. 2 (2012), pp. 191–212.
  3. Ahmad Fauzi Abdul Hamid and Muhamad Takiyuddin Ismail, The Monarchy and Party Politics in Malaysia in the Era of Abdullah Ahmad Badawi (2003–09): The Resurgence of the Role of Protector”, Asian Survey, 52, no. 5 (2012), pp. 924-928.
  4. Raja Nazrin Shah, The Monarchy in Contemporary Malaysia (Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, 2004).
  5. Chandra Muzaffar, Pelindung? (Penang: ALIRAN, 1992), pp. 92–93.
  6. PR is made up of the People’s Justice Party (PKR or Parti Keadilan Rakyat), the Democratic Action Party (DAP) and the Islamic Party of Malaysia (PAS or Parti Islam SeMalaysia).
  7. Kamal Hisham Jaafar, ‘Ahmad is not “Safe”’, Malaysia Today, 7 November 2012 <http://malaysia-today.net/mtcolumns/letterssurat/52600-ahmad-is-not-qsafeq> (accessed 21 December 2012).
  8. Wong Chin Huat, “Maintaining the Monarchy”, The Nut Graph, 19 November 2012 <http://www.thenutgraph.com/uncommon-sense-with-wong-chin-huat-maintaining-the-monarchy/> (accessed 13 December 2012).
  9. Michele Chun, “Sultan: Judiciary needs men of integrity”, The Sun Daily, 30 November 2012 <http://www.malaysianbar.org.my/legal/general_news/sultan_judiciary_needs_men_of_integrity.html> (accessed 13 December 2012).