マドゥラのブラテー(Blater/悪党)の社会的起源と政治権力

Abdur Rozaki

マドゥラ族の象徴的イメージは暴力と宗教性に結び付けられている。しかし実際のところ、理論的に言えばこれらの言葉は異なる、または矛盾した意味を表す事もある。宗教的な人々は禁欲的に暮らし、悪行や暴力行為を犯す事を避けようとする。これに対して暴力に慣れた人々は、禁欲的な生活から遠ざかる傾向にある。ところが、社会的現実が提示する複雑な諸問題が、常に規範的な理論を裏づけるとは限らない。文化という文脈上では、暴力と宗教性は空所に作用するものではなく、その存在は常に社会構造の力関係や利害的相互作用と相関したものである(Foucault: 2002)。 

暴力と宗教性は人類文明の「子供」である。暴力はその背景や動機により、様々な種類に区別される。チャロックについて考えてみよう。これはマドゥラ族の内紛を解決する暴力的な伝統である。 
それは彼らの自尊心や誇りに対する熱烈さ、その思い入れ如何では、その関係者達に深刻な傷害や、死さえをも招く顛末となり得るものである。マドゥラ族がチャロックを行うのは、彼らの誇りや自尊心が侮辱を受ける、もしくは害され、傷つけられたと彼らが感じる時である。彼らの憤りの感情が、恥辱の感情(マロー またはトドゥス)に発展した場合、マドゥラ族はチャロックを行って争いを調停する。 
この事情はマドゥラの有名な諺に確言されている。“ango’an pote tolang etembang pote matah”、字義どおりには「白眼をよりも白骨を」という意味で、「人生は自尊心を持たねば無意味である」という隠喩である。 

マローとなりチャロックという結末をもたらす、恥辱という強い感情は、しばしば人妻をめぐる修羅場と結びつけられる。マドゥラ人は、彼の妻が侵害されるような事があれば、立腹してチャロックを行う。同様に、彼はその妻の不貞の噂に嫉妬心をおこし、彼女の不義の相手がチャロックの標的となるのである。チャロックはまた、報復行為、とりわけ殺害された家族への仇討という形をとる事もある。 
このように、チャロックは人の高潔さを守る行為であり、その血筋を維持するための闘いであると解されている (Wiyata, 2002: 89-159)。 チャロック における動機と標的は大変明確である。人々は自尊心が害された事から生じる暴力的な争議に巻き込まれるのである。 

自尊心と誇りにかけてチャロックを行うマドゥラ人は勇敢(ブラテー)であったと認識される。ブラテーは、その人の自尊心への打撃を暴力で解決する事であり、恐れのない精神、誇り、そして勇敢さを示すものである。一方、自らの自尊心を守るために「寛容性」を選ぶ者達は、地域社会からブラテーの精神を持たぬ者と見なされる。以前はブラテーでないとされていたマドゥラ人達が、ひとたびチャロックを行った後に、中でも血みどろの格闘を勝ち取った者らがブラテーとして認められる事例が数多くある。 
このように、チャロックは地域社会で紛争を解決するための勇気であると見なされており、チャロックを行う事はその人のブラテーとしての社会的地位を強化し、正当化する重要な社会的行為なのである。 

チャロックを行う事のみがブラテーの地位を正当化する方法というわけではない。他にもマドゥラ人をブラテーに変え得る、それ以上の社会的手段が多数存在する。 
クラピン・サピ(マドゥラ族の牛競べ)、鶏闘、犯罪行為やレモー、 ブラテーへの関与…こういった全てがブラテーの文化的再生産を成すものである。 
偏在するダイナミズムがこの独特な文化と地域社会をマドゥラに創り出した。 従って、あるマドゥラ人が自らをブラテーであると認め、かつ彼が社会において特別な地位に就いていようとも、何ら不思議はないという事になる。ブラテーは文化的に高い評価を集め、社会的尊敬を受けるし、そうでないブラテーを見つける事は困難である。 

ブラテーは全てのコミュニティー、及び社会階級から現れ得る。サントリ出身の者もいれば非サントリ出身者も存在する。手短に言えば、大いに宗教的である者をも含む、いかなる社会的集団、または階級の者であれ、万人がブラテーになり得るのである。 
元サントリ(厳格なムスリム)がペサントレン(伝統的なイスラームの学校)を卒業した後にブラテーとなった事例も多い。元サントリのブラテーは、大概ガジ(コーランの詩を吟ずる事)に長け、キターブ・クニン (黄色い本、ペサントレンで用いられるアラビア語の原書)に通じている。 
これもまた、マドゥラ社会にあっては一般的な事である。マドゥラ族の伝統上、宗教的な教えは日常生活の一部となっているのである。若きは全ての子供達が島中の集落や村々に散在するランガル、ムソラ、スラウ、モスクやペサントレンで宗教を教えられる事に始まる。 
このような背景があればこそ、元サントリのブラテーが文化的ネットワークを築き、彼をキアイ(イスラーム教の聖職者)であるかのようにさえ扱う伝統を展開させて来られたのである (Mansoornoor 1990; Bruinessen 1995)。 

イスラーム教はマドゥラ社会で中心的役割を果たしており、様々な社会儀礼は常にキアイを指導的立場に戴く宗教的精神と結びつけられている。 
社会的ダイナミズムは、宗教を地域社会の社会的、文化的構造に深く根付かせており、それゆえにマドゥラ族のアイデンティティーと宗教は融合しているのである。 
このような過程により、イスラーム教はまた、マドゥラ族の威厳や自尊心の一部ともなっている。 
このため、いかなる侵害も、または宗教に関する誹謗も、宗教的自尊心やマドゥラ族のアイデンティティーへの侮辱と受け取られる事になる。これが、チャロックを引き起こす理由である。 

ブラテーとキアイの両者はマドゥラ社会において、世論や文化、伝統と政治的ネットワークを再生産する能力と権力を持った「二重体制」であるとされる。正当な支配者として、また「暴力機構」の御者として、ブラテーはしばしば地域社会に支配的影響力を行使し、レモー、鶏闘、プンチャック・シラット(伝統的自己防御術)、牛競べのような伝統的習慣、さらには犯罪行為や暴力行為にさえもその力を及ぼそうとする。 
同様に、キアイは、その宗教的論議を発展させ、向上させる能力ゆえに、社会行動や、精神、思想に関する主導権を得、社会的な発展において重要な役割を得る事ができる。 
また、たとえ両者が矛盾した展望や思想を持っていようとも、この事が彼らの文化、経済、または政治における、非対立的な互いの相互関係維持のための努力に障る事はないのである (Rozaki :2004)。 

Madura is an Indonesian island off the northeastern coast of Java.
Madura is an Indonesian island off the northeastern coast of Java.
ブラテーの歴史的追跡 

ブラター主義という歴史的事象を追跡するにあたり、我々はしばしば、それが地方社会における有力人物に関連している事であると気がつく。 案の定、ブラター主義はまた、ジャゴ主義とも密接に関わるものである。というのはジャゴアン(jagoan)と同様に、ブラテーは物質的かつ呪術的な有力人物であるからだ。 ブラテーは超能力を持ち、弾丸や利器によって傷つけられず、また自己防衛術にも長けている事で有名だ。ブラテーとジャゴアンの両者は、その超能力や自己防衛能力の如何によって、容易く大勢の信者や忠実な子分を得る。 
暴力的な衝突は彼らの超能力を強め、そのカリスマ性を高めるのである。 

植民地以前の時代からジャゴアンは支配者の重要な兵器であった。王の権力獲得ですら、度々ジャゴアン人物と関係づけられた。王となるにあたり、その候補者は事前にその権利を正当化するワヒュー・ケダトン(神託)を得ていなくてはならなかった。このワヒューはしばしば、ジャゴアンの持つ最も永久的な特徴であると見なされ、有力な王は大抵、超越的なジャゴアンでもあるとされていた(Onghokham 2002: 102)。歴史の研究が我々に示す実例によると、王達もまたその権力を求め守る上で、頻繁にジャゴアンと関わっている。ジャゴアンは、よく王の殺し屋、もしくは護衛であると言われている。オランダの小説家アルバートは、1710年にマドゥラのスメネップの片田舎に住み、スメネップ王を転覆させるための作戦に多くの人民を動かす事ができた無頼漢、もしくはジャゴアンに関する短編を書いた。この悪漢は王の軍隊を制圧し、宮殿を奪取し、自らを前マドゥラ王セディヤインイングラットの子孫であると名乗る事で、新たな王として即位した (De Jonge 1995)。 この「伝説」は、今日に至るまで絶えず地域社会により再生される知識-認識論の一部となった。 

もう一つの話はケ・レサップの話である。彼は宮殿の外に住む王の妾の一人が生んだ、マドゥラ王チャクラニングラト三世の子である。ケ・レサップは、その忠臣達を組織し、バンカラン王国に対する反乱を指揮したと言われる。彼はその勇敢と戦略における見識をもって、スメネップから、バンカランはブレガ地方に至るマドゥラの他地域を容易く征服した。ところが、王を引きずりおろすその時になって、王の策士が彼に巧みな策略を用いた事で、ケ・レサップの蜂起は霧散してしまう。王はケ・レサップに使者を送り、彼がもし降伏し、宮殿で王に面会するのであれば、彼は王の子孫としてそこに暮らしてもよいと告げたのであった。ケ・レサップは王宮に住む事に同意した。そして彼はひとたびそこに姿を現すや、「あっさりと殺されてしまった」のである。ここに彼の反乱は終結したのであった (Irsyad: 1985)。 
また、サケラの愛国的な物語も存在する。これはマドゥラ社会のもう一つの伝説である。 
サケラはマドゥラ族の血を持つジャゴアンであり、パスルアンでのオランダ植民地支配に抵抗して戦った人物である。パスルアンは東ジャワに位置し、いわゆる「馬蹄」地域であり、マドゥラ族が多勢を占める多民族社会として知られている。多様であるとはいえ、パスルアン、プロボリンゴ、ジェンバー、シツボンドとバンユワンギに暮らす人々は、ジャワ語と並び、マドゥラ語を話す。 

サケラはオランダ植民地の支配者達に屈しないブラテーであった。彼は自己防衛術を習得し、オランダの弾丸や利器には不死身であったとされる。オランダ軍は何度もサケラの反乱を鎮めようとしたが失敗した。 
彼らはサケラを伝統的な舞踏会であるサンドゥールで陥れるという汚い手を使い、ようやく成功した。サケラは彼の全ての呪符を解く事を前提として、踊る事を許可された。彼がそのようにすると、たちまちオランダ軍が奇襲をかけ、サケラはその場で死んでしまったのである。他の話と同様に、サケラの物語は今日に至るまで、マドゥラ社会の生ける伝説となっている。多くのマドゥラ人達はこのような物語を非常に誇りに思い続けている。そしてこの事は、彼らがブラテーの暴力やヒロイズムへの崇拝に何ら問題を感じないでいる理由を説明するものである。 

またここで、クティルという名のマドゥラ人ブラテーが中央ジャワの3地域における反乱で担った役割に関する、アントン・ルーカスの研究に触れておくべきであろう。 
クティルはその宗教的知識でよく知られたが、彼はまた、犯罪という「暗黒世界」にも大いに馴染んでいた。ルーカスの研究は、クティルがいかにして、二つの世界を行き来したのかを例証する。つまり彼がどのように犯罪者として「暗黒世界」を支配し、それに通じると同時に「通常の」地域社会環境で尊敬される人物が得る人気を彼に恵んだ善き宗教的意識に親しむ事ができたのか、という事である。通常世界と暗黒世界に二重に通じる事により、クティルはレンゴン、またはジャゴアンの活動に携わりつつ、地域社会の蜂起を組織する事ができたのである。 

インドネシア共和国設立の苦闘の中、勇敢なクティルは植民地支配の残党に対する戦いにおける、一人の指導者となったのであった(Lukas 1989: 146-148)。 
クティルはその強靭で、勇敢、そして気品ある人格ゆえに地域社会全体から尊敬されるブラター主義の精神的典型となった。 

生態学的観点からいうと、地域社会におけるブラテーの存在は、水田農業には適さない不毛で荒涼とした枯地という生態系に相応するものである。それはごく僅かな降雨が、作物に悪影響を与える事で悪化するような環境である。 
さらに、この状況は地方における地域社会の貧困を悪化させる。経済的利益も無く、人口の急増なども含め、如何なる変化も起らない荒涼とした土地は、深刻な経済問題を生み出す。 

このような状況はしばしばマドゥラ族に移民を強いるのであるが、移民でさえ、ましな生活を保障するものではない。ある者達にはもう一つの「黒い」選択肢がある。それはつまり、貧困を克服する手段として暴力と犯罪の世界に加わりブラテーとなる事である。無論、これはマドゥラ族に限った事ではない。類似した状況はラテン・アメリカのような場所からも、学者達により報告されている (Hobsbawm 1981)。 

従ってブラテーという現象は、マドゥラ族の宗教的経験からのみ形成されたのではなく、個々のマドゥラ人や彼らの住む地域社会それぞれの社会‐生態学的背景によっても形作られたものなのである。 ブラター主義は貧困から生じる人生の厳しい諸問題を克服せんがための自然発生的な試みと密接に関わっている。 ブラテー、もしくは無頼漢となる事で、マドゥラ人はその貧困を解決し、人生の難題を乗り越えるためのもう一つの道を模索する事ができるのである。若者達はブラテーになったり、ブラテー集団に加わったりする事で村の「勇者」(ジャゴアン)としての自尊心を獲得し、このような荒涼とした枯地に、乏しい収入に頼って暮らす他の農民達よりもましな生活を築こうとするのである。 

しかし、貧困はマドゥラ族の間で人々の生活を支配する権力機構によってももたらされる。マドゥラ社会は長きにわたり、オランダ人や資本家達に協力する事でその権力を得た貴族社会の、いわゆる「二重権力」に搾取され続けてきたのである。 
マドゥラでは資本主義が普及し、これが周辺に追いやられた人々を犠牲にしながら、オランダ人や(中国人の)資本家達、そして貴族社会へ、より大きな利益をもたらした。それゆえ、犯罪や暴力事件の増加は不可避であった (De Jonge 1989b: 76)。オランダ人達がこういった行為に憂いを抱いたのは、それが経済的安定を脅したためであるが、彼らは滅多に合法的な方針を用いず、代わりにこれに対抗する暴力や抑圧を加え、賊を以って賊を捕えさせたのであった。 
彼らがこの方法をより効率的であると考えたのは、植民地政府が地域社会全体を手なずける事が困難であったためである。この方法と様式はまた、効果的であるとも考えられた。なぜならば、植民地主義者達は地元地域社会の安全と安定化を促進するために国家機関を設立しようとはしていなかったためである。植民地主義の権力は、かくして悪党、地方のジャゴアン人物としてのブラテー達の支持を得て維持されたのであった。 

この植民地主義国家が、法と正義による支配のための効果的な国家機関の設立を推し進めなかったために、正義は人々の手にわたり、好き勝手に解釈された。 
そこには彼らが自己防衛手段以外の何ものでもないとする暴力の行使も含まれていたのである。 

デ・ジョングによると、争議の調停をチャロックで行う事には、マドゥラ族に公的な安全を保障する国家が不在であったという原因がある。 
さらに、時の経過と共に、マドゥラ人達は自らの自立した王国を立ち上げられないでいる事に慣れてきてしまった。そして、これがさらに政府機関の殆ど役に立たない、もしくは全くお呼びでないような(Kerajaan参照)自治的な暴力制度に思い至らせたのであった。補足であるがマドゥラでは、王国はシンゴサリのマタラム拡大を皮切りに、常にジャワ人支配の影にあった (Degraaf and Pigeaud 2001)。 

王政期には、権力は王のものであったし、彼のカリスマはジャゴアンにより支えられていた。植民地時代には、オランダ国が法と秩序を十分に保てず、普及する公式権力を守るにはブラテーに頼らざるを得なかった。このブラテーと国家組織(例えば、警官達)との関係の「型」は、ポスト植民地時代から、「マドゥラにおける近代政府の活動」の一部がブラテーとの和解や協働を含む7現在に至るまで流伝している。簡潔に言うとブラテー社会の存在は、制度化や法による支配の弱さと大きく関わるものなのである。 

国家の権力機構と、地域社会の社会文化における暴力的な現実との間の収束と歩み寄りは、ならずものの分子からブラテーを誕生させると同時に、彼らを様々な文化的、組織的地位の適所にとどめ得る、並はずれた柔軟性を育むものでもある。1980年のマドゥラにおける凶悪犯罪の蔓延は、中央政府にブラテーや悪漢を標的とした、いわゆるペトルス(秘密狙撃)作戦を展開させる事となった。このペトルスの殺害はスハルト政府の後援による作戦で、大都市や地方に蔓延る犯罪者達の暗殺を試みたものであった。 

バンカランのブラテー達が標的となり、その圧迫は大変なものであったため、目を付けられていたハジ・スードと彼の兄弟の2人が犯罪を起こし、殺される事となった。生前、ブラテーであった彼らは、西ボルネオのマドゥラ‐ポンティアナック間沿岸の諸港を支配していた。ハジ・スードの社会的権威には、テンプランのポルセク(分区警察本部)以上のものがあり、彼が殺人のような犯罪で訴えられる事があっても、逮捕され、投獄されるような事は一度もなかった。 

ペトルス政策が犯罪組織を完全に根絶する事はなかった。というのも、いざブラテー殺しに取り掛かってみると、権力者達がその権力維持のため、ブラテーや悪漢のパトロン、もしくは擁護者として、当の標的人物らと関係していた事が露見したためである。 
これは特に総選挙で新秩序政府がこの式次第に対する全ての重大な脅威を阻止しつつ、その正当性を一新する必要があった時期には顕著であった。9マドゥラでは、ブラテーと公安官の秘密裏の関係が横行する事や、政府高官が「ブラテーの手」を借りてゴルカルに歯向かう政党の支持者らを抑圧するといった事は普通である。ブラテーにとって政府とのつながりは、特に犯罪行為を行う上で、司法機関からの保身を提供するものであった。 
ブラテーと警官達との癒着は、単に総選挙前に生じるだけのものではなく、経済的・政治的取引として存続するものであった。贈賄事件におけるブラテーの仲介者としての役割は、犯罪行為やチャロックで捕まった者達が、冤罪を求め彼らの助力を要請した事から、ますます重大なものとなった。このような性質の悪いパターンは、この改革時代においても未だに健在である。 

このように、マドゥラにおけるブラテーや凶悪犯罪の社会的起源は、変化し続ける社会条件に対応しようとする、地域社会の生態学的構造や社会学的動静と常に密接に関わってきたものである。地方での資本主義の発展から生じた経済的困難の中で、その権力喪失を経験してきた地域社会は、邪悪なジャゴアンの指揮、もしくは助力のもとで「富裕者」や「権力者」達から盗み、略奪する事に活路を見出したのであった。表立った抵抗運動のない地域社会が、不服従と隠れた社会的抗議という手段に訴える事は、ジェームス.C.スコットの研究によるとおりである。そして、これもやはりジャゴアンの援助を受けた上での事である。 

ジョージ・ルード(1980年)によると、ブラター主義は3つの犯罪のタイプに分類する事が出来る。 1)貪欲によるもの、2)社会的、保身的なもの、そして3)抗議を示すものである。 
この分類は凶悪犯罪の動機とイデオロギーの両方に基づくものである。これは、マドゥラでは凶悪犯罪の数々が、困難を生き抜くための社会的抗議であるとも、または私腹を肥やすための動機であるとも見なされるためである。 

摂政となるキアイ‐ブラテー 

ポスト改革時代、政治的な地方分権化と地域自治が、地方の全域に散在する、いわゆる「地元親分達」の大々的な出現を促した。彼らは民主化プロセスや政治的開放に関する「変化の風」に便乗した(HarrisとTornquist 2004)。 
マドゥラも例外ではない。新秩序時代の間、キアイもしくはブラテーの前歴を持たぬ摂政を見つける事は困難であったが、改革時代には、マドゥラの4地方(バンカラン・サンパン・パムカサン・スメネップ)でそのような立場にあった者達は宗教的(キアイ)、軍事的、またはキアイ‐ブラテーの経歴を持っていた(最後に挙げたのは、サントリもしくはキアイ社会の出で、ブラテー地区の出身者である)。 
地域レベルのほぼ全ての正式な政治的地位は、その文化ルーツを地域社会内に持つ人物らにより占められていた。例外はサンパン地区で、ここでは元警官のファディラ・ブディオノが地方議会に再選された後、ポスト改革の摂政として指導者の立場を維持したのであった。彼の再選は DPRD (地域議会)の官庁炎上を含む、議会や地域社会レベルでの抗争により注目を集めた。 
こういった争いの中、多くの党が国民による一連の抗議を結集させるため、配備されたブラテーを利用した。 

より開かれた政界が出現すると、地方の名士達は地域レベルの政治的地位を得ようとした。文化的な、ネットワークの、そして社会的な資本を有する者達はこのような地位を容易く獲得する事ができた。僅差に迫っていたのは犯罪や暴力系の団体からのし上がったブラテーの名士達であった。 
以前はブラテーの政治権力は地方に制限されたものであったが、改革時代に彼らの政治的影響力は相当拡大し、今や地域レベルにまで達している。過去には村の境界を越える影響力を持つブラテーも存在したが、彼らは軍の占める地位を支配する地域、もしくは州の正式な指導者達と関わりを持つ傾向にあった。これに関し、軍部はブラテーの名士達を「軌道にのせるプロセス」でその役目を果たした。 

Kerapan sapi (Madurese bull race)
Kerapan sapi (Madurese bull race)

地方分権化と地域自治の施行を促す以外に、政治的改革はまた、政治的人員採用の形式をも一新した。 
例えば、地域議会選挙は政治政党と直接選挙に基づいて行われ、大統領、知事、そして摂政の座は直接選挙で決定される事となった。ブラテーにとってこのような政治的状況は、彼らの経済的、政治的な優位を向上させるチャンスと、政治的便宜を兼ね具えたものであった。ブラテーは順調な選挙運動を通して直接関与する事も出来たし、コミュニティーに対して文化的な影響力をふるう事で間接的に関与する事も可能であった。 

改革時代は地方や都会の政界で、文化的領域から組織的領域にわたって、ブラテーにより多くの政治的機会を提供している。 バンカラン地区で起こった事はこの事実を強調するものである。過去において、摂政の座は引退した軍高官や官僚によって占められていたが、改革時代には多くのブラテーがこの地位を引き継いだ。 
ファドの件はこの実例である。彼は宗教的な家庭に育ち、彼の祖父はマドゥラでさえも知られたバンカランの有名なキアイであった。彼の多くの親戚はペサントレンを管理し、地域社会においては政治政党内や政府官僚などに対し、カリスマ的な影響力を及ぼしていた。しかし彼が地域社会で高く評価されていたのにはブラテーとの関わりのためでもあった。 

このように、彼はキアイとブラテー、二つの集団において等しい影響力を持っていた。また、彼が地方議会で摂政に選出された時には、地元でキアイ-ブラテーと称されたのであった。 

スメネップでは、キアイ社会に属すると見られていたラームダーム・シラージが直接選挙に勝利したが、彼の成功は地元ブラテーの関与の結果でもあった。スメネップ地区のKlebun(村長達)の多くもまたブラテー文化に晒されているのであるから、これは驚くにはあたらない。Klebunは地域社会において長老、威厳あるキアイとしての大変有利な戦略的地位にあった。スメネップではブラテーがSelendang Hitam (黒いショール)と呼ばれる組合を設立し、odeng (男性用の頭巾の一種)を身に付ける事や、その主義主張を推進する上で公的にヒタン(黒色)という言葉を用いる事で知られるようになった。 

ブラテーや悪党のネットワーク・パターンは改革時代における戦略的な政策の在り方を示している。ブラテーは非公式部門を食い物にし、高利貸し業から、暴力、窃盗、賭博などに対する護衛、もしくは警備業などの範囲にわたる活動を行っている。彼らはまた、家畜(雄牛)や材木等のような地元商品を商う商人としても活躍している。しかしひとたび正式に政界関与を深めれば、彼らはklebunとしての態度をとるようになるのである。 
マドゥラでは現在、ほとんどの村がブラテーによる支配を受けており、これは「彼らの」仲間内でブラテーの社会的起源やネットワーク、そして影響力がいかに根深いかを示している。新秩序時代には、彼らが地域政治のような、より高いレベルへ昇進する事は大変困難であった。ところが改革時代には、開放と政治的競争が彼らに地方社会からの支持を得る機会を確保した。このようにして地区や、より高いレベルにでさえ、彼らの正式な政治参入が可能となったのである。 

今日ブラテーはその影響力を、暴力や警備業などといった事業を通じて維持しており、彼らの世界は経済的、政治的領域に拡大し、制度化されてきた。彼らは新たなチャンスを悟り、制度や官僚を通じて開発事業を運営するための新たな技術を学んでいる。投機的事業やCV(合資会社)を設立したブラテーはかなり存在する。これは道路整備事業などといった、地区のインフラ開発事業を競ろうとするためである。 
また、ブラテーの合資会社は、地方の道路整備や修復などにおき、ますます多くの入札を勝ち取る傾向にある。このようなブラテーと政治家、官僚達の癒着関係は相互協力の制度を作り出す。例えば、学生、NGOやその他市民社会の代表者から官僚汚職の申し立てに対する抗議が生じた場合、ブラテーが手配され、こういった抗議を鎮圧し、抑圧するのである。 

ブラテーのネットワーク組織や、サパン、バンカラン、パムカサン各地区における権力と結びつきは、まだ制度化や独占という段階にまでは発達していない。Selendang Hitamの本拠地であるスメネップ地区でも、ブラテー支配はまだ恣意的であり、主に指導者の権力や彼らの個々の影響力に依存するものである。ブラテーの組織化に関する能力や手腕もまた、地域社会が獲得する事業を左右するものだ。例えば、ブラテーが影響力を村にのみ持つ場合、その地域が得る事業は村の開発事業のみとなる(そしてそのブラテーがそれを支配する事は確実である)。 
村を越えた事業の場合、ブラテーはそのコネを使い、その影響力を国家レベルの高みにまで拡大しているのである。 

社会的習慣は改革時代がブラテー達を国家や地方政治の「キリ」から、紛れもない「ピン」へと押しやり、彼らにより広い世界を提供してきた事を露呈する。彼らのネットワークは今や、正式な政治的領域にまで広く拡大し、路傍の政治から官僚権力の中心にまで及ぶものである。彼らは国家事業を支配でき、資金を押さえるための手段を状況に合わせる事にも精通している。当然ながら、贈与競争がより熾烈となるにつれ、ブラテー社会内での開発事業獲得の利益をめぐる対立が浮上し始めた。この対立はまだ、あからさまに腕力に訴えるような暴力にまでは達していない。 

地方や地域の政治的ダイナミズムの活力は今、ブラテーとキアイという二つの社会の手にかかっている。もし、両集団が統治や公的奉仕(教育、健康、建築など)の改善、自治と政治的地方分権化の施行に関わるのであれば、マドゥラ族にはより良い将来がもたらされるだろう。 
しかし、もしこういった連中が改革や社会改善に興味を持たないのであれば、マドゥラ族が直面する将来は間違いなく陰惨なものになるだろう。もちろん、こういった2大集団以外にも、学者達のような集まりだって存在する。おそらく、ここにマドゥラ政治のさらなる暗黒化を引き止めるものが存在するようである。 

 Abdur Rozaki (アブドゥール・ロザキ)
ヨギャカルタのスナン・カリジャガ イスラーム国立大学の准教授、 
ヨギャカルタのResearch and Empowerment(IRE)研究所の研究者。

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (December 2009) 

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