
ハンガリー人のマルクス主義哲学者、György Lukács(ジェルジュ・ルカーチ)は、20世紀大陸哲学に反論した痛烈な批判書、The Destruction of Reason (1952)(『理性の破壊』)を発表した。ここで「寄生的主観主義(parasitical subjectivism)」の思想家と呼ばれ、特に批判の的となったのが、キルケゴールや、ハイデッガー、ヤスパース、そしてフランス人哲学者のサルトルや、カミュなどの人物だ。ルカーチは、自由民主主義の失敗と帝国主義の勃興が集合的理性(collective reason)に対する信念を打ち砕いたとし、この思想の起源を19世紀後半の欧州ブルジョア思想の危機に求めた。マルクス主義のイデオロギー批判の伝統を継いだルカーチは、実存主義をイデオロギー腐敗の兆候と定義した。そして、これが主要な知識人を唯我論や、形而上学的な絶望(metaphysical despair)に導き、(ハイデッガーの例にも明白なように)彼らを反動政治に連座させ、ついには、階級闘争の規範を逸脱させ、物質的矛盾(material contradictions)の盲目的な崇拝を招いたと考えた。
実存主義を抽象的な個人主義と、道徳的主意主義(moral voluntarism)への後退とするルカーチの分析は、とりわけ、インドネシアの事例と関連している。一部のインドネシアの社会主義者の知識人が、新秩序の下でマルクス主義の決定論を超えようとして、テクノクラートの権威主義的なイデオロギーの正当化に加担するはめになった次第が、この分析から明らかになる。
インドネシアにおける、実存主義とマルクス主義のイデオロギー対立は、独立後の最初の数十年間(1945-1960年代)に重要な局面を迎えた。この対立は、世界的な文化冷戦を背景に展開されたが、この背景については、最近の研究で文書化が進んでいる(Herlambang 2013)。この対立における中心的な知識人には、CIAが支持する文化自由会議(CCF: Congress for Cultural Freedom)所属のSoedjatmoko(スジャトモコ)や、Mochtar Lubis(モフタル・ルビス)、Goenawan Mohamad(グナワン・モハマド)などがいた。彼らは、1965年から1966年の反共産主義の虐殺事件の後、インドネシアの文化的景観をリベラルな国際主義に沿って作り替えようとした。この枠組みの中で、実存主義は、戦略的にCCFのリベラルな反共産主義の意図に沿うものとなった。ただし、ここには、「普遍的な」人道主義の価値観をマルクス主義の唯物論と対照的に位置付ける欧米の総意が反映されていた(Saunders 1999: 78)。

この知的潮流は、1950年代にインドネシア文壇の一部、特に、改革の灰から生まれた1945年世代(Angkatan’45)の間で流行した。そして、この実存主義哲学の受容の中心には、歴然たる悲観主義があった。例えば、Chairil Anwar(ハイリル・アンワル)や、Sitor Situmorang(シトル・シトゥモラン)、Gelanggang(ゲランガン)派のIwan Simatupang(イワン・シマトゥパン)などの作家は、不条理や、文芸評論家のKeith Foulcher(キース・ファウルチャー) (2015: 163)が「存在の無意味さ(meaninglessness of existence)」と名付けた革命後の幻滅を反映した厭世感漂う主題を重視した。だが、このような悲観的傾向は左派の鋭い批判を招いた。例えば、Lekra intellectual Boejoeng Saleh (1954)は、この風潮を「Camusianisme(カミュ教)」と嘲笑し、哲学的悲観主義を装ったブルジョアの絶望に過ぎないと退けた。一方、ゲランガン派の作家は、インドネシア社会党(PSI: the Indonesian Socialist Party)の幹部と知的共通点を共有していたが、同党は後にゲランガン派のパトロンとなった。
そもそも、ゲランガン派にとり、PSIは単に庇護を求めるだけの存在ではなかった。1950年代の大半を通じ、PSIは、SiasatやKonfrontasiなどのメディアや、Studieclub Konfrontasiなどの併設サロンを通じ、ゲランガン派の多くの主要メンバーの政治的拠り所となった。特に、定期刊行物のSiasatは、シャフリル(Sjahrir)の2人の門下生で、後のPSI党員、スジャトモコとRosihan Anwar(ロシハン・アンワル)が日本占領期(1942-1945)に創刊したものだ。1948年の社会党(PS: The Socialist party)内の分裂から生じたPSIは、インドネシア初代首相のスタン・シャフリル(Sutan Sjahrir)を議長とし、インドネシア共産党(PKI: the Indonesian Communist Party)の革命的社会主義とは異なる民主的社会主義のアイデンティティを作り出した。一方、1920年設立のPKIは、1926年の反乱が失敗した後、地下に追いやられていたが、革命中にようやく復活し、PSとの分裂によって足場を固めた。これに対し、PSIは、幅広く、時に、相反する多様な知的思想が収束する場となった。そのような思想には、(Eduard Bernstein/エドゥアルド・ベルンシュタインから、ユーゴスラビア市場社会主義までの)非ソ連系のマルクス主義や、英国のフェビアン主義、米国の近代化論、さらには、仏独の生の哲学(lebensphilosophie)、そして、Jacob Burckhardt(ヤーコプ・ブルクハルト)やOrtega y Gasset(オルテガ・イ・ガセット)などの思想家の貴族的リベラリズムがある。

あまり知られていないが、革命中のインドネシアに最初に実存主義思想を紹介したのは、後にPSIの中核を担った知識人だと言える。例えば、シャフリル首相率いる共和党政権は、宣伝工作の一環として、Het Inzicht(洞察)と題したオランダ語の定期刊行物を出版した。創刊後、間もなく、スジャトモコとSoedarpo Sastrosatomo(スダルポ・サストロサトモ)が編集者に就任した。1947年の2月から3月にかけ、このジャーナルは実存主義に関するオランダ語の記事3部作を連載化し、インドネシア国民に初めて組織的に実存主義を紹介した。また、その数か月後には、同じくPSI支持者のSutan Takdir Alisjahbana(スタン・タクディル・アリシャバナ)の編集した週刊誌、Pembangunanの最終号に「実存主義とシュールレアリスム」と題したインドネシア語の記事が掲載された。これらの記事はいずれも、実存主義哲学の概要を紹介し、その主な思想家の相関関係を示し、その人文学や芸術・文化への影響を特集した。[1] これを正式な学問として取り上げたのは、スジャトモコ自身の出版社、PT Pembangunanが出版したDrijarkara(ドリジャルカラ)のPercikan Filsafat (Philosophical Reflections, 1962) や、Fuad Hassan(フアド・ハッサン)の総合研究、Berkenalan dengan Eksistensialisme (Introduction to Existentialism, 1971)、などだが、これは何年も後になってからの話だ。
重要なことに、PSIの知識人は、ゲランガン派が示した悲観的論調ではなく、より理路整然とした、実利的で楽観的な実存主義の展望を示し、往々にして陰鬱なヨーロッパの起源から意図的に逸脱した。実際、実存主義がいかにPSIの知識人たちの心を捉えたかは、容易に理解できる。特に、国内のほぼ全ての(PSIも含む)政党が、口先だけで社会主義に賛同した時代、「ここと今」の確実性と即時性を重視したこの思想は、知識人に、壮大でも現実味に欠けたユートピア的構想より、目の前の具体的な課題への集中を促した。たとえ、深刻な状況下でも、個人に選択の自由があるとする実存主義哲学の主張は、大衆のイデオロギーが形成した目的論的な分別の制約を一切受けない行為主体性(agency)と責任の重要性を明確に示した。ここでいう、大衆のイデオロギーとは、ロマン主義的ナショナリズム(romantic nationalism)や、マルクス主義などだが、PSIは1952年総会で、これらの根本的な排除を試みた。
おそらく、実存主義の思想家と最も幅広く交流したのはPSIの知識人、スジャトモコだろう。彼は実存主義哲学に深く傾倒し、この哲学が植民地独立後のインドネシアの課題に対するスジャトモコの見解を形成した。ジャーナリストのロシハン・アンワル(1999: 210-12)の回想では、スジャトモコは、日本占領下で海外との接触を通じて入手したらしい、サルトルの『存在と無(Being and Nothingness)』(1943)を革命中に熱心に分析していた。実際、スジャトモコの思想の中心的概念には、サルトルの「事実性(facticity/facticité)」や、ハイデッガーの「被投性(thrownness/ Geworfenheit)」、ヤスパースの「限界状況(limit-situation/ Grenzsituation)」などがある。確かに、このような思想は一度も明確に引用されなかったが、スジャトモコがこれらを分析の根拠としていた事に間違いはない。彼にとって、1945年の革命は、近代インドネシアの決定的な「限界状況」であり、この国の文化的・政治的・経済的現実を生み出した歴史的亀裂であった。彼は、インドネシアを、革命と革命後の欠乏という試練に「投げ込まれ」、これらの実存的状況を実利的で開発主義的な国家建設の設計図に変換する社会と定義した。だが、スジャトモコは、実存主義の文献がしばしば強調する深刻な悲観主義を退け、この哲学の「自己回帰(retreat to the self)」を個人の責任と、社会の発展の追求を調和させる呼びかけと再解釈した。[2]

1950年代には、内政の変化と冷戦が形成したインドネシアの文化的景観が、改革後の社会における文化の役割をめぐる対立に巻き込まれていった。PSIとゲランガン派の作家は、反共産主義のリベラルな風潮に同調し、文化を資本主義的な近代化の付録か、非政治的なものの追求と考えた。これに対し、Lekraは、ソ連寄りの社会主義リアリズムに同調し、芸術を大衆動員の媒体として受け入れた。1957年は、地方での反乱と、スカルノの国民協議会(National Council)に対する提言を特徴とした時代で、広くは、「指導された民主主義」時代の到来を告げた年と見なされる。この年に、ガジャ・マダ大学(Gadjah Mada University)の歴史セミナーで、スジャトモコの(1958年)政策方針書、“Merintis Hari Depan” (未来を築く/ Building the Future)が発表された。これは、ロマン主義的ナショナリズムと、マルクス主義の史的唯物論を超越した歴史考察への洞察を提示した。この際、前者には、リベラル派のJacob Burckhardt(ヤーコプ・ブルクハルト)のReflection of Historyが、後者には、元共産主義者のWittfogel(ウィットフォーゲル)のOriental Despotismが対照的に引用された。また、スジャトモコは、ヤスパースのOn the Origin and Goal of History (1949)(『歴史の起源と目標』)に言及し、“Totalwurf der Geschichte”という概念を明確に示した。これは世界の歴史を理解する包括的な枠組みで、ヤスパースは、この概念によって政治目的のための歴史の道具化に対する批判を試みた。この観点は、スジャトモコの決定論的ナラティブの批判の根拠となり、インドネシアの歴史学に対する、より自由な取り組みを求めた彼の提言にも影響した。
スジャトモコの「決定論的な」歴史学の批判を、Karl Popper(カール・ポパー)のThe Poverty of Historicism (1944) (『歴史主義の貧困』)や、The Open Society and Its Enemies (1945)(『開かれた社会とその敵』)での「歴史主義(historicism)」への辛辣な批判と比較する人もいるだろう。この「歴史主義」とは、歴史の行く末を予測する、または、決定すると主張したイデオロギー重視のユートピア的構想の否定により、冷戦期のリベラリズムの輪郭を大いに形成した概念だ。この2人の思想家は、左派であれ、右派であれ、必然的に全体主義をもたらすとポパーが論じた大いなる歴史的運命(grand historical destiny)の概念の解体を試みた。このように、反イデオロギーを自負があったにも関わらず、確実性と責任の主張に覆われた実利主義のレトリックは、最終的に、それ自体が独自のイデオロギーとなった。
スカルノの失墜と、インドネシア左派の大量虐殺から2年後の1968年、当時、新たにインドネシア駐米大使に任命されたスジャトモコ (1968: 1-5)が、大サンフランシスコ商工会議所(the Greater San Francisco Chamber of Commerce)に向けて行った演説に、この変化が要約されている。スジャトモコは、スハルト新秩序体制の「立憲政治へのコミットメントや、現実主義的世界観、経済政策の合理性と実利主義」を讃えながら、国の補助金廃止や、自由市場制度の導入など、スハルト政権による経済自由化と「1945年の革命の躍進(revolutionary élan of 1945)」の間に著しい類似性を見出した。こうして、1950年代にスジャトモコとPSIが提唱した反イデオロギー的な実利主義は、図らずも、新秩序の支配的なイデオロギーとなった。そして、これは「脱イデオロギー化」のレトリックと共に、権威主義的開発主義(authoritarian developmentalism)の正当化に流用された。当初は、歴史の壮大なナラティブに反対する哲学的立場として始まったものが、権力強化の道具となり、イデオロギーを脱却しようとしながら、さらにイデオロギー化するというディスコースの矛盾が露呈した。

つまり、実存主義を「寄生的主観論」、あるいは、集団的闘争から貴族的な個人主義への後退とするルカーチの非難は、インドネシアの事例に皮肉な対象的要素を見出す。スジャトモコなどの人物は、絶望に身を委ねるためではなく、革命後の困難に立ち向かう実利的なエートスとして、本来と異なる目的で行為者主体性や確実性の重視を利用した。ところが、この功績が、スハルト政権下で変異を起こした。こうして、実存主義に着想を得たPSIの実利主義は、その人間主義的核心を奪われ、民主主義への参加より、テクノクラシーを優先する権威主義的開発主義の道具となった。しかも、残念ながら、ルカーチの批判には先見の明があった。つまり、PSIの計画は、その解放の志をよそに、最終的に政治的想像力を空洞化させ、権威主義政権による反対派の抑圧と、「非政治的な」実利主義の武器化を可能にした。この意味で、特に、唯物主義から逃避するための実存主義の順応性は、別の目的で利用される恐れがあるという弱みが露呈した。ここに、グローバル・サウスの植民地独立後の道筋における反イデオロギー的行為さえ、それが脱却しようとした権力構造を定着させる可能性が浮き彫りとなった。
Windu Jusuf
Notes –
[1] D. v. D. “Notities uit Nederland: Existentialisme I” in Het Inzicht, 26 February 1947, pp. 11-12; “Notities uit Nederland: Het Existentialisme II,” Het Inzicht, 5 March 1947, pp. 11-12; “Notities uit Nederland: Het Existentialisme III,” Het Inzicht, 12 March 1947, pp. 9-10 ; Existentialisme dan Surrealisme dalam Pembangunan, 15 July 1947, 172-173. The Inzicht articles were in Dutch and published as a three-part letter under anonymous byline of “D. v. D.”
[2] Siasat, 17 May 1953, p. 20.
References –
Anwar, R. 1999. Quartet: Pertemuan dengan empat sahabatku, Jakarta: Yayasan Soedjatmoko.
Foulcher, K. (Ed.). 2015. Indonesian Notebook: A Sourcebook on Richard Wright and the Bandung Conference. New York: Duke University Press.
Herlambang, W. 2013. Kekerasan budaya pasca-1965. Jakarta: Marjin Kiri.
Lukács, G. 1980 [1962]. The Destruction of Reason. London: Merlin Press, pp. 489–522.
Saleh, B. 2004 [1954]. Kewajiban yang tak boleh ditunda. In M. Nursam (Ed.), Krisis daya cipta Indonesia (p. 32). Jakarta: Ombak. (Originally published in Siasat, 29 August 1954).
Saunders, F. S. 1999. The cultural cold war: The CIA and the world of arts and letters. New York: The New Press.
Soedjatmoko. 1958. Merintis hari depan. In Seminar Sedjarah: Yogyakarta. Jakarta.
Soedjatmoko. 1968. Indonesia and the Security of Southeast Asia. San Francisco: Consulate Republic of Indonesia.