環境に未来はない?タイにおける最近の学生主導デモと環境政策(の不在)

Jakkrit Sangkhamanee

2020年8月16日の夜、ラチャダムヌン(Rajadumneon)通りの民主記念塔周辺の路上に様々な人々が集まり、軍部主導のタイ政府に対する抗議が行われた。このデモを主導していたのは、大学生や中高生などの学生だ。これにアーティストやラッパー、コメディアン、作家、漫画家、歌手、そして会社員や若手フリーランサー、工場労働者、小規模事業者、研究者、さらにはイサーン地方各県の元赤シャツ隊員までもが、このデモに加わった。デモのメインステージでは、青年活動家の活発なパフォーマンスやスピーチが行われていた。また、デモ隊が占拠する路上では、さらに多様でクリエイティブな活動が行われ、民主主義の要求以外にも、社会問題や日常生活、この国の将来に関する政治的な要求が示された。

「人民解放団(フリー・ピープル/“Free People” /ประชาชนปลดแอก)」の同盟団体による最近の民主化要求デモは、タイの現代政治を理解する指標として重要な出来事だと思われる。このように、街頭デモが政治の表舞台を占拠する様子は、1990年代を彷彿とさせた。これらのデモは、バンコク中心部の民主記念塔をはじめ、全国各地の多くの県の、さまざまな大学や学校、公共施設でも生じている。これは、この数十年の間にタイ民主主義が後退する中で、社会運動が再び、漸進的な変化を要求する役割を担う可能性を示している。

1990年代には、農民団体やスラム地区の活動家、反開発運動の活動家、労働者支援の活動家、それに環境保護主義者などの様々な運動があった。これらの運動は、新たにタイの政治的空間を切り開く事を促し、また、この空間に立脚した運動でもあった。特に、これらの運動と環境政策との密接な関連は、これらの運動が、単に特定の環境被害の軽減を目指しただけでなく、民主主義の深化も促していた事を示す。

ここで、市民の活動、運動、活動家や参加者の多様性を考えると、現在のデモで、環境政策がこれ程までに重視されていない事には興味を覚える。ことに、若手活動家に関してはこれがあてはまり、彼らの環境政策や開発関連の問題に対する取り組みは限られている。それに、以前の民主主義デモの時代に、開発と環境がいずれも中心的な問題であった事を思うと、さらに驚きを感じる。一体、環境運動に何が起きたのだろうか?そして、今後、タイの民主主義を形成していく上で、この運動はどのような位置を占めるのだろうか?

Protests on 18 July 2020, a large demonstration organized under the Free Youth umbrella at the Democracy Monument in Bangkok. Photo: Supanut Arunoprayote, Wikipedia Commons

青年解放団(Free Youth)から人民解放団へ

人民解放団は、主に民主主義や人権、透明性、その他の社会問題の改善と推進に取り組む反政府的な政治運動だ。この運動は、プラユット・チャンオチャ将軍率いる現政府に対して、真正面から批判を加えた。プラユットによる釈然としない選挙や国会操作、非効率的な政権運営、それに透明性の欠如は、どう見ても、現政権の正当性が疑わしい事を示している。

この運動は、学生たちの小規模な団体から始まり、2019年の後半には「青年解放団」と呼ばれるようになった。この青年解放団の指導者は、権利や自由を求めて運動を行っていた。やがて、同運動はツイッターやFacebookなどのソーシャルメディアを通じ、より広い注目と支持を集めるようになった。当初は学生を中心とした運動だったが、後に様々な分野の人々が加わった事で、運動の裾野と目標の範囲が広がった。その後、青年解放団は人民解放団となり、いわゆる「3項目の要求、2つの原則、1つの夢(”3 Demands 2 Standpoints and 1 Dream”)」を活動の中心に据えた融和的な協力団体のさまざまな運動を包括する事となった。

ここでいう、「3項目の要求」とは、以下を指す。

  1. 政府は民主的な権利と自由を行使する国民に対する嫌がらせを止めなければならない。
  2. 政府は民意に基づく新憲法の作成プロセスを容認しなければならない。
  3. 政府は「国会を解散させ」、自由で公正な選挙を通じ、国民が再び意思表明を行う事を認めなければならない。

また、「2つの原則」とは、(1)いかなるクーデターの試みにも反対する事、(2)政治的な閉塞状況を打開し、政府の正当性の欠如を正す中央政府を形成する事。

最後の「一つの夢」は、真の立憲君主制の実現だ。同団体によると、国民が絶対的な主権を有する民主主義体制の憲法プロセスの下で、このような夢が実現されるという。

人民解放団は政治的変化を重視するが、その活動は制度政策のみを求めるものではない。むしろ、彼らは活発な運動によって、様々な社会的ミッションを一つの公共空間の下で、まとめてきたのだ。そのため、デモ現場を歩けば、LGBTQの権利や同性婚、女性が中絶を行い、性的同意を表明する権利、教育改革など、人々が様々な社会・政治問題に関する運動を行っている事に気が付く。例えば、ムスリムの若者は、この機に乗じて、タイ最南部県の安全保障政策に透明性と文化的相違の尊重を盛り込む事を要求し、労働組合は不平等な労働条件を指摘し、社会保障を要求している。また、人民解放団のメンバーは、民主主義社会における自由で独立したマスコミの重要性も強調している。

このように多様な立場がある中で、環境政策の果たす役割が限られている事は衝撃的だ。この環境運動の欠落から、今後の民主主義国タイで環境政策が果たす役割について、何が分かるだろうか?

 

民主主義と環境保護をめぐる緊張感

現代の若者世代の間に、有意義で積極的な環境保護運動への取り組みが欠けている事を理解するには、いくつかの周辺事情に目を向ければよい。

1990年代には、開発の影響下にある村人と手を組んだNGOが、環境政策を主導していた。大半の環境政策は地元主導型で、「地域文化」を保護する目的の下で形成されたものだった。また、タクシン・チナワット政権は、数々の政策を通じて、これらの団体の中核を担う有権者を、自身の中央政府との建設的関係に持ち込んだ。タクシン政権は、全国的な経済機会の改善や、教育改革、村民生活の改善、農村部での天然資源の管理などに力を入れていたのだ。この政策に惹かれた村人たちが、以前に手を組んでいたNGO活動家の元を去ったため、一部のNGOの間で不満が生じ、都市部の中産階級とこれらのNGOが結びつく事となった。結果、この中産階級が反タクシン政治運動の一翼を担い、2006年の軍事クーデターを引き起こしたのだ。

タクシン政権が2000年代初頭にもたらした変化によって、新世代の人々は民主主義の政治や政策が提供しうる機会に気が付く事となった。この事態は、教育や技術、創造的経済(creative economy)、その他の社会福祉などの分野で見られる。また、この変化はタイの政治構造の脆弱性も浮き彫りにした。このため、多くのタイ人、特に若者世代にとって、民主主義は次第に、現地の状況に即した環境運動や地域文化に取って代わる存在となっていった。

また、環境NGOや農村部の村人が展開する主張と、若者たちの関心や状況との間には、隔たりがあったように思われる。これは何もバンコクの若者に限らず、デモの一部が行われた、チェンマイ県やコーンケーン(Khon Kaen)県、ウボンラーチャターニー(Ubon Ratchathani)県などの若者についても言える。それに、タイの環境NGOの活動は、農村部に拠点が置かれ、これに携わるのは排他的なメンバーや同盟者であった。1990年代以降、農村部の村人の動員は、これらの運動の中核戦略の一つとされてきた。確かに、彼らの環境に関する知識の生産や主張は、進取の気概に富んでいる。だが、これらは既存の政府を対象とし、地域運動を支えるものではあるが、より多くの人々に環境問題を伝えたり、民主化と環境保護を結び付けたりする、より大きな構造の問題に取り組むものではない。要するに、環境保護運動の大きな失敗は、この運動の政治的主張を、バンコクの人々の目に見える形にできなかった事、そして、これをより若い世代の活動家にとって、現実味ある問題とする事ができなかった点にある。そもそも、デモを行った若者は、1995年から2005年の間に生まれた人々なのだ。彼らが育った時代といえば、民主主義に対する憧れや、街頭デモ、軍事クーデターが挙げられる。つまり、今回のデモに参加した若者の大半は、現在の軍事政権の下で成人を迎えた者たちなのだ。

タイで生き残っている環境NGOは、この10年間、困難な状況に陥っている。どうやら、彼らの環境保護の使命を継ぎ、支持する事に関心を抱く若者の数が限られているようなのだ。そうだとしても、この世代の人々が環境問題を気にかけていないという事ではない。ただ、この政治の新時代に、環境運動をより現実の政治に直結した運動とするには、より幅広い同盟関係の構築と、より大きな政治的分野との関わりという点で、戦略の立て直しが必要となる。おそらく、今号のベンチャラット・セー・チュア(Bencharat Sae Chua)の論説が指摘する通り、環境保護主義は、もはや政治とは無縁でいられないだろう。

A panoramic view of the Khao Ploy Waen mining region in Chanthaburi – An excavated half a square Kilometer area surrounded by greenery. It is roughly fifty feet deep. From Hill of Gems, Gems of Labour – Mining in the Borderlands, Kyoto Review of Southeast Asia, Issue 23

今後の歩み寄りの可能性

このような変化があったとしても、新たな運動の主導者や若手活動家の中には、積極的に環境問題に取り組む者もいる。例えば、「マイク」こと、パーヌポン・ジャートノーク(Panupong “Mike” Jadnok)は、マープタープット(Map Ta Phut)港と、ラヨーン(Rayong)の東部経済回廊(Eastern Economic Corridor)の拡張に反対している。この他にも、コーンケーンや、ソンクラー、サトゥーン(Satun)出身の若手活動家が、政府の環境保護に関する政策を批判している。例えば、森林再生や村人の立ち退き、採掘権、「環太平洋パートナーシップに関する包括的および先進的な協定(the Comprehensive and Progressive Trans-Pacific Partnership, CPTPP)」、そして南部での運河の開削計画などの政策が批判された。だが、これらの指導者たちの民主化運動への関与は、個人規模の取り組みであり、運動というようなものではない。社会運動が絶頂期にあった1990年代には、反ダム団体や、土地を持たない農民、スラム地区の住民、森林や高地に住む開発計画の影響を受けた民族集団、あるいは、農村部の村人たちをめぐる環境関連の運動が、政治運動の最前線だった。だが、2020年の環境保護主義は、これとは違い、運動として、手広く民主化デモに参加する事を敬遠しているようなのだ。

もちろん、全ての環境保護運動が表舞台から姿を消したわけではない。例えば、2020年8月21日、民主記念塔で起きたデモの数日後に、グリーンピースのタイ支部(Greenpeace Thailand)は、この運動を支持するとの声明を発表した。同団体が言うには、「真の民主主義とは、指針であり、到達点でもある。この二つは、タイ社会が直面する危機と環境問題の解決策を探る努力を行う上で必要なものだ」。さらにグリーンピースは、次のようにも述べた。すなわち、国民の環境および政治的権利を確保するには、「健全な民主主義」が必須条件であり、国民は、これらの権利によって、自らが「健全な環境」と見なす医療サービスや教育、食糧、公正、その他の基本的権利にアクセスできる、という事である。

同じく、貧民連盟(AoP)も、その有力な指導者、バラミー・チャイラート(Baramee Chairat)が警察官に嫌がらせを受け、告発された後に、人民解放団の意見を支持すると声明を出した。AoPは長年、「食べるための政治、貧者の民主主義(”edible politics, a democracy where the poor belongs”)」というキャンペーンを行ってきたが、近年、これは目立たぬ存在となっていた。しかし、AoPが学生の主導する今回の民主主義集会への参加を決めた事で、このキャンペーンが最近の政治的話題の一部となった。だが、同団体の有力指導者、バラミーと、先に述べた声明の外に、AoPには明確な戦略がない。つまり、これらの集会にAoPがどのように積極的に参加していくのか、あるいは、より幅広い民主主義運動における、AoPのより重要な戦略的役割がどのようなものであるか、などの点がはっきりしないのだ。

また、8月31日には、これとは別の出来事が生じた。「ペンギン」こと、パリット・チワラック(Parit “Penguin” Chiwarak)と、パーヌポン・ジャートノークの二人の有力な青年指導者が、首相府前でデモをしていた村人と活動家の元を訪ねたのだ。このデモは、タイ南部のパッタルン(Phatthalung)で、国家が計画するムアン・タクア(Muang Takua)・ダムの建設に反対するものだった。この訪問は短時間で行われ、集結した抗議者を「精神的に支える」 (ให้กำลังใจ)事を主な目的としていた。この訪問は、彼らの活動を認めるという確かな証であるが、同時に、既存の環境運動と現在の政治運動との隔たりを示すものでもある。

この反ムアン・タクア・ダムの事例は、タイの環境運動と国家の民主化プロセスとの長年の乖離をよく表している。現に、これらの村人や活動家は、バンコクに来て地元の問題を抗議したものの、様々な同盟団体が手を組み、現政権に変化を求めていたにもかかわらず、より幅広い抗議活動には加わらなかった。つまり、この反ダム団体は、より幅広い政治同盟には加わらず、個別で活動しようとしていたのだ。

上記の環境団体によるデモは、過去数年間に、プラユット独裁政権の下で行われた、幅は広いが、まとまりを欠いた環境運動のほんの一例に過ぎない。この他の例としては、クラビ(Krabi)の石炭火力発電所や、メーウォン(Mae Wong)川のダム、ルーイ(Loei)県の鉱石採掘、バンコクのチャオプラヤ川沿いのプロムナード計画、一部の経済特区や、その他の巨大インフラ計画などへの反対運動がある。それに、これらの計画に対する反対運動は、より困難なものとなった。その理由は、軍事政権が平和と安定を口実に、5名以上の人が集まる集会を一切禁じているからだ。そのため、抗議者は自らの地域運動と全国的な政治運動との間に距離を設ける事に慣れてしまったのだ。この結果、この重大な激動の時代に、差し迫った環境問題は、以前よりも目立たなくなり、中心的な問題ではなくなってしまった。

最終章——タイ民主主義の重大な岐路とは?

ラチャダムヌン通りの民主記念塔の集会から2カ月が経過したが、若者主導のデモは、現在も活発に行われ、拡大し続けている。今、タイの民主主義をめぐる困難な状況は岐路にある。何年も続く独裁政権は、環境保護政策と民主主義政策を分離してしまった。そこで、現在の運動における両者の歩み寄り、あるいは分裂を検討する事で、今後のタイ政治の行方を垣間見る事が可能となる。また、これによって、この先の長い年月の中で、環境保護主義の取り組みが、どのようになるかも明らかとなるだろう。

Jakkrit Sangkhamanee
Assistant professor in anthropology at the Faculty of Political Science, Chulalongkorn University

Banner Image: Bangkok, Thailand, October 2020. Students and people sit and stand in the middle of the street to protest Rungkh / Shutterstock.com