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死から生へ ティック・クアン・ドックの生涯と焼身自殺…伝記、宗教的背景と追想

1963年6月11日、サイゴンの、交通量の多い交差点で、ベトナム仏教の老僧、ティック・クアン・ドック(Thích Quảng Đức)が焼身自殺を行った。後に、この行為がベトナム戦争の忘れ難いイメージとなった訳の一つに、AP通信社の記者、マルコム・ブラウン(Malcolm Browne)が撮影した象徴的な写真がある。それらの写真は、死をつぶさに記録しているものの、かの仏教僧の身体を包む炎の輪郭をなぞる以上のものではない。翌日、これらの写真が世界各地に広まった時でさえ、この僧侶に関する記憶の全ては注目されぬまま、事件は警察調書を読むかのように伝えられた。例えば、ディヴィッド・ハルバースタム(David Halberstam)は次のように記した。「73歳の仏教僧が自殺をして、政府の宗教政策に対する仏教徒の抗議を浮き彫りにした」。 1

Journalist Malcolm Browne’s photograph of Quảng Đức during his self-immolation. This photograph won the 1963 World Press Photo of the Year. Wikipedia Commons
Another photograph of the scene by Browne. Original black and white photo: Wikipedia Commons. Colourised here by Sanna Dullaway

伝記

ベトナム統一仏教教会(The Vietnamese Unified Buddhist Church)は、ティック・クアン・ドックの伝記を彼の死の直後に出版した。この伝記には、ティック・クアン・ドックの生涯が、一僧侶のありふれた人生として描かれる。 2 伝記によると、ティック・クアン・ドックは7歳の時に修行僧となり、20歳で受戒した。 3 そして、受戒後は南部を中心に、ベトナム全土を旅して仏教の布教に当たった。実際、この伝記は彼の生涯にはあまり触れず、世界を動かした彼の死と、その影響を中心的に描く事で、最終的に彼の人生を鮮やかに描き出している。

ところが、伝記は、ティック・クアン・ドックの死が計画的なものであった事には言及していない。つまり、彼の死は、マルコム・ブラウンの写真が伝えると思われる、自発的な殉教行為ではなかったのだ。ある意味、ティック・クアン・ドックの死により、彼の生涯よりも、当時のアメリカ人記者と、ベトナム仏教僧との複雑な関係が明らかになったと言える。ただし、この関係を単なる一方的な搾取として単純化すれば、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を引き起こした背景を完全に見逃してしまう。

当時、ディヴィッド・ハルバースタムや、ニール・シーハン(Neil Sheehan)、マルコム・ブラウンら、アメリカ人記者は、何か月もの間、足繁くサーロイ寺(Xá Lợi pagoda)に通っていた。なぜなら、ベトナム人僧侶が、公衆の面前で腹切か焼身自殺によって、ジェム政権の宗教弾圧に抗議するとの噂があったからだ。当然、そのような事件の写真があれば、新聞が売れるため、アメリカ人記者は事件の写真を撮ろうとしていたのだ。これについて、ハルバースタムは、「そういう商売だったのだ」と説明する。 4 かくして、ベトナムでシーハンの「ピンチヒッター」を務めていたレイ・ハーンドン(Ray Herndon)は、1963年6月11日にカメラを自宅に忘れたがために「ピュリッツァー賞を逃した」と悟った。 5 実際、彼はピュリッツァー賞を逃し、ブラウンが、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を撮影した写真で1964年にピュリッツァー賞を受賞した。

当時、ベトナム仏教の僧侶は、アメリカ人記者との関係を利用して自分たちの運動を推進しようとしていた。例えば、アメリカ人記者を使って秘密警察を寺院から遠ざけるため、僧侶たちは、デモ現場から遠く離れた場所の偽情報を記者に伝えた。また、彼らは記者を利用し、自分たちの抗議も発表した。例えば、焼身自殺の前夜には、統一仏教教会の広報主任、ティック・ドック・ニェップ(Thích Đức Nghiệp)が、マルコム・ブラウンに電話をかけ、ティック・クアン・ドックの焼身自殺を告知した。さらに、ティック・ドック・ニェップをはじめとする僧侶数名は、この計画全体を指揮していた。つまり、車や運転手、ガソリン、さらには、ティック・クアン・ドックの身体を焼く炎を消し止めようとする警官を阻止する人垣も、彼らが手配したのだ。

このように、アメリカ人記者と、ベトナム人僧侶が手筈を整えたところで、ティック・クアン・ドックは自身の役割を完璧に果たした。なのに、「彼はゲームの駒に過ぎなかったのか?彼は何のために死んだのか?」と問う者は一人もなかった。だが、ティック・クアン・ドックは、弟子に残した一遍の詩の中で、自分の焼身自殺の意図を、ベトナム仏教徒のためと説明している。彼は、自分の身体が燃える様子を、寄る辺なくさまよう者たちを導く「闇に差し込む灯火の光」として描いた 6 身体が燃え尽きると、その煙は火がついた線香の香りのように静けさをもたらし、ジェム政権の仏教弾圧に「無知」であった人々に、これを知らせる。 7 やがて炎が消えると、灰が、仏教とカトリック教の「(宗教的)格差を埋める」、ティック・クアン・ドックは、このように想像した。 8 彼は、自分の霊魂が人々を覚醒させ、仏教徒を救済し続けることを願っていたのだ。 9

The car in which Quảng Đức traveled to his self-immolation. Wikipedia Commons

経典

アメリカ国民は、ティック・クアン・ドックの焼身自殺に感銘を受けたが、中には、この行為を受け入れられない者もいた。例えば、ニューヨークからストックホルムに向かうフライトで、あるアメリカ人女性は、ティク・ナット・ハン(Thích Nhất Hạnh)にこう言った。ティック・クアン・ドックの焼身自殺は、「(彼女には)異常者の行為のように思われた」。 10 つまり、彼女は「焼身自殺を野蛮で、暴力的で、狂信的な行為で、精神的に不安定でなければ成し得ない行為だと考えていた」。 11 これに対し、ティク・ナット・ハンは、女性に説明を試み、次のように語った。かつて自分がティック・クアン・ドックと共に暮らした時、「彼が非常に親切で、明晰な人物だと分かり、焼身自殺を行った際も冷静だったし、頭もしっかりしていた」。 12 だが、女性は彼の話を信じなかった。

実は、焼身自殺の宗教的な起源は、大乗仏教の伝統で実践される受戒の儀式にある。ティク・ナット・ハンが言うには、「僧侶を志す者は、自分の身体の一か所、あるいは、数か所の小さな点に火を付け、比丘(bhikshu)の250戒を遵守する誓いを立てる事が求められる。これにより、僧侶としての人生を歩み、悟りを得て、一切衆生の救済に自らの生涯を捧げる」という。 13 また、このような痛みを感じながら、僧伽(sangha)を前に、誓いの言葉を唱える事で、僧侶を志す者は、己の「こころと想い」の「真剣さ」を示す。 14

また、焼身自殺という行為の起源は、「大乗仏教のあらゆる経典と聖典の中で、最も重要で、最大の影響力のある」法華経にも求められる。 15 実際、『薬王菩薩本事品』では、一切衆生喜見菩薩が、日月浄明徳如来のために自分の身体を焼く物語が、仏陀によって説かれる。この物語で、一切衆生喜見菩薩は、自分が行ったどの供養も「(自分)自身の身を以て行う供養には及ばない」と考え、自らの身体を焼く。 16

さらに、法華経は、焼身自殺を行う者に対して素晴らしい功徳を約束している。『薬王菩薩本事品』によると、法華経は「一切衆生を救う」だけでなく、「一切衆生をして諸々の苦難を離れさせるものである」。 17 また、法華経はその功徳を説くにあたり、「暗闇に灯火を得たように、貿易商が海を得たように…(あるいは)闇を除く光明」との喩えを用いる。 18

ティック・クアン・ドックもまた、自分の焼身自殺が法華経に説かれた功徳と同じ功徳をもたらすよう願っていたのだ。彼の残した一遍の詩には、彼の燃える身体が(寄る辺なく)さまよう者たちを導く「暗闇に差し込む灯火の光」になるのを望むと書かれていた。 19 身体が燃え尽きると、その煙は火の付いた線香の香りのように静けさをもたらし、ジェム政権の仏教弾圧に「無知」だった人々に、これを知らせる。 20 やがて炎が消えれば、灰は、仏教とカトリック教の「(宗教的)格差を埋める」、ティック・クアン・ドックは、このように想像した。 21 焼身自殺という行為の果てに、ティック・クアン・ドックが望んだのは、彼の霊魂が仏教徒を救済し、人々を覚醒させ続けることだった。 22

すなわち、アメリカ人記者や、仏教界の指導者は、彼の焼身自殺をジェム政権への抵抗のための政治的行為と断じたが、彼にそのような意図は無かった。むしろ、彼は法華経の実践により、ベトナムの仏教徒を救済しようとしていたのだ。つまり、ティック・クアン・ドックは法華経の実践として焼身自殺を行う事で、ベトナムの仏教徒を苦しみから解放しようとしていたのだ。

付録による追想

ティック・クアン・ドックの焼身自殺から3年後の1966年、サイゴンのChi Lăng書店は、Thích Ca Lược Sử(ブッダの生涯)の特別版を出版した。この本の表紙を大きく飾ったのは仏陀ではなく、仏像の前で瞑想するティック・クアン・ドックの写真だった。ティック・クアン・ドックの袈裟と、仏像に掛けられた袈裟の明るい黄色が、両者のつながりを思わせた。だが、この本が最も興味深い点は、これにティック・クアン・ドックの焼身自殺に関する付録があり、この行為が、より大きな仏教史の一部として示唆されている点だ。

Thich Ca Luoc Suの表紙の写真(写真は著者蔵)

1966年は、仏教徒抵抗運動(the Buddhist Struggle Movement)にとって極めて重要な年だった。この運動は、1963年11月のジェム政権転覆の一因となり、その後、一目置かれる勢力となった。だが、運動の勢力が拡大すればするほど、運動の目的に関するナラティブは、次第に宗教的文脈を逸脱するようになった。ある意味、宗教と政治の両立は不可能だったのだ。ついに、ベトナム共和国の将軍たちは、これを政治運動と見なし、武力で鎮圧し、ティック・トリ・クアン(Thích Trí Quang)は自宅軟禁に、ティク・ナット・ハンは国外追放に処された。 23

それから約50年も後の2010年、ティック・クアン・ドックが焼身自殺を行った一角に、ベトナム政府は、ようやく彼のための追悼空間を設置した。ただし、ティック・クアン・ドックの焼身自殺は、ここでも歴史を補う役割を担っていた。だが、この時の追悼空間の設置には、仏教徒闘争運動を共産主義ナショナリストのベトナム史観に結びつける目的があった。


Google Maps Street View of commemoration sites

この追悼空間の中心には、炎に包まれたティック・クアン・ドックの銅像が置かれている。この銅像の身体は炎に取り巻かれているが、顔には穏やかな表情が浮かんでいる。そして、銅像の背後には長大な壁画があり、その一端にはベトナム共和国陸軍兵士が仏教徒を殴る姿が、もう一方には民族解放戦線の兵士と共に立って祈る僧侶の姿が描かれる。

また、この追悼空間の前に置かれた記念銘には、ティック・クアン・ドックの生涯が記されている。だが、そこにはまた、「仏法と平和、国家の独立と統一」に対するティック・クアン・ドックの犠牲と貢献を記念する場を市が建設したと明記されている。

ところが、道を挟んだ向かい側には、1967年に統一仏教教会が建てたティック・クアン・ドックの小さな追悼空間が、これに対抗するかのように建っていた。そこに記念銘は一つも無く、あったのは、ティック・クアン・ドックの生誕と受戒、焼身自殺の年という3つの重要な出来事の年譜だ。そこには、こう記されている。「彼は仏教のために焼身自殺を行った」。

Hoang Ngo
Workforce Development Council of Seattle – King County

Reference

Dialogue (The Rev) Thich Nhat Hanh, Ho Huu Tuong, Tam Ich,Bui Giang, Pham Cong Thien Addressing to (The Rev) Martin Luther King, Jean Paul Sartre, André Malraux, René Char, Henry Miller. Saigon: La Boi, 1965.

Halberstam, David. “DIEM ASKS PEACE IN RELIGION CRISIS; But Buddhists Still Protest Dispute Seems Worse No Easing in Dispute Demonstration Defies Ban.” New York Times, June 12, 1963.

Lê Mạnh Thát, ed. Bồ Tát Quảng Đức: Ngọn Lửa và Trái Tim. [Ho Chi Minh City]: NXB. Tổng hợp Thành phố Hồ Chí Minh, 2005.

Nhất Hạnh. Vietnam: Lotus in a Sea of Fire. 1st ed. New York: Hill and Wang, 1967.

Prochnau, William W. Once Upon a Distant War. 1st ed. New York, N.Y: Times Books, 1995.

Quốc Tuệ, ed. Công Cuộc Tranh Đấu Của Phật Giáo Việt Nam: Từ Phật Đản Đến Cách Mạng 1963. [Saigon]: the Author, 1964.

Schecter, Jerrold L. The New Face of Buddha; Buddhism and Political Power in Southeast Asia. New York: Coward-McCann, 1967.

Thích Thiện Ngộ. Thích-Ca Lược Sử: Phụ-Thích A-Di-Đà – Tóm Lược Bảy Vị Bồ Tát Phụ-Bản Thích Quảng Đức. Saigon: Quán Sách Chi Lăng, 1966.

Watson, Burton, trans. The Lotus Sutra. Translations from the Asian Classics. New York: Columbia University Press, 1993.

Notes:

  1. David Halberstam, “DIEM ASKS PEACE IN RELIGION CRISIS; But Buddhists Still Protest Dispute Seems Worse No Easing in Dispute Demonstration Defies Ban,” New York Times, June 12, 1963, 3.
  2. See Lê Mạnh Thát, ed., Bồ Tát Quảng Đức: Ngọn Lửa và Trái Tim ([Ho Chi Minh City]: NXB. Tổng hợp Thành phố Hồ Chí Minh, 2005).
  3. The birthyear of Thích Quảng Đức is not clear. In some publications, like Thích Thiện Ngộ, Thích-Ca Lược Sử: Phụ-Thích A-Di-Đà – Tóm Lược Bảy Vị Bồ Tát Phụ-Bản Thích Quảng Đức (Saigon: Quán Sách Chi Lăng, 1966), 248., he was born in 1890. In some others, he was born in 1897.
  4. William W Prochnau, Once Upon a Distant War, 1st ed (New York, N.Y: Times Books, 1995), 320.
  5. Prochnau, 316.
  6. Quốc Tuệ, ed., Công Cuộc Tranh Đấu Của Phật Giáo Việt Nam: Từ Phật Đản Đến Cách Mạng 1963 ([Saigon]: the Author, 1964), 113.
  7. Quốc Tuệ, 113.
  8. Quốc Tuệ, 113.
  9. Quốc Tuệ, 113.
  10. Nhất Hạnh, Vietnam: Lotus in a Sea of Fire, 1st ed. (New York: Hill and Wang, 1967), 1.
  11. Nhất Hạnh, 1.
  12. Nhất Hạnh, 1.
  13. Dialogue (The Rev) Thich Nhat Hanh, Ho Huu Tuong, Tam Ich, Bui Giang, Pham Cong Thien Addressing to (The Rev) Martin Luther King, Jean Paul Sartre, André Malraux, René Char, Henry Miller (Saigon: La Boi, 1965), 14.
  14. Dialogue, 14.
  15. Burton Watson, trans., The Lotus Sutra, Translations from the Asian Classics (New York: Columbia University Press, 1993), ix.
  16. Watson, 282.
  17. Watson, 286.
  18. Watson, 286.
  19. Quốc Tuệ, Công Cuộc Tranh-Đá̂u Của Phật-Giáo Việt-Nam, 113.
  20. Quốc Tuệ, 113
  21. Quốc Tuệ, 113
  22. Quốc Tuệ, 113
  23. See Jerrold L Schecter, The New Face of Buddha; Buddhism and Political Power in Southeast Asia (New York: Coward-McCann, 1967).
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