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冷戦の遺産:ベトナムにおける体制の安全保障と暴力機構

Vietnam Eve Hanson KRSEA

現代ベトナムの政治情勢は、超大国がハノイとホーチミン市の指導者を通じて衝突した結果である。この衝突には非常に残念な結末が伴った

(Dr Nguyễn Đan Quế, interview, August 11, 2015)

戦争終結から40年、現代のベトナムで民主化運動の活動家として注目されるDr. Quếは、自国の権威主義とその反対派の展開について自身の見解を述べた。彼が人権と民主化のための活動を始めたのは、1970年代初頭のベトナム統一前の事で、当時、彼は他の知識人たちと共に南部の旧ベトナム共和国での拘禁の状況について非難した。現代の民主主義や人権問題の活動家には、その活動の起源を統一前の時代に見る者や、自らを南部の独裁主義に対して組織された初期の運動や集団の系統と考える者がいる。

ベトナムでは、植民地化されたその他の社会と同様に、国家独立のための闘争がほぼ途切れることなく国際関与を伴った冷戦の対立へと移行して行った。この国際関与は決定的に重要な要因となった。また、これもアジアの他の地域と同様に、大量殺戮や政治的迫害、大量残虐行為が想像を絶する規模で行われ、1955年~75年までには300万人以上が死亡、そのうち200万人以上は民間人だった(Bellamy 2018)。社会科学の理論、イデオロギー、資金と銃で身を固めた二つの冷戦ブロックは、国内政権と連携して独裁政権を形成し、これが双方で展開された事から、幾世代にもまたがる政治的遺産が残った。一方ではアメリカ合衆国とその同盟国の、他方ではソビエト圏と中国の直接関与が、その設立の手助けをした排他的政権は市民の支持を必要とせず、外部からの多大な資金的、戦略的支援によって保護されていた。双方で政治的浄化計画、すなわち、対立する思想に同調する恐れのある反対派を排除する試みが実行にうつされた。彼らは国内の政治的支配のための暴力機構の設立とその近代化を支援した。これらの動きが重なった事で、この時代に出現し、政治的権利や公民権を要求し始めていた市民社会の団体や組織、運動など、あらゆるタイプの政治的アクターが活動する政治空間が大幅に制限された。

民主化や権威主義、体制構築(regime-development)に関する政治学的研究が悩まされてきたのはひとつのバイアスである。そのバイアスは、権威主義的な政治体制に回復力(レジリエンス)が存在することや、そこから民主化に至るまでのあらゆる事柄を国内的要因で説明しようとするバイアスである。実際には、海外のアクターが大規模な直接関与によって独裁体制をつくりあげ、その後、反対する市民からその体制を護ってきたにもかかわらず、である。国際的な影響力に関する研究は、西側とのつながりや西側の影響力を民主主義体制の建設に貢献するものと見て、ポスト冷戦の権威主義の一因とは考えない傾向にある(se e.g. Levitsky and Way 2002; 2010)。ベトナムでは、アメリカとその同盟国が連携と影響力の両方を行使したが、これらを用いる事で、南ベトナム共和国の反共産体制を確実なものに強化しようとした事は明らかだ。ベトナムの例が示唆するのは、冷戦の政治的遺産が複雑な事、これに国家と市民社会の間のひどく偏った力関係が含まれ、それが政治的権利や被選挙権を要求する市民や団体を損ねるほどのものだという事だ。暴力機構は、政治体制や政府をそれ自身の市民から守る事を目的としたもので、海外のアクターの積極的な支援から利益を得ていた。だが、Dr. Quếが上で示唆する通り、外国の支援を受けた独裁政権は、自らの反対勢力も育む事となった。

ベトナムの分断、政治的浄化と暴力

1949年に共産勢力が国民党に勝利を宣言し、毛沢東が中華人民共和国設立を宣言した後、アメリカは東南アジアに調査団を派遣した。東南アジアの他の地域から「反乱鎮圧」のテクニックと経験をもつCIA職員が関与させられるようになったのは、ベトナムが世界規模の冷戦の一部で、世界的な共産主義拡大に対する闘いの要地と見なされるようになってからだ。第一次インドシナ戦争を終結させたジュネーブ合意(Geneva Agreement)は6年後、現在、ベトナム社会主義共和国として知られている領土を17度線のところで二つの暫定的な「再編成区域(re-grouping zones)」に分割した。これはイデオロギー上の分断を地理化したもので、間もなく双方はこれを国境として認識するようになった(Devillers 1962)。この境界線の両側の政府には、いずれもその領土に対する主導権が無く、両者はむしろ、自らを対立する政治勢力の列島の中の小島と考え、何とかしてこの支配権を握る必要があると考えていた。

ジュネーブ合意が国政選挙を約束したのに、これが一度も実行されなかった訳は、アメリカもゴ・ディン・ジェム(Ngô Đình Diệm)首相のアメリカによって設置された政府も、自分たちに勝ち目が無いと思っていたからだ。その代わり1956年3月4日には、南ベトナム共和国の憲法制定議会が選出され、CIAの協力の下で憲法が作成され、ジェムに「事実上の絶大な権力」が付与された(Boot 2018)。北部のベトナム民主共和国がソビエト連邦や中国に支援とインスピレーションを求める一方、アメリカはCIAその他の組織を通じた独裁的な南ベトナム政府の創設に大いに携わっていた(Boot 2018; Chapman 2013)。領土の支配権も、当てにできる国民の支持も無い両政府とその国外の同盟国は、敵対勢力の一掃を図ろうと、急進的な計画に着手した。17度線の両側で行われた政治的浄化の取り組みは、ついに明白なポリティサイド(政治的自殺)に至った。.

Original unissued patch from the Phoenix Program, a terror campaign led by the CIA.

南部では通常の戦争と並行して、CIAが1967年にPhượng hoàng、フェニックス・プログラムに着手した(CIA 1975)。この取り組みが強化され、政府の支援および、反対勢力の破壊と打倒を目的とした反乱鎮圧計画が確立された。これらの計画はより小規模ではあったが、少なくとも1960年代初頭からアメリカが取り組んできた事の一環であった(e.g., CIA 1963)。この標的となった者達には、共産主義者支援ネットワークの一員と思しき民間人や、南部の独裁政権に反対した民間人、あるいは労働組合など、共産主義に共感を抱く可能性があるその他の組織があった(Wherle 2005)。このフェニックス・プログラムの恐るべき作戦を実行したのは、CIAや米国特殊部隊、その他のアジア諸国出身の連合軍兵士や、CIAの指揮下に置かれた南ベトナム軍だった。ウィリアム・コルビー(William Colby)は、1968年から71年までこの作戦を指揮した人物で、彼の米国下院小委員会への証言によると、この3年間で20,589人が拿捕、殺害されていた(Ward 1972)。捕らえられた敵は、南ベトナム各省にあった尋問所での尋問や拷問に耐えた。他の者達は適正な手続きを経ず、CIAのリストに従って即座に殺害され、律儀にも米国本部に折り返しの報告が行われた。フェニックスは恐怖によって市民を支配しようとしたものだが、殺害された多くの者たちは共産主義とは何の関係もない人々だった。しかし、この恐怖は穏健派の意見をも制し、南部の独裁政権に対する政治的反発を引き起こした。これら市民社会の闘いの記憶は今なお、社会的、政治的アクターの機会の認識方法に影響し、抗議運動と民主化活動家の両方を南部に強く引き寄せている。

体制の安全保障、イデオロギーと冷戦の遺産

冷戦の勝者側では、政治的に強力な人民公安(People’s Public Security)(Bộ Công An:公安省)において長く続く制度的な遺産を残した。「反革命的組織や敵対的組織との闘い、社会の秩序と安全の維持、党と革命政府、および人民の保護」という任務を負って(Ministry of Public Security 2018)、ソビエトや中国の同等機関を模範とする人民公安が組織化されたのは、1953年に公安省(the Ministry of Public Security)が正式に設立された時だ(Goscha 2007)。これは現在もなお、警察と国内の諜報および安全保障の両部局を組織している。

あまり知られてはいないが、東ドイツの国家保安省(シュタージ:Stasi)とベトナム公安省との関係は、特に1960年代半ば以降、ベトナムが党・国家の確立と「危険」分子排除に向かう動きの中で緊密であった(Grossheim 2014)。1961年に公安省は「ベトナム民主共和国(DRV)国内の安全を監督し、反革命主義の疑いのある全ての者たちを訴える全面的権利」を付与された(ibid.)。シュタージとの連携は25年間、ベルリンの壁崩壊の少し前にシュタージのハノイ支局が閉鎖された1989年まで続いた。シュタージはベトナムの安全保障機構の近代化と、この国が党に忠実な「独裁政権の手先」となるための支援を行った。シュタージは技術的装置、例えば盗聴器、電話の盗聴器などを提供し、秘密情報提供者ネットワークの構築に助言を与え、マスメディアを制する手段や、文化人、学生、医師たちの「政治的・イデオロギー的転換」対策を示唆し、敵の勢力や反体制的集団に罰を与え、抑圧し、また教育、娯楽、教育機関に潜入する手段を提供するなどした(East German State Security 1977; 1989)。

2018年に制定された新警察法(A new Police Law)は、人民警察が今後もベトナム共産党の絶対的かつ直接的指揮下に置かれる事を追認している。警察は広範な権限を維持する事で「政治犯罪」と闘い、党を守り、政治的安全保障と、思想、文化、教育、経済の諸分野の安全を確保している。警察は党に対する絶対的な忠誠を課す。この法律は数ある近年の法律の一つで、市民を敵、味方として捉える冷戦の二元的思考が途切れずに続いている事、そして政権の座にある党と政治体制を、反革命主義のアクターから守る事が最終目標であり続ける事を示唆している。

過去の学術分析は、「反乱分子」の逮捕や「政治犯罪」に対して宣告された実刑判決の期間(Kerkvliet 2014)など、ドイモイ(Đổi Mới)後のベトナム国家の抑圧的な防衛能力とその制度的構造を検討して来た(Thayer 2014)。Carlyle Thayerの推定では、この国の防衛当局は最大で670万人を雇っており、これには制服警官と、いわゆる「自衛団(self-defence forces)」が含まれる。他のアナリストたちはこの数字を疑問視するが、これが正しければ東ドイツのシュタージに関わった人員数をはるかに超える事となる。いずれにせよ、巨大な機関なのだ。

結論

現代のベトナムにおける冷戦の政治的遺産は複雑だ。冷戦時代の二元的思考が明白に残る党の公文書や党則は、平和的な反対論者を指して、外国勢力から支援を受ける疑いのある「反動勢力」とする。だが、さらに直接的な遺産としては、人民警察が2018年1月にハノイでKGBの前身であるチェーカー(Cheka)の創設者、フェリックス・ジェルジンスキー(Felix Dzerzhinsky)の記念碑建立を祝った事実がある。この出来事に先立ち、あるいはこれに伴い、国家警察やその他の党・国家の定期刊行物には祝賀記事が出た。さらに広い目で見ると、冷戦の遺産は権威主義的な政治体制と政権の座にある党を守るためのイデオロギーと制度の両方に表れており、また同時に今日のベトナムにおいて人々が声を発するための政治的空間(the political space for voice)を制限している。そればかりか、冷戦は市民社会にも痕跡も残しており、それは、今日の権利と正義を求める数々の団体や運動、民主化の提唱者たちが、各々の活動組織を独裁支配に反対する平和的運動の歴史的系譜に位置付ける手法にはっきりと見る事ができる。

Eva Hansson 
ストックホルム大学 政治学部 准教授

Banner: Hanoi, Vietnam – Communist troops marching. February 2014. Photo: Arne Beruldsen / Shutterstock.com

References

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