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可動の身・不動の身:激動の時代に成長した記憶

国際報道機関の伝える「難民危機」に関する報道や映像、とりわけ、シリア人の男女、子供達が母国の過去数か月におよぶ内戦を避け、大移動する様は、もう一つの大規模な逃亡の記憶を呼び起こす。それは40年程前に何十万人ものカンボジアやラオス、ベトナムの人々が、1975年の共産主義の勝利の結果、国を後にした記憶である 1。この二つの大移動の類似点は見過ごし難く、最も顕著なものは、彼らがすさまじい海路の旅でヨーロッパやアジアの海岸へ辿り着こうとする点である。あらゆる強制移住には、それなりの原動力や発端、結果がある。すなわち、類似点を引き出す事は可能であっても、それらは同一ではない。だが、いずれの逃亡にも顕著な二重のナラティブの特徴は、一方に無力な「第三世界」の犠牲者たちがいて、もう一方には「第一世界」による人道救助活動(計画)があることだ。ベトナム人難民に関して言えば、Yen Le Espirituが酷評した先行学術論文は「(彼らを)救助の対象」と位置づけ、「彼らを悲嘆のために無能力状態に陥った保護が必要な者として描き、その保護はアメリカで、またアメリカによって最良のものが提供されるという事だ」(Espiritu 2006: 410)。このナラティブはおそらく、多くの新聞やテレビの「ボート難民」 2の苦難や難民キャンプでの人道問題の報道に影響されたもので、これが転じて「インドシナ難民」に関する集合的記憶を形成した。

事実、後者に付随する言説やイメージがあまりにも揺るぎないものであるために、彼らを「人工記憶」保有者と呼んでも見当違いにはならないだろう。Alison Landsbergの概念は、これらの出来事を生き抜いた経験を持たない人々の心を動かす「新たな形をした公的文化的記憶」に関連している。これらの記憶は「実体験の産物」ではなく、Landsbergが述べるように、「媒介表現に接する(映画を見る、博物館を訪れる、テレビの連続ドラマを見る)事から生じた」記憶なのである(Landsberg 2004: 20)。2015年に賞を獲得した双方向的なグラフィック・ノベル、『ボート(The Boat)』は、Nam Leのアンソロジーのタイトルとなった短編作を脚色したもので、このような記憶のテクノロジーと大衆文化の一例である。 3この作品はオンライン読者のみを対象に制作され、心を揺さぶるよう、本文と画像、音声と動きを融合させ、一人のベトナム人の少女が両親によって難民ボートに乗せられ、オーストラリアへ送り出された物語を伝える。

The Boat by Nam Le. The interactive graphic novel of Nam Le’s compelling narrative was illustrated by Vietnamese-Australian artist Matt Huynh, whose parents fled Vietnam after the war. Read the novel here: http://www.sbs.com.au/theboat/

この「捨て身で救助される」というナラティブは、戦争と暴力の犠牲者としてのインドシナ人難民のイメージを具体化している。難民として、歴史の犠牲者としての立場が認識されているため、当然、難民達には何の術もなく、その亡命生活は彼らが救助されてホスト社会に入るその日に始まるかのように思われている。逆に、彼らが母国を発った時の状況や事情がつぶさに調べられる事は希である。だが彼らの人生の決定的瞬間は、彼らが桁外れに困難な状況を抜け出す事を決意した際の、彼ら自身のイニシアティブの結果なのである。筆者は2015年にシドニー郊外で、1975年以降にラオスを去ったラオス系オーストラリア人達にインタビューを行った。推測では、約40万人のラオス人が1975年から1980年代の後期までに(主に)フランスやカナダ、アメリカ合衆国、オーストラリアに逃げ込んで亡命した。ラオス国民の大移動は、ベトナム人やカンボジア人の大移動のようには知られていない。この理由はおそらく、これが前者の規模に相当するものでもなければ(約175万人のベトナム人が1975年から1990年代半ばまでの間に国から逃亡した)、カンボジア人生存者たちのような極度のトラウマを特徴とするわけでもなかったという事だ。

ラオス人難民の逃亡理由を述べる際、報道は通説を繰り返す。「一部のラオス人たちは再教育収容所に入れられる事を恐れて逃亡した。他の者達が出て行った理由は、政治的、経済的、宗教的な自由を喪失した事である」というものだ(UNHCR 2000: 99)。これらの要因や事情は、概ね正しいのであるが、これらの説明には亡命者達のプロフィールや体験を均質化する傾向があり、まるで彼らが年齢や性別、あるいはエスニシティに関わらず、同一の必要に迫られて一様な集団を形成したかのようなのだ。筆者がインタビューの対象としたのは、ラオス系オーストラリア人で、1960年代初頭から1970年代後期に生まれた人々である。筆者が調査を試みた集団が、歴史的な出来事、すなわち、政治体制の崩壊と社会主義者の支配の出現、そして大量脱出を、人生のほぼ同時期、子供時代から成人期にかけて生き抜いた人々であったからだ。若いラオス人難民たちは重要であるにもかかわらず、見過ごされた集団であったのだ。1975年以降にラオスから逃げ、1975年から1987年の間にタイのキャンプを通過した人々の約40%は13歳から29歳であった(Chantavanich and Reynolds 1988: 25)。

共産主義の勝利に続く時代の記憶は、ラオスにおける厳しい生活環境を描く。設立当初から、新政権は存続を懸けた戦いを行っていた。彼らはアメリカの空爆によって破壊された国家の再建という、途方もない課題に直面していたのである。1975年以降、西洋諸国の大半は支援をやめるか、その援助を大幅に削減した。隣接するタイが通商を禁じた事が、経済を苦境に陥れた。さらに、一連の自然災害(1976年の干ばつ、1977年と1978年の洪水)は、農業生産を著しく妨げた。日常生活は一層束縛され、国内の移動が制限されて、日常的な監視は強化された。SomchitとVilayvanhは当時、十代後半であった。二人共、ビエンチャンに住んでいた。Somchitは数年前に学校を卒業し、運転手として働いていた。Vilayvanhは大学生であった。Somchitは首都ビエンチャン近郊の村に育ち、1975年には19歳であった。彼はその頃結婚したてで、妻と共に彼の雇い主がビエンチャン郊外に用意した家に引っ越したばかりだった。Somchitは成人期を目前に、彼の周囲で世界が崩壊していく様を目にしたのである。彼が記憶していたのは、「物事が不安定(voun)になり」、「混沌(voun vai)としてきた」事であった。同じ時期、彼の妻は二人の赤ん坊を死産させている。「私の人生は行き詰ってしまった(bor mi sivit lort)」。彼が出て行ったのは1978年で、メコン川を泳いでタイに渡った。彼の妻は彼女の両親と共に留まる事を選んだ。Vilayvanhは南部のチャンパサック県の村で育ち、彼女がビエンチャンのロースクールの二年生であった1974年は、Somchitと同じ言葉を用いれば、「事態が混沌としてきた(voun vai)時代であった。彼女は学位を取得する事ができず、1975年以降は医学の道に転じた。彼女は1990年まで国を出なかった。

The Mekong River border between Thailand and Laos

SomchitとVilayvanhの話は、両者が「混沌とした」、「不安定な」と表現したこの時代の記憶について、同様の圧倒的な不安感を伝えていた。彼らのナラティブは、特定の歴史的時期の中で、個人的な体験や彼らの周囲の人間、つまり家族や仲間たちの体験を介して形成されたものである。SomchitとVilayvanhは、歴史的出来事の主観的体験の共有によって定義される世代コホートに属している。これはカール・マンハイムが「連関世代(generation as actuality)」と名付けたもので、特定の生涯の一時期における「歴史的問題」の集団的体験が、解釈や内省によって結び付けられる方法である((Mannheim 1952: 303)。Thomas Burgessの社会変動の時代における青年期の定義も、これが安定した「伝統的」社会からの決裂の重要性を強調するために有用である。彼の言葉によると、「断絶がより決定的である場合、(…)青年期はライフサイクルの中の一時期としてよりもむしろ、歴史的コホートとして出現し」、それは「その世代を前後の別世代から隔て、一段と多くの交渉や変動、創作の余地がある特有の歴史的背景やナラティブ」によって定義されている(Burgess 2005: x)。言い変えると、破壊の時代(例えば戦争、自然災害、社会的危機など)における青年期は、より自律的な範疇になるという事だ。急激な社会的、政治的変化の過程を生きた若者として、SomchitとVilayvanhは、それぞれに違ったやり方でその状況に対処したのである。

成人期に入る寸前に、Somchitの人生は痛ましい個人的出来事に押しつぶされ、威圧的な政治・社会経済環境に捕らわれてしまった。相応の人生を送る可能性の欠如が、彼の移住の決心を支えていたのである。Somchitの境遇は、彼に全てを捨てさせる事を余儀なくした。メコン川を泳いで渡りながら、彼が「携えていたのは自分の身一つであった」(aw tae tua pay)。驚くべき事に、彼は数日後、泳いで引き返してきたが、これは妻を説得して彼と一緒に来させる事ができれば、との望みを抱いたためであった。彼女は再びこれを拒んだ。彼はタイ北部の難民キャンプで実利的な理由によって、その夫がラオスに留まった一人のラオス人女性と結婚した。彼らは夫婦として、一年後にオーストラリアに再定住させられた。Somchitは自分の逃亡を、新たな始まりの契機に変えたのである。これとは逆にVilayvanhは、1970年代後期には立ち去らなかった。彼女は、その大多数が逃げて行った彼女の親友や級友たちと共に逃げる事もできたのである。長女として、彼女は他の兄弟姉妹たちと共に1975年以降も国に留まった。彼女は両親に恩義を感じていたのである。彼女に対し、彼女の「両親は期待を抱いていた(mi khwam vang)」。留まるという事は、Vilayvanhが「強い絆で結ばれた」家族に対して孝行を果たし、これを示す手段であったのだ。Roy Huijsmans(ら)は、「人生の一時期としての青年期と、世代としての若者たちは、しばしば「変化」と関連付けられる(…)だが同様に、社会的な連続性を理解する事も重要である」(Huijsmans 2004: 6)。Vilayvanhは1980年に医学の学位を取得し、ビエンチャンの病院で数年間働いた。

SomchitとVilayvanhは、「1975年」の結果に「異なる」折り合いをつけたのであった。平たく言うと、彼は出て行き、彼女は残ったという事だ。だが、移住は無理やりにではあったものの、ラオスで夫と父としての役割に伴う期待に応えられなかったSomchitが、若年成人としての苦境を乗り越える事を可能にした。Stephen Lubkemannは、「移動はしばしば、多くの異なる(経済的、社会的、政治的)意味において、喪失と能力強化の曖昧な混合を生み出す」(Lubkemann 2008: 467)と論じている。だが、我々はまた、移住しないという選択も、等しく注目と分析に値する決断である事を認識すべきである。Vilayvanhは、動かずにいる事が、彼女の両親や兄弟姉妹に対する義務を果たす手段だと確信していたのであり、かくして、見事にこの過程の中で大人になった。彼女は後に「時期尚早な社会の高齢化」に苦しんだ(Hage 2003: 18)。1980年代に、彼女の「人生は行き詰ってしまった」(sivit bor pay bor ma)。彼女はもはや、貧困と制限によって自由が利かなくなった首都で、自分が緩やかに社会的に死にゆく様を正視していられなくなったのだ。個人が社会的な生存を続けて行くには、いかに現状が悲惨であっても、自分達の有意義な将来を思い浮かべる事ができなくてはならない。Vilayvanhはついに、1990年に出て行く事を決心し、家族同士が知り合いであった在外ラオス人男性と結婚した。彼女の両親は彼女の決断を黙諾した。彼らの娘は当時35歳の独身で、肉体的にも年を重ねつつあり、保守的な社会の中で社会的な老巧化に瀕していたのである。その結婚は、彼らの考えでは、おそらく彼女が自分自身の家庭を持つ最後の機会であったのだ。

SomchitとVilayvanhの記憶は、40年の後もなお、彼らの知っていた世界がどのように永遠に消えてしまったのかを語るにつけ、喪失と混乱、不安の感情をあらわにする。この意味において、彼らは歴史の犠牲者なのである。その事が彼らを社会的アクターとして、あるいは人生の選択者として、より劣った存在にする事はないが、彼らはその青年期の最後の日々に、二つの驚くように対照的な選択を行った。それらはいずれも、破壊と不安定の時代に大人になるという、途方もない課題を体現していたのである。

Vatthana Pholsena
シンガポール国立大学 東南アジア学部 准教授

Issue 20, Kyoto Review of Southeast Asia, September 2016

The two photographs below belong to Mr Voradeth Siackhasone, who kindly gave me permission to reproduce them in my article. They were originally published to illustrate his personal story as part of the online migration research project, entitled “Moving: migration memories in modern Australia”, hosted by the Migration Heritage Centre (see: http://www.migrationheritage.nsw.gov.au/moving/moving-stories/voradeth-siackhasone/index.html).

I have selected these two photographs because they embody memories of an apparently seamless life trajectory of a young Lao man before departure and exile. Voradeth’s early life resembles that of Somchit and Vilayvanh. He was born in Phon Hong near Vientiane in 1959 and, like Vilayvanh, moved to the capital to pursue his higher education at the University of Medicine in 1978. He decided to leave the country in late 1979. Like Somchit, he swam across the Mekong to Thailand, stayed in a refugee camp in Nong Khai, and then in early 1980, migrated to Australia.

Figure 1: Voradeth Siackhasone (back row 3rd from left) at high school in 1973 (or 1974), Phon Hong.
Figure 2 Voradeth’s University of Medicine student card, Vientiane, 25 December 1978.

Reference

Burgess, Thomas. 2005. “Introduction to Youth and Citizenship in East Africa”, Africa Today, Vol. 51, No. 3, pp. vii-xxiv.
Chantavanich, Supang, and E. Bruce Reynolds. 1988. Indochinese Refugees: Asylum and Resettlement. Asian Studies Monographs no. 39, Institute of Asian Studies, Chulalongkorn University.
Espiritu, Yen Le. 2006. “Toward a critical refugee study: the Vietnamese refugee subject in US scholarship”, Journal of Vietnamese Studies, Vol. 1, No. 1-2, p. 410-433.
Hage, Ghassan. 2003. Against Paranoid Nationalism: Searching for Hope in a Shrinking Society. Melbourne: Pluto Press.
Huijsmans, Roy, Shanti George, Roy Gigengack, and Sandra J T M Evers, “Theorising Age and Generation in Development: A Relational Approach”, European Journal of Development Research advance online publication, 30 January 2014, doi:10.1057/ejdr.2013.65.
Landsberg, Alison. 2004. Prosthetic Memory. The Transformation of American Remembrance in the Age of Mass Culture. New York: Columbia University Press.
Lubkemann, Stephen C. 2008. “Involuntary Immobility: On a Theoretical Invisibility in Forced Migration Studies”, Journal of Refugee Studies, Vol. 21, No. 4, pp. 454-475.
Mannheim, Karl. 1952. “The Problem of Generations”. In Essays on the Sociology of Knowledge, ed. Paul Kecskemeti. London: Routledge and Kegan Paul Ltd, pp. 276–320.
UNHCR. 2000. The State of the World’s Refugees 2000: Fifty Years of Humanitarian Action – Chapter 4: Flight from Indochina. UNHCR, pp. 79-105.

Notes:

  1. See, for instance: Raquel Carvalho, “How Europe can learn from the hard lessons of Hong Kong’s Vietnamese refugee crisis”, South China Morning Post, 14 September 2015; Lizzie Dearden, “Refugee crisis: Son of Vietnamese ‘boat people’ shares story of how Britain treated asylum seekers in the 1980s”, The Independent, 9 September 2015.
  2. “The boat people”, more specifically, refers to the second wave of some 400,000 Vietnamese refugees that fled the country between 1978 and 1981 on over-crowded and poorly constructed boats. Ethnic Chinese made up 70% of these “boat people”.
  3. http://www.sbs.com.au/theboat/
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