イスラム主義運動はインドネシア史において目新しいものではないが、イスラム主義者の動員がこの国の政治舞台で一層目立つようになったのは、故スハルト大統領が辞任した1998年以降の事である。イスラム主義者たちにとって、スハルトの権威主義的政権の終焉は、彼らの宗教、文化、イデオロギー、政治、経済上の利益を表明する推進力となった。
新秩序後のインドネシアにおけるイスラム主義運動の高まりには常に複数の要因が寄与しており、スハルト政権の崩壊は重大であった。スハルトの失墜は、市民の自由や民主主義、市民の多元的共存に門戸を開放したものの、この副作用として、不寛容や急進主義、イスラム教の好戦性を高める事となった。
社会、政治、経済の著しい発展にもかかわらず、ポスト・スハルトのインドネシアは、地方や国境を越えたイスラム主義集団の流入によっても悩まされる事となった。これらの集団は、インドネシアの揺籃期にある民主主義や、脆弱な多元主義、そして、インドネシアのムスリムが中央アジアやインド亜大陸、中東の同宗信者に比べて寛容で穏健であるとのイメージを脅かすものだ。これらのイスラム主義集団が成長した結果、穏健で進歩主義的なムスリムの現代的でリベラルなものの見方が益々脅かされ、また排斥さえされるようになった。
インドネシアの民主主義は斯くしてイスラム主義者に蔓延る余地を与えている。自由と民主主義の名の下で、様々なイスラム主義集団がインドネシア全土にイスラム主義のセンターや組織、学校、それに政党までをも設立している。彼らはイスラム主義の本やその他の出版物を自由に出版し(さらにはこれを自分たちの広範なネットワークを通じて社会に流通させ)ており、そのような出版物は、彼らのイスラム主義の理念や解釈、見解、そして社会政治的計画に沿ったものとなっている。このような集団は民主主義制度の中で成長しており、彼らは自分たちのイスラム主義の諸機関を逆説的に利用して、不寛容や自民族中心主義、反多元主義を発信し、また彼らが西洋世俗主義の産物と批判する民主主義にも反対している。
多様なイスラム主義集団の様式
明確にしておく必要があるのだが、全てのイスラム主義集団が物理的な暴力を振るうわけではないし、イスラム主義者の動員が常に暴力的で過激な形をとると断じる事も間違いである。ユダヤ教やキリスト教の特定宗派がその信奉者たちに個人的な信仰心の向上を強要するのと同様に、多くのイスラム教復興運動がムスリムたちに戒律のさらなる遵守を促している。
平和的、あるいはより暴力性の低いイスラム主義者の動員には以下の活動がある。すなわち、政党の結成、選挙への出馬、同盟関係の構築、国家と市民社会の協力関係の確立、そして市民社会組織の立ち上げである。これには政府諸機関と連携してシャリーアに基づく政策を支持する事も含まれるだろう。暴力的あるいは過激なイスラム主義者の動員としては、資産に対する攻撃、脅迫行為、イスラム主義者の目的や戦略的選択に反対する個人や集団、少数宗派、少数民族集団、特定の住民層を標的化する事、それに暴動や社会不安、対立住民間の暴力、反乱がある。
非暴力のイスラム教主義の例として、タブリーグ・ジャマート(Tablighi Jamaat)、ヒズブット・タフリール・インドネシア(Hizbut Tahrir Indonesia)、あるいは一部のサラフィ派(またはネオ・サラフィ派)集団がある一方、イスラム防衛戦線(Front Pembela Islam)、ラスカル・ジハード(Laskar Jihad:聖戦軍)、インドネシア・ムジャヒディン評議会(Majelis Mujahidin Indonesia)、イスラム信徒フォーラム(Forum Umat Islam)、インドネシア・ムスリム同胞団協会(Jamaah Ikhwanul Muslimin Indonesia/Association of Indonesian Muslim Brotherhood)、反シーア派国民連合(Koalisi Nasional Anti-Syiah/Anti-Shia National Alliance)などの組織は暴力的な過激派イスラム主義集団に分類する事ができる。
ジャカルタ州知事選挙期間中のイスラム主義者の動員
ジャカルタの2017年の州知事選挙は、ポスト・スハルト時代に最も物議を醸した選挙の一つであった。この原因は、この選挙に先行して一連の暴力や緊張関係、騒動、テロ、憎悪、脅迫、人種差別、自民族中心主義や宗派間感情の動員が複数のイスラム主義集団によって行われた事である。
第1回投票でのイスラム主義者の支持は、ハドラマウト地方出身(Hadrami)のアラブ系のアニス・バスウェダン(Anies Baswedan/アニス)と、元インドネシア大統領のスシロ・バンバン・ユドヨノ(Soesilo Bambang Yudhoyono)の息子アグス・ハリムルティ・ユドヨノ(Agus Harimurti Yudhoyono)との間で二分されていた。ところが第2回投票では(アグスは第1回投票で落選)彼らが一致団結し、現職候補のバスキ・チャハヤ・プルナマ(通称アホック、キリスト教徒の華人)とその副知事候補のジャロット・サイフル・ヒダヤット(Djarot Saiful Hidayat/ジャロット)に対抗した。 1
候補者の支持者間の敵対関係は第1回投票の前から明白であったが、熾烈な対立と競争が生じたのは第2回投票のアニス対アホックの闘いであった。自分たちの候補者(アニスとその副知事候補のサンディアガ・サラフディン・ウノ(Sandiaga Salahuddin Uno、通称はサンディ/Sandiで実業家)が負けるのではないかという懸念から、イスラム主義者はジャカルタ住民を様々な手段、すなわち集団決起や集会、説教、金曜礼拝、掲示板、ポスター、ソーシャル・メディアなどを通じて動員し、脅かした。アニス・サンディを支持するイスラム主義者とその政治的盟友は、繰り返し一般大衆やイスラム主義の「チアリーダーら」を行進や市内施設での金曜礼拝、路上でのお祈りや様々な市民集会に動員した。イスラム主義の聖職者はこの動員に教義的な裏付けを与えるべく、コーランの文章やイスラム教の言説を用い、アニス支持の神学的、宗教的根拠を与えた。彼らは説教を通じ、ムスリムが自分たちの政治と政府の指導者にムスリム(つまりアニス)を選ぶ事は義務(ワジーブ/wajib)であり、非ムスリム(つまりアホック)を選ぶ事は不法(ハラム/haram)であると繰り返し説いた。
その上、イスラム主義の指導者は、モスクやイスラム教センター、テレビ局、その他の手段を利用(あるいは悪用)し、ムスリムを脅して、アホックを選ぶ者は死後に地獄に落ちると言った。彼らはまた、アホック支持者たちの為に祈祷も遺体の埋葬も行わないと言ってムスリムを脅した。さらにひどい事に、イスラム主義者は、アホックが選挙に勝つようであれば、華人やキリスト教徒、そしてアホック支持者を攻撃し、ジャカルタを「地獄」に変えるだろうと脅し、ジャカルタ住民を恐怖に陥れた。彼らは常に「五月暴動(May Tragedy)」をちらつかせて人々に警告したが、これはジャカルタで1998年に華人住民が怒り狂う群衆の暴力の標的となった事件である(Kingsbury 2005; Sidel 2006)。特筆すべき事実は、これまで互いにそれぞれの違いを持っていた多様なイスラム主義集団が突如団結し、彼らが「イスラム教の共通の敵」と考えるアホックに対抗した事、そしてアホックの副知事候補のジャロットが敬虔なムスリムである事実が顧みられなかった事である。
結局、このようなイスラム主義者の動員は、最終的にアニスがアホックを57.95%の投票で破った(アホックは42.05%の票を獲得)事によって成功となった。いくつかの事後分析が示唆するところでは、多くのジャカルタ住民、とりわけムスリムが特に第2回投票でアホックに投票しなかった理由は、(1)反華人・キリスト教徒の暴動再発を恐れたため、(2)コーランの戒律違反と神罰を恐れたため、(3)彼らあるいは彼らの家族が死んだ場合、誰も祈祷や遺体の埋葬を行わないという懸念があったため、または(4)敬虔な信者にムスリムの候補者を政治的指導者として支持する事を求める「コーランの命令」に従おうとしたためであった。明らかに、宗教やイスラム教のアイデンティティがジャカルタ州知事選挙における重要問題であった。
ジャカルタの過激派イスラム主義者動員の要因
メディアの報じるところによると、イスラム主義者にとってアホック論争の主な契機となったのは冒涜行為という主張であった。この主張の基には、アニス・バスウェダンの支持者のブニ・ヤニ(Buni Yani)が編集し、ソーシャル・メディアにアップロードしたビデオがあり、これはアホックがコーランをわざと不適切に引用したとの印象を伝えるものであった。このビデオはムスリムの大部分に広範な抗議を引き起こし、彼を冒涜罪で逮捕せよとの声を助長した(彼はこの冒涜罪によって起訴され、二年の禁固刑を言い渡された)。
だが、アホックの演説がイスラム主義者の動員の主な理由であると断ずる事は間違いである。なぜなら、イスラム主義者の現職知事に対する憤りはこの論争以前から蓄積されていたものであるからだ。幾分しゃくに触るが有能な知事と認められたアホックの統治や反汚職、多元主義の重視が地元政財界の利害に反したものとなり、ついには彼らがイスラム主義者と結託して彼をおとしめ、最終的には彼に異を唱える事となった。彼らのアホック追放運動の根幹は、(1)信仰擁護のためのムスリムの動員、(2)大規模集会の実施、(3)ヘイトスピーチによる宗派心の醸成(4)政治目的でのモスクの悪用、(5)聖句や宗教言説の解釈による自らの指針の正当化、そして(6)贈賄であった。
すなわち、過激派イスラム主義者の動員は経済・政治・イデオロギー上の目的追求のための手段である事が示されたわけだ。イスラム教の言説や民族的アイデンティティは政治的利益に供するために使われる道具であった。
ジャカルタだけがインドネシアではない
ただし、明確にしておく必要があるのは、ジャカルタ州知事選挙をめぐる展開がインドネシア社会の中で高まる宗教性の典型例と見なされるべきではないという事だ。第一に、華人や非ムスリムでアニスに投票した者も相当数存在したし、同様にムスリムでアホックに投票した者も存在する。さらには、インドネシア全土で101の地域(州、県・市)が2017年の州知事、県知事・市長選で直接選挙を実施したが、過激派イスラム主義者と政財界の利害関係者との「癒着」が世俗主義の炎を焚きつけ、自らの指針推進のための動員を目論みるところを目撃する事となったのはジャカルタのみであった。そのような動員は、これ以外に非ムスリムと華人候補者の参加したシンカワン(Singkawang)やアンボン(Ambon)、ランダック(Landak)、クパン(Kupang)、ボラーン・モンゴドゥ(Bolaang Mongondow)、西部東南マルク(Maluku Tenggara Barat)、西部セラム(Seram Bagian Barat)、マルク(Maluku)、西パプア、その他多くの選挙戦には明らかに存在しなかったのである。 2
要するに、これらのその他の選挙戦では、大多数の有権者たちが宗教的、民族的アイデンティティではなく候補者の実績や資質、信頼性、能力や手腕に基づいて投票したという事だ。いくつかの地域(例えばソロ(Solo)やアンボン、ランダック、西カリマンタンなど)の非ムスリムには見事に当選した者さえ存在する。とりわけ西カリマンタンのシンカワン地区では、非ムスリムの華人女性チャイ・チュイミー(Tjhai Chui Mie)が市議会議員に当選した。ジャカルタでも、多数のムスリム、特に国家最大のムスリム組織であるナフダトゥル・ウラマー(Nahdlatul Ulama)やナショナリストな政党や組織、それに無数の中産階級のムスリム集団に関連する者たちが、州知事選挙のための過激派イスラム主義者の動員に反対していた。
また、インドネシア全土で、相当な数のムスリムがイスラム主義集団の存在や諸活動に反対し、各自のコミュニティ内で聴衆を求める過激派の説教師の取り組みを拒否するために結集した事実にも触れておかねばならない。むしろ、これらの民間の多元的民主主義運動は、穏健でナショナリストで伝統主義的なムスリム集団によって支持され、イスラム主義がいかにインドネシアの憲法や国家イデオロギーのパンチャシラを損ねているかという事について全国各地で国民意識の向上に取り組んでいる。この結果、インドネシア政府はイスラム主義集団の諸活動を制限する法律を制定したのである。 3
これらの全てから言わんとする事は、たとえジャカルタ州知事選挙が後退であったとしても、インドネシアにはまだ多様性や寛容性、民主主義や多元主義を称える「民間のイスラム教」の希望があるという事である。確かに、保守的イスラム主義勢力はインドネシアで目新しい現象だと言い難い。だがまた、イスラム主義者たちが常に選挙や社会的動員、あるいは暴力行使などを通じて、何としてでも自分たちの指針を推進しようと争ってきた事も事実である。なぜなら、インドネシアでは、イスラム主義者たちの指針は、平和や寛容を好み、宗教の多様性を称えるインドネシア社会の歴史や伝統、文化と衝突するものであるからだ。
Sumanto Al Qurtuby
サウジアラビア ダーラン
キング・ファハド石油・鉱物大学
一般教養学部
参考文献
Burhani, Ahmad Najib. 2017. “Ethnic Minority Politics in Jakarta’s Gubernatorial Election,” Perspective No. 39: 1–6.
Hatherell, Michael and Alistair Welsh. 2017. “Rebel with a Cause: Ahok and Charismatic Leadership in Indonesia,” Asian Studies Review 41 (2): 174–90.
Kingsbury, Damien. 2005. Violence in Between: Conflict and Security in Archipelagic Southeast Asia. Australia: Monash Asia Institute.
Sidel, John T. 2006. Riots, Pogroms, Jihad. Religious Violence in Indonesia. Ithaca, NY: Cornell University Press.
Notes:
- アニスは、大インドネシア運動党(Gerakan Indonesia Raya)略してグリンドラ党(Gerindra)(退役したプラボウォ・スビアント/Prabowo Subianto中将が設立)とイスラム主義政党の福祉正義党(Partai Keadilan Sejahtera)によって指名され、アホックは(メガワティ・スカルノプトリ元大統領が率いる)ナショナリスト政党の闘争民主党(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)によって指名された。 ↩
- インドネシア総選挙管理委員会 (Komisi Pemilihan Umum) は、2017年の選挙期間中に非ムスリムが出馬した地域として少なくとも11地域を挙げた。http://kbr.id/berita/022017/ini_22_pasangan_calon_kepala_daerah_nonmuslim_yang_diusung_partai_islam/88775.html. を参照(2017年10月10日にアクセス)。 ↩
- インドネシア政府は規制(例えば2017年法律代行政令第2号)を公布し、インドネシアの国家イデオロギーや憲法と相反する政策や趣旨、指針を持つ組織や社会集団(特にイスラム主義者のもの)を一切禁止している。 ↩