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都市を取り戻す:インドネシア左派の都市政治を振り返る

PKI meeting in Batavia (now Jakarta), 1925.

「左派の市議会進出は成功と考えてよいだろう。Dekker(デッカー)や、Wiwoho(ウィウォホ)、Malaka(マラカ/Tan?/タン?)、Soekindar(ソエキンダル)など、Ra’jat(市民)に寄り添った同志全員が議員の地位を確保した。これにより、gemeenteraad(市議会)内での左派の立場は確実に強化されるだろう。これはSemarang(スマラン)市当局にとって重要な出来事で、この議会構成の変化により、同市のkampongs(カンポン/村落)に影響する諸条件の悪化や、不当な規制に関心が集まる可能性がある。今日まで、市議会は、国民の発言の場とはとても呼べなかったが、ようやく、下層階級の利害をおろそかにしない議会となる事が期待される」(Soeara-Ra’jat, 16 October 1921)。

1921年10月16日のSoeara Ra’jat(インドネシア共産党の隔週会報)に掲載されたこの記事には、1920年代の植民地都市、スマラン市の政界に穏やかながら、重大な変化を与えた出来事が綴られていた。インドネシア左派は、ストライキや暴動など、従来の記述から連想される一時的で、劇的な事件だけに限らず、市町村の日常の統治機構に深く入り込んでいた。この時代の意義は、即効的な法律上の成果より、その象徴的、制度的な影響にある。左派の市政政策は、普通選挙権やkapitan(カピタン)制度(民族ごとに住み分けられた地域で、民族の代理人を介した間接的植民地支配)などの人種的特徴を持った行政機構の解体、住宅や公共衛生への投資などの要求を基軸としていた。これらの政策には、日常の具体的な懸念に基づく進歩的な都市の市民性(citizenship)に関する構想がまとめられていた。

それは、都市における不平等の構造基盤に配慮しながらも、正規の植民地支配機構と真っ向から対立せず、その機構内部から作用する政策だった。この出来事から、インドネシア政治のモダニティ(political modernity)に対する別の角度からの解釈が浮かび上がる。事実上、市議会は、この植民地都市に仕組まれた、相反する構想(imaginaries)を戦わせる場となった。この「現実的政治(practical politics)」は、この当時のオランダ植民地都市で、左派が同盟を形成し、社会主義のより大きな政治計画の土台を築く幅広い支持基盤をもたらした。ここで、左派は、単に帝国の権威に抵抗しただけでなく、その内部に入り込み、内部からの再構築を試みた。この記事では、20世紀初頭のSurabaya(スラバヤ)の事例を取り上げ、進歩的な政治実践出現の実質的な拠り所となったスラバヤに注目し、インドネシア左派の歴史を振り返る。[1]

At the Bond van Marinepersoneel in Surabaya, sailors gathered, exchanged radical ideas, and supported ISDV—marking the rise of socialist politics in colonial Indonesia.
Source: “De Eerste Marxisten in Indonesië”, De Waarheid, 1989.

対立した(植民地の)都市ガバナンス

19世紀末の数十年間に、スラバヤは、帝国資本の循環とそのインフラによって作り替えられた。スエズ運河の開通(1869年)と、オランダ自由主義政策(Dutch Liberal Policy/1870)を契機とする変化は、スラバヤを小さな守衛体駐屯都市から、活気に満ちた世界経済の中心地へと生まれ変わらせた。こうして、港や鉄道路線、倉庫などが街の主要な景観を作り替える中、欧州からの資本と移民は、社会階層を再規定した。さらに、人口構成にも変化が見られ、1870年から1890年には、西欧人の人口が2倍以上となり、植民地資本主義による支配の強化が数値となって現れた。

このような変化からは、経済成長だけでなく、植民地の官僚主義と無関係な西欧人の中間層、orang particulier sadjaという新たな社会階層が生じた。それらの医師や技術者、ジャーナリスト、秘書などは都市公共圏の擁護者となり、組合活動や報道文化、改革派政治を通じ、都市のモダニティを主張した。ところが、植民地国家官僚、ambtenarenとの間に高まる反目が、この中間層の出現に影を差した。だが、このような官僚の権威は、次第に、スラバヤ市の発展と対極的なものと見られるようになった。例えば、高名な弁護士で、スラバヤ市議会議員のAdriaan Paets tot Gonsayen(アドリアン・パエツ・ト・ゴンサイェン)などのリベラル派は、インド諸島の官僚主義を都市の機能障害への対応より、手順順守に関心のある愚鈍な組織と非難した。

そして、ついに、このような反目から市政刷新への推進力が生じた。市議会や町議会と似た行政単位のgemeenteと、公選された機関で市政を担うgemeenteraadは、市民の有権者としての権利を体現した自由民主主義機関とされた。まず、1903年のDecentralisatie Wet(地方分権法)により、部分的な正当性が付与され、1906年には、スラバヤ市議会が正式に発足した。だが、この市議会の構造に反映されていたのは、自由主義の勝利よりも、植民地主義に対する譲歩だった。実際、西欧人議席15議席中、8議席は官僚の管理下にとどまり、残る6議席は非西欧人のエリートに割り当てられ、多人種の代表が確保されながらも、民主的な平等性に欠けていた。つまり、これは参政権が不完全に付与された地方分権化で、植民地帝国の覇権を維持するべく入念に計画された譲歩だった。

とはいえ、gemeenteraadは、都市権力に関する様々な構想が衝突し、融合する実験場の役割を果たした。また、インフラや公衆衛生、土地利用に関する議論から、階級間の緊張関係だけでなく、都市の帰属をめぐる人種ごとの主張の対立も明らかになった。こうして、スラバヤ市は、単なる経済の集積地ではなく、植民地の市民権や、公権力、社会正義の輪郭が形成される坩堝となった。このようなスラバヤの政治的混乱には、植民地支配の構造によって形成されながら、それに抗う都市のモダニティの胎動が認められる。

社会主義の都市政治

オランダ領東インドでの社会主義アクターの市政参加に反映されていたのは、植民地支配の制約を前にした政治戦略の意図的な再構築だ。東インド社会民主主義同盟(ISDV: the Indische Sociaal-Democratische Vereeniging)の初期メンバーは、扇動や革命論に終始せず、gemeenteraadを都市モダニティを議論する重要な機関領域と認識していた。例えば、Semarang(スマラン)市議会議員のWesterveld(ヴェステルフェルト)などの人物は、資本家階級の主導権や、投機的土地所有権に異を唱える都市ガバナンス構想を明確に打ち出した。また、ヴェステルフェルトは、西欧社会民主主義の伝統に基づき、利益ではなく、再配分を目的とした、自治体による住宅用地買収を提唱し、植民地主義を背景とした公営住宅の概念の土台を築いた。

一方、スラバヤ市では、この構想がより大きな制度の力によって具体化された。まず、1906年の市議会設立後、L.D.J. Reeser(L.D.J.リーザー)とMr. van Ravensteyn(ファン・ラーフェンステイン)は、西欧人の商業エリート以外にも政治参加の領域を拡げようとした。Verkiezingscomitéの議長と事務局長を務めていた2人は、(象徴的にせよ、)女性を関与させる取り組みに着手し、先住民や、華人・アラブ系住民にも民間議論への参加を呼びかけた。結局、初期の選挙戦では、保守派の実業家に敗れて失敗したが、都市の代表を多層化する試みは、後に、より具体的な成果をもたらした、その後の同盟の前触れとなった。

The sailors’ demonstration in Surabaya, demanding improvements to military hospital facilities, marked the first public action by the ISDV in the city and signaled the emergence of socialist political activity in the colonial urban space. The photo captures the moment as the protesters marched toward the city center before being stopped by the police.
Source: Preanger Bode, May 17, 1916.

さらに、ISDVが1914年にHenk Sneevliet(ヘンク・スネーフリート)主導の下で行った「現実的政治(“practical politics)」の導入は一つの転換点となった。同党は、抽象的イデオロギーの純粋主義を退け、植民地国家機構そのものの内部から権力闘争を試みた。スラバヤでは、この変化が、ナショナリスト組織のInsulinde(インスリンデとの同盟に結実した。彼らの共同綱領、Sociale Gemeentepolitiekでは、2つの政策課題が推進された。一つは、教育を受けた先住民市民への参政権拡大で、もう一つは、戦略的に重要な都市部の土地(gemeentegrond)に対する公的管理の確立だ。これらの要求は、植民地の代議制度に関する人種理論を崩壊させただけでなく、不均等に発展した都市経済内での資源再分配の問題を浮き彫りにした。

1914年の市議会選挙で、この同盟が自由党とキリスト教倫理党(Christian-ethical party)という既存政党を破って勝利したのは、象徴的で重大な出来事だ。こうして、スラバヤは、インド諸島で唯一、公認された社会主義派閥を市政に擁する都市となった。成功した数は限られているが、この派閥は、都市の権利に関する新たなディスコースの制度化に成功し、選挙権や住宅供給、土地などの権利を社会正義のより大きな計画と結びつけた。

この記事では、この意味で、gemeenteraadが単なる植民地官僚機構ではなく、市民権とガバナンスに関する社会主義思想の実践化のための議論を交える場として機能していた事を示す。だが、この実験の弱点は明らかだった。現に、スマラン市での同様の試みは、先住民の有権者の人口構造的な制約によって失敗した。とはいえ、スラバヤ市の事例は、左派政治が植民地機構の活動に参入し、これを再構築する力を明確に示した。ここから、政治のモダニティが帝国に逆らって出現したのではなく、その隙間から出現した様子がうかがえる。

左派と危機

1916年から1919年にかけ、スラバヤは、植民地統治の制限内での左派の市政介入の実験場となって台頭した。第一次世界大戦による物価上昇や、供給網の分断、深刻な住宅不足などの混乱に直面し、C. Hartogh(C.ハルトフ)率いる市議会の社会主義派閥は、ISDV–インスリンデ同盟に支えられ、gemeenteraadを進歩的な実験場として再構築した。この際には、住宅供給改革と市場規制という2つの急務が、彼らの議題の原動力となった。ハルトフが創設の陣頭指揮を執ったWoningbedrijfGrondbedrijfという市営機関は、手頃な価格の住宅建設と、土地投機の規制を担っていた。その後、Jos M. Suijs(ヨスM.スイス:キリスト教倫理党) とD. Williams(D.ウィリアムズ: インスリンデ)がWoningvereenigingを結成し、党派を超えた連携が取られた。これは、イデオロギーの純粋性より、社会的需要に基づく実利的な連立政治のきっかけとなった。

だが、この実験は、植民地主義の人種的な階級社会に取り囲まれていた。例えば、ジャワ銀行(Java Bank)のローンと地方債を資金源として公式に実施された住宅供給計画では、低所得層の印欧人が不釣り合いなまでに優遇されていた。一方、先住民の労働者は、スラバヤ市の都市部で大多数を占めていたにもかかわらず、組織的に排除され続け、人種的な市民秩序内での再配分改革の限界が明確となった。

さらに、戦時下の危機も、都市アクティビズムのもう一つの側面である食糧安全保障を浮き彫りにした。1918年初頭、ハルトフは必需品の価格に上限を設ける動議を提出した。これに対し、政府はパブリックキッチンや、コメの補助金で対応したが、公式調査で発覚した華人商人組織による価格操作から、人種ごとに区分された都市経済の脆弱性が明らかになった。この時から、左派政治は、西欧人以外の有権者にも拡大して行った。まず、1919年には、ハルトフがRosenquist(ローゼンクイスト)(Sarekat Hindia/サレカット・ヒンディア)と、Soekiran(ソーキラン)(Sarekat Islam/サレカット・イスラム)と連携し、コメ配給の監視を要求した。その後、間もなく、サレカット・イスラムのMuso(ムソ)率いる大規模集会が開かれ、ここに、不安定ながらも重大な、民族間の政治的融合の開始が告げられた。

これは、西欧人の社会主義者アクターと、先住民の大衆組織が連携した貴重な出来事となった。だが、植民地の選挙政治における人種的構造は即座にその影響力を回復した。実際、ISDVがインスリンデとの同盟を解消し、サレカット・イスラムとの融和を模索した後、ハルトフは、支持が拡大していたにもかかわらず、1918年選挙に僅差で敗れた。また、スラバヤの人口の大多数を占める先住民の有権者には、78票しか割り当てられていなかった。こうして、選挙権は、その多くが社会主義のアジェンダを警戒し続けていた西欧人と印欧人の手中に集中したままとなった。

確かに、左派の市政における実験の構想と手法は大胆だったが、それは、相変わらず、政治的正当性と都市の帰属の境界を規定する植民地体制に取り囲まれていた。それでも、この実験によって、植民地政治の主流の解釈に対するカウンター・ナラティブが示された。すなわち、スラバヤは、暴動ではなく、議会の動議や、市民同盟、ゆるやかな市政改革の取り組みを通じ、より公平な未来を構想するための議論を交わす舞台となった。

結論

インドネシアのナショナリスト運動の一般的な解釈には、エリートのナラティブを優遇し、都市政治の輪郭形成における政治的左派の初期の介入を過小評価する傾向がある。通常、改革主義や、弾圧の文脈で思い浮かべられる初期の社会主義や共産主義のアクターは、実際には、植民地都市の日常生活の一部となっていた。特に、スラバヤのような地域では、左派の活動家が市政機関に参入し、住宅不足や、土地規制、食料の入手手段など、都市の不平等な生活実態に基づく計画を明確に打ち出した。これらは、単なるテクノクラート的な懸念ではなく、人種別に階層化された植民地主義的な秩序内で都会の市民権を主張するという、より大きな政治計画の指針でもあった。

こうして、スラバヤは、イデオロギーが実際的な取り組みを通じて実装化される重要な拠点となって台頭した。つまり、市議会は、周縁的空間などではなく、社会主義アクターが排他的な都市ガバナンスの議論を戦わせ、スラバヤを共有された政治的帰属の領域として再考する試みの舞台となった。彼らの取り組みは、植民地近代(colonial modernity)の断層線を浮き彫りにし、再分配的で包括的な政治の先駆けとなった。この一連の出来事が主流の歴史文献から、ほぼ欠落したままであるのは、非エリートの政治構想が過小評価され続けている証拠だ。スラバヤの左派を再考すれば、民主主義の理想や包括的政策が、いかに街頭や地域、一般人の日常的状況というレベルから着手できるかが、否応なく分かるだろう。また、今日のインドネシアの都市課題に鑑みても、初期の左派政治の功績は、警告と示唆の両方を与えてくれる。つまり、スラバヤ市は、単なる資本と支配の空間ではなく、正義と有権者の権利、共有された帰属の空間であり続ける必要がある。

Andi Achdian
Andi Achdian is a historian and curator whose work explores the intersections of urban history, anti-colonial politics, and public memory in Southeast Asia. His research focuses on the social and political transformation of colonial cities, with particular attention to Surabaya in the early twentieth century. He chairs the Sociology Program at the Faculty of Social and Political Sciences, Universitas Nasional, Jakarta. He is the author of Race, Class, and Nation: The History of the Anti-Colonial Movement in Surabaya (Marjin Kiri, 2021). In addition to academic works, he has curated several historical and human rights exhibitions, including the Munir Human Rights Museum (2013) and the Comarca Balide Museum in Timor-Leste (2024).

[1] The narrative presented here is based on the author’s recent book. See Andi Achdian (2023). Ras, Kelas Bangsa: politik pergerakan antikolonial di Surabaya abad ke-20 [Race, Class, and Nation: The History of the Anti-Colonial Movement in Surabaya]. Jakarta, Marjin Kiri.

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