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絡み合う騒乱:1月15日(マラリ)事件の再考

Kartini Monument, Tulung Agung, East Java, Indonesia. Photo: Mang Kelin, Shutterstock

1899年5月、オランダ植民地となったジャワで、カルティニ(Kartini /1879-1904)は、彼女の暮らしていた世界を飲み込む猛烈な変化の嵐について、次のような文章を書いた。

「私を助け、庇護するこの時代の精神は、その雷鳴のごとき足音を誇り高く、力強く轟かせた。彼が近づくと、古びた機関は揺さぶられ、強固なバリケードで塞がれた扉が勢いよく開かれた。中には、自ずと開いたような扉もあれば、より多くの困難と共に開かれた扉もあった。だが、それらは確かに開かれ、招かれざる客を迎え入れた。そして、彼のいた場所には痕跡が残った」。(“Letter to Stella Zeehandelaar”; Kartini, 1912)

これを書いた当時、若干20歳のカルティニは、自分を助け、庇護する精神として、この激動の変化を全面的に受け入れた。植民地支配による圧政や、封建主義の共犯者から、自分と自国の男女を解放するには、この変化の破壊的影響が必要だったのだ。1848年の『共産党宣言(the Manifesto of the Communist Party)』発表から、わずか51年後にカルティニが行った激動の変化の擬人化は、同書の冒頭の一文に倣ったものだ。

「ヨーロッパには一つの亡霊が取り憑いている。それは共産主義の亡霊だ。この亡霊を祓うため、古いヨーロッパのあらゆる権力が神聖な同盟を結んでいる…」(Marx and Engels, 1847)

独立後、カルティニは、死後に国家の“ibuism”(イブイズム)の象徴となり(Suryakusuma, 1996)、スハルト政権下の新秩序の開始と共に、軍事化された独裁主義の家父長制の礎を強化した。こうして、彼女の若くはつらつとした姿は、物静かな国家(staid)の母という従順な偶像に置き換えられた。ところが、事実はこれと裏腹で、カルティニは結婚に反発し、最終的にこれに応じざるを得なくなり、一人っ子を出産した4日後に25歳で亡くなっている。だが、騒乱について考察する上で、より重要なのは、カルティニの「真の」庇護者とされた植民地官僚が、彼女の思想や文章から強い進歩主義の姿勢を削除した点だ。そして、最終的に、このカルティニの口封じを再び行うことになったのが、新秩序体制の国家だった。

Portrait of Raden Adjeng Kartini. Wikipedia Commons

Pramoedya Ananta Toer(プラムディヤ・アナンタ・トゥール)の1962年のPanggil Aku Kartini Saja(“Just Call Me Kartini” /『私をカルティニとだけ呼びなさい』)は、カルティニの左派寄りの進歩主義を浮き彫りにした貴重な作品の一つだ。しかし、彼は13年間恣意的に投獄され、彼の書庫や未完原稿は破却された。さらに、1966年暫定国民協議会(the Provisional People’s General Assembly)令(TAP MPRS XXV/1966)によって「マルクス、レーニン主義」のイデオロギーの宣伝という烙印を押された全ての出版物を禁止され、彼の著書は全面的に発売を禁止された。つまり、進歩主義の初期の表現に関する全ての記憶が暴力的に抑圧されたのだが、この状況は今も大して変わっていない。

オランダ領東インド時代、この種の不穏な動きは植民地主義の収奪的戦略にとって直接的な脅威と見なされた。原因としては、国家の管理下に置かれた栽培制度の廃止や、1879年の新たな自由主義政策の出現、そして、民営化に向かう動きがあった。こうして、国家は民間資本が求める「平和と秩序(rust en orde)」を確保し、取り締まる組織となった。つまり、カルティニの口封じを理解すれば、新秩序、さらには、レフォルマシ後の現在のインドネシアを強化する民営化と「安全保障の取り組み(security approach /pendekatan keamanan)」にあたる警察国家の台頭の協働が見えてくる。こうして、騒乱という亡霊は、資本主義によって吸収され、植民地時代の自由主義秩序と、現在の新自由主義秩序を永続させるという歪んだ役割を果たすために、常に呼び出されてきた。

A car on fire in Jakarta during the 15 January 1974 “Malari” riots. Wikimedia Commons

騒乱を作り出す:考察点としての「マラリ(Malari)」

Malapetaka Lima Belas Januari、通称、マラリは「1月15日の大惨事」を意味する。新秩序体制の暴力的な出現から8年足らずの1973年から1974年に生じたこの事件は、今なお、現代インドネシア史上、不可解極まりない出来事の一つだ。

まず、この事件は、欠落点や、閉鎖された部分が多く、単純明快な筋書きを拒むため、説明には、より批判的な態度で臨む必要がある。マスコミや国家、後には、司法当局自体が大々的に拡散した単純な筋書きは、これが日本の田中角栄首相の公式訪問を見込んだ事件だったというものだ。これによると、インドネシアの大学生が国内での日本の投資計画に抗議し、田中首相の訪問を拒否して引き起こした大騒動が大学の外にも広がった。そして、意図的に扇動された都市部のプロレタリアート集団が暴動を起こし、目に付く全ての日本製品(国内で組み立てられたトヨタ製自動車も含む)を破壊し、ジャカルタ市内の新複合施設、Senen(スネン)市場(pasar Senen)を焼き払った。この時、学生指導者が拘束され、尋問を受けたが、特に、インドネシア大学生徒会会長のHariman Siregar(ハリマン・シレガー)や、若手経済学者のSjahrir S.E(シャフリルS.E)など、多くの人が国家転覆罪で告発された。当初、これらの学生活動家は、既に解党されたインドネシア社会党、PSI(Partai Sosialis Indonesia)の左翼に協力した罪で告発された。なお、このPSI左翼は、新秩序体制の転覆を狙って学生デモを背後で操っていたとされる。こうして、軍と警察の掃討によって逮捕された「社会主義」の知識人、Sarbini Sumawinata(サルビニ・スマウィナタ)とSoebadio Sastrosatomo(スバディオ・サストロサトモ)の2人は、適正な手続きを踏まずに2年以上投獄された(Thee Kian Wie, 2007)。他にも、Adnan Buyung Nasution(アドナン・ブユン・ナスティオン)や、Haji Princen(ハジ・プリンセン)など、数多くの知識人や人権派弁護士が捕らえられた。

尋問の諸相に関する記述は、数回に及ぶ集中尋問での個人的な経験に基づくが、裏付けのため、他の人々の経験と比較すると共に、ハリマン・シレガーや、シャフリルS.E.の裁判も参考にした。また、ジャカルタの軍事警察(POM: Military Police)本部での予備尋問では、左派とPSIの共謀の証拠を示す答えを導くために考案されたような質問が多く、想定上の秘密の共産主義ネットワークとの関連の摘発を試みる質問もあった。このような尋問を恐れ、逮捕されていなかった活動家は地下に潜伏した。

はたして、後に検察庁(the office of the State Prosecutor /Kejaksaan)が行った尋問では、裁判の証拠と重要参考人を出す事を目的とした第二段階の尋問に誘導する話術のひな型が登場した。なお、これは一般に採用され、普及し、現在も多くのジャーナリズムのひな型にされている。

Crowds on the streets during the 15 January 1974 “Malari” riots. Wikimedia Commons

象が闘えば、豆鹿が踏みつけられる

さて、検察の尋問では、有望な証人や利害関係者に長い質問票が配られ、記入が求められた。これに関する著者個人の経験では、拘束は免れたものの、検察は様々な形で圧力をかけ、これらの質問への特定の答えを強要しようとした。例えば、隔離室に何時間も閉じ込められたり、Gerwani(ゲルワニ: PKIと連携したインドネシア女性運動、そのメンバーの多くは恣意的に逮捕され、レイプや拷問の被害に遭い、何年も拘束された)と同じ牢屋に入れると脅されたりした。だが、それでも期待通りの答えが出なければ、検察は、尋問によって証拠を提出する必要があるという筋書きを解説する図式を見せた。

そして、この図式には、大抵の東南アジア人にとって馴染みの深い説話が使われていた。それは、二頭の象が闘っている間、小さな豆鹿(pelanduk)が一番苦しい目に遭うという話だ。ここで、二頭の象が象徴するのは、国軍内の異なる派閥だ。片方は、国家治安司令部司令官(head of State Security Command/Pangkopkamtib)のSumitro Sastrodihardjo(スミトロ・サストロディハルジョ)将軍の派閥で、もう一方は、スハルト直属の忠臣である陸軍大将の一団、ASPRI(個人補佐官)から成る派閥だ。このASPRIは、Ali Murtopo(アリ・ムルトポ)将軍を筆頭とする特殊な諜報機関で、スミトロのKopkamtib(コプカムティブ)支配下の諜報機関の脅威となった。また、豆鹿が象徴するのは、自らが起こしたわけでもない闘いに巻き込まれた被害者としての学生や知識人だ。

The diminutive Mousedeer. Photo by You Le on Unsplash

明らかに、この演出の筋書きは、PSIから逸れ、異なる軍事派閥に関する筋書きに切り替えられた。この筋書きの変更は、軍部と諜報機関をより完全に掌握しようと、スハルトが行った操作だったのか?ともあれ、ASPRIは、透明性の欠如や、様々な公的資金・民間資金を蓄積する力があったため、学生の批判の的となっていた。そこで、表向きは、この批判を受け、1974年1月後半にスハルトがASPRIを解散した。これにより、一部の学生裁判は続いたものの、学生活動家と知識人のほとんどは、二度と裁判にかけられる事がなかった。とは言え、これらの裁判では、ASPRIの意図的な挑発行為が議題となった。ASPRIは、暴動とスネンのショッピングセンター焼き討ちに暴徒を動員しておきながら、この行為をハリマン・シレガーと大学生たちのせいにした。ところが、この暴動発生時に、学生たちは、ショッピングセンターから何マイルも離れた所にいたのだ。

この種の軍事秘密工作を巧みに揶揄した名作が、Nano Riantiarno(ナノ・リアンティアルノ)による1995年のドラマ、Semar Gugatだ。しかし、これもまた、軍が破壊的な暴動を通じて騒乱を作り出すひな型を形成した。特に、学生と労働者がスハルトの退陣を求めた大規模行動を頓挫させる目的で行われた1988年の暴動などがその例だ。(シャフリルの裁判では、一人の裁判官の妻が、裁判への大統領府の干渉を示す直接的証拠を著者に開示した。彼女の話では、裁判官たちは、毎朝、裁判所に出頭する前にスハルトの邸宅、“Cendana”に招集され、スハルトから概要説明を受けていたという。)

だが、まだ一つの疑問が残る。なぜ、PSIは1970年代の騒乱のナラティブを削除したのだろう?ここで、特に、植民地時代のプランテーション保有に焦点を当て、Sumitro Djojohadikusumo(スミトロ・ジョヨハディクスモ)の周辺関係を調べる必要がある。この人物は、インドネシア大学経済学部長で、スカルノの外資国有化計画を廃止した新自由主義の新秩序経済政策を立案したテクノクラート集団の創設者でもある。

PSIの重要人物、スミトロ・ジョヨハディスクモは、スカルノからの離反を目指すPRRI(インドネシア共和国革命政府)運動に巻き込まれ、海外に亡命した。やがて、スカルノが失墜すると、1967年に帰国し、新秩序経済政策の陰の実力者となった(Nasution, 1992; Subiyantoro, 2006)。さて、国内の最高権力で、PKIを排除した暫定国民協議会(the Provisional General Assembly)が最初に公布した法律は、海外からの投資に関する1967年法律第1号(Act No. 1, 1967)だ。この法律によって、PKIが支持していたスカルノの国家経済政策が廃止され、インドネシアは海外からの直接投資に開放された。まず、この門戸開放に最初に便乗した国の一つが日本だが、この国は、インドネシアの天然資源と人的資源の大規模な資本主義的搾取の代理人だった。さらに、この機を待ち構えていたのが、西パプア州の銅と金の鉱脈の採掘権を最初に獲得した外国企業の一つ、フリーポート・マクモラン(Freeport McMoran)社だ(Poulgrain, 1998)。

Grasberg mine open pit. the largest gold mine and the third largest copper mine in the world. It is located in the province of Papua in Indonesia. Wikimedia Commons

カルティニにインスピレーションを与えた嵐の精神を吸収し、変形させた新自由主義政策は、軍事強化と共に、この国で統治と呼ばれるものの基本形となり、今なお存在し続けている。その証拠が、スミトロ・ジョヨハディスクモの息子、プラボウォ・スビアント(Prabowo Subianto)(元)将軍の就任であり、大規模投資計画の拡大とセキュリタイゼーションであり、2025年3月20日に議会を通過した国軍に関する2004年法律の改正がもたらした国軍の政府に対する直接的・間接的介入の復活だ。最後の例に関しては、軍の二重機能回復に抗議する学生や知識人の姿が特徴的だ(Tempo.co. 2025)。

歴史学者にとって、Walter Benjamin(ヴァルター・ベンヤミン)の(1969年)figure of the angel of history (Angelus Novus)は、破局と進歩の矛盾した関係性を検討するトロープとなった。後ろ向きの天使が変化という強風に押されて進み、その通った跡に残された破壊のみを見ているとういイメージは、戦争の危機に瀕したモダニティの恐怖と希望の両方を示唆する。そして、このイメージにおける嵐、あるいは、騒乱は、手に負えない袋小路へと続いているように見える。

確かに、この天使は明らかに無力だが、それでも、ベンヤミンは、彼が「意図的想起(purposive remembering)」と呼ぶ、忘却に向かわせる力に抗う行為に希望を見ている。いわば、この小論文は、カルティニの完全な言葉を取り戻し、変化をもたらす騒乱の力を受け入れる行為の中で、希望と向き合う意図的想起の行為なのだ。

Sylvia Tiwon
Sylvia Tiwon is Chair and Associate Professor of Southeast Asian Studies, University of California, Berkeley. She obtained her Ph.D. in South and Southeast Asian Studies from the University of California, Berkeley. Before earning her doctoral degree, she graduated in English from Stanford University and the University of Indonesia. Her interests lie in the interplay of social, political, and literary dynamics, focusing on orality, literacy, and gender studies. Her major publications include Breaking the Spell: Colonialism and Literary Renaissance (1999) and Trajectories of Memory: Excavating the Past in Indonesia, co-edited with Melani Budianta (2023). Her current project focuses on race, literary aesthetics, and abducted subjectivities in Indonesia.

References

Benjamin, Walter. 1969.  Illuminations.  New York: Schocken Books.
Kartini, R.A. 1912. Door Duisternis Tot Licht.  ‘S Gravenhave: Luctor et Emergo. 
Nasution, Adnan Buyung, 1992.  The Aspiration for Constitutional Government in Indonesia.  Jakarta: Pustaka Sinar Harapan.
Poulgrain, Greg. 1998.  The Genesis of Konfrontasi.  London: C. Hurst.
Riantiarno, N.  1995.  Semar Gugat.  Yogyakarta: Yayasan Bentang Budaya. 
Subiyantoro, Bambang, ed. 2006.  Negara Adalah Kita. Jakarta: Prakarsa Rakyat.
Suryakusuma, Julia. 1996.  “State and Sexuality in New Order Indonesia.”  in Laurie Sears, ed. Fantasizing the Feminine.  Durham: Duke University Press.
Tempo.co. 2025, https://www.tempo.co/cekfakta/keliru-klaim-bahwa-revisi-uu-tni-tidak-mengembalikan-dwifungsi-abri-1225197
Thee Kian Wie, 2007.  “In Memoriam Professor Sarbini Sumawinata, 1918-2007.”  Economics and Finance in Indonesia, Vol 55 (1).
Toer, Pramoedya Ananta. 1997.  Panggil Aku Kartini Saja.  Jakarta: Hasta Mitra.

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