近年、ビルマ(ミャンマー)の外交政策と、その世界におけるポジションが世間の高い関心を集めている。長年、ミャンマーの外交政策は、正当性を主張し、争い、否定し、あるいは授ける手段となってきた。特にこれが当てはまるのは、1962年と1988年のクーデター後の状況だ。当時、並立した政権が軍事政権に対し、自らの正当性を主張したが、軍政によって退陣させられるか、国民から寄せられた信任を無効にされるかのどちらかとなった。だとしても、外交政策に変化が生じた複雑な10年間(2010年~2020年)で、ミャンマーと国際社会の関係の正常化には、ある程度の成果が上がった。だが、2021年2月1日に軍事クーデターが起きた今となっては、先行きの見通しが立たない。ただ、軍部の容赦ないデモ弾圧の後に生じた反クーデター運動の反響から、外交政策の重要性が明らかになった。しかも、外交政策は、軍政にとっても、クーデターや軍事支配に反対する民主派勢力にとっても等しく重要だ。
この記事では、国家行政評議会(the State Administration Council: SAC)による軍政と、国民統一政府(the National Unity Government: NUG)が幅広く代表するミャンマーの様々な反軍政勢力が、外交政策を用い、国民の認める正当性や(あるいは)、政治的な正当性を主張する動向を論じる。そのために、まずは正当性をめぐる過去の外交政策の類似した動向を分析し、次に、ポスト2020年選挙のシナリオにおける文民政権の新たな選択肢について分析する。そして最後に、2021年2月のミャンマー軍事クーデター後の不確定要素を分析し、締めくくりとしたい。
外交政策の過去と現在
独立、積極、中立を旨とした外交政策は、ミャンマーがこれまで国際社会との交流に用いてきた一つの常套手段で、この政策は一貫して変わらなかった。また、1962年以降の歴代軍事(独裁)政権下では、外交政策の駆け引きをする機会も限られていた。これらの理由から、ミャンマーの多くの国民は、自国とその他の世界の国々との関わり方について、おおむね(よく言えば)中立的で、(悪く言えば)無関心なままとなった。
最初に軍事支配を敷いた1962年のクーデターを、外国勢力は、冷戦時代の地政学的懸念から生じたものと考えた。そこで、彼らは当時、軍政からの外交政策の申し出を割り切って受け入れた。だが、これと対照的に、1988年から2011年に権力を握った国家平和発展評議会(the State Peace and Development Council: SPDC)はパーリア国家となり孤立した。このため、SPDCは外交政策やパブリック・ディプロマシーに取り組み、正当性を獲得しようと努めたが、これは失敗に終わった。 1 そこでSPDC政権は、対外経済関係を拡大させ、欧米諸国によって課された制裁に対抗しようと、アジア全域、特に東南アジア諸国連合(ASEAN)の域内で、二国間関係の強化を目指した。
ところで、2008年にSPCDが軍部の起草した憲法の施行を見届けた時期は、平和的なデモの容赦ない弾圧から、わずか6カ月後、あるいは、壊滅的な被害をもたらしたサイクロン・ナルギスが、国内の米作デルタ地帯を襲った直後にあたる。当時、災害および人道支援の調整には、ASEANが中心的役割を担っていたため、軍の将校たちは、国際人道支援団体の活動の余地を設ける事を承諾した。また、これはミャンマー政府の高官にとって、改革に向けた能力を高める新たな手法を学ぶ機会ともなった。
同様に、軍政の「改革」に向けた取り組みに対し、国際社会からのさらなる譲歩を引き出す努力の一環として、軍部は当時の野党党首、アウンサン・スー・チー女史(以後、スー・チー氏)の断続的な自宅軟禁を解除した。これは2010年11月に、10年余年ぶりの投票が行われた数日後の出来事だった。さらに、軍の影響下にある準文民政権、連邦団結発展党(the Union Solidarity and Development Party: USDP)が選挙に当選し、広範囲にわたる政治・経済改革のプロセスが開始され、国内外を驚かせた。この出来事は、比較的自由で公正な2015年選挙の礎となり、その選挙では、スー・チー氏率いる国民民主連盟(National League for Democracy: NLD)が圧勝し、同氏を代表とする与党が、ミャンマーで半世紀以上ぶりとなる民選政府を樹立した。
以降、スー・チー氏は、過去に利益をもたらした国際社会への復帰政策を進めていった。2016年9月には、同氏がこの政策をさらに色付けし、民間人を中心とした外交の焦点を強調し、労働移住など、人間の安全保障の問題を提起して、さらなる人的交流を推進した。この民間人を中心としたアプローチの主な動機は、在外ミャンマー国民を巻き込み、彼らの協力を得る事にあった。つまり、NLD支持者が大半を占める海外在住のミャンマー市民からの支持を確認した上で、ミャンマーの国際的な「イメージと尊厳」を回復しようとしたのだ。
この展開は、ミャンマーが自国の殻を破り、思うままに世界と関わりを持つ用意が整っていた事を示していた。だが、この好調な出だしは長続きせず、2016年と2017年のアラカン・ロヒンギャ救世軍(the Arakan Rohingya Salvation Army: ARSA)の攻撃を受け、ロヒンギャ族の共同体に対し、過剰な軍事行動がとられるようになった。このため、ミャンマーは国際社会の厳しい監視下に置かれ、2019年末には、とうとう国際司法裁判所で「(自国の)国益を守る」立場に追いやられる事態となった。
その後、国際社会はスー・チー氏の決断を非難したが、そのような非難は時として、以下の事実を見落としていた。それは、2016年11月以降、NLDが意図的に「ラカイン州の治安情勢」をASEANに報告し、ASEANを関与させる道を選び、ASEANが調えた支援を受け入れていたという事実だ。つまり、NLDはこれによって、バングラデッシュの難民キャンプからロヒンギャ族を本国に帰還させるプロセスを促進しようとしていたのだ。しかも、この件に関しては、先の軍政やUSPD政権でさえ、ASEANとの協議を拒んでいた。このロヒンギャ問題は、2020年選挙で大きく取り上げられなかったものの、NLDが軍部の行為の責任を負ったという認識が世間に広まったのは、NLDにとって有利だったようだ。
2020年選挙の外交政策
2020年11月の選挙でNLDが二度目の圧勝を収めると、スー・チー氏が再び、自身の外交議題に色付けするかどうかとの憶測が即座に飛び交った。ロヒンギャ問題をめぐって、ミャンマーが国際社会の注目の的となる中で、NLDの外交政策は(ASEANとのつながりは保ちつつ)、二国間主義を優先し、投資や貿易の継続に向けて「アジアのハブ」となる事をより重視するものとなった。
またNLDは、国連や世界銀行、国際通貨基金との「緊密で強力な関係」に関心を寄せるなど、積極的で独立した外交政策に懸命に取り組み続けていた。だが、NLDの2020年の選挙公約は、他国との連携や、地域の問題および計画に関する協力には言及していなかった。
とはいえ、経済外交は、21世紀におけるミャンマーの外交政策の重要な特色として、冷戦期のビルマのコメ外交や、国家平和発展評議会(SPDC)による搾取的な天然資源採取協定を凌ぐものとなるように思えた。また、今回のコロナ禍も、2020年以降のNLDの外交政策に新たな局面をもたらした。例えば、ミャンマーでは、段階的なワクチン接種の早期実施が2021年1月に始まり、WHOによる世界規模のコロナワクチン接種会場にも政府が関与している。これらはいずれも、二期目を迎えたNDLが外交政策を推進する上で好ましい出来事だった。
また、NLDの2020年以降の外交政策に関する憶測は、中国との関係にも及んだ。これについて専門家は、NLDがミャンマーと中国の関係を、より建設的で不均衡の少ない方向に進めて行く事を期待していると表明した。何しろ、中国貿易や中国からの投資は、ミャンマー経済の見通しにとって重大な意味があったし、中国はミャンマーの和平プロセスの仲介役も自任していた。そのため、両国関係は、ミャンマーとその他の東アジア諸国(およびASEAN)のパートナーとの相互関係にも大きな意味を持っていたのだ。
ところが、2021年2月1日の違法なクーデターによって軍部が権力を掌握し、この全ては無意味となってしまった。
2月1日のクーデター後の影響 ―大混乱と論争
この記事を書いている現段階で、ミャンマーは大混乱に陥りつつある。クーデター以来、国家行政評議会(SAC)は、自分たちがビジネス・フレンドリーだと主張しているが、国内の改革や移行、あるいは発展や変化の望みは明らかに潰えてしまった様子だ。しかも、ミャンマーの政治的、経済的、社会的危機が国内にもたらした人道主義存続の危機は、外部世界からは計り知れない規模のものだ。その上、世界的なパンデミックで国内各地に広まった社会的・経済的な懸念を考慮すると、今回の危機に対処する事はさらに難しくなる。
また、SACの軍政は、海外で任務に当たる自らの外交官を通じ、今回のクーデターを地域と世界の両レベルで正当化しようとしている。実際、国連大使とイギリス大使を除く、ミャンマーの在外公館の全ての代表者がSAC代表として任務に留まっている。だが、2月以降、主に死者数や拘束者数、そして日々の攻撃や嫌がらせの件数が次第に増加している事から、軍政の行為は、ほぼ全世界の非難を浴びている。このような状況では、たとえ目的がミャンマーでの人命救助だとしても、経済活動の拡大や再開を目指す軍事政権と何らかの協定を結ぶ事に、国際社会は倫理的な困難を感じるだろう。
ここで外交政策上、最も差し迫った問題の一つが、いずれの政権が国際社会に対する正当なミャンマー代表なのかという事だ。ちなみに、この問題の発端となったのは、クーデターに公然と抵抗したミャンマー国連大使の熱弁だ。同大使は軍政によって解任されものの、この記事の執筆時点では、引き続き、国連から大使として認められている。
だが、この状況がよく見えていないのが、2月初旬に公選議員を代表する暫定組織として結成された連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CRPH)だ。さらに、国内各地の様々な集団や少数民族の意見、要望をまとめ、調整するため、CRPHは、4月中旬に代替政権として国民統一政府(NUG)を樹立した。このNUGは軍政を無視し、自分たちがミャンマー国内の様々な団体や武装勢力、そして国際社会の主な対話相手となるべき事を主張した。だが、各国政府と関わりを持つにしろ、対等な対話相手として承認されるにしろ、NUGの選べる選択肢には限りがある。
4月24日にインドネシアで開催された、ミャンマーに関するASEAN特別首脳会議の日程が近づくにつれ、この正当性と承認をめぐる問題は一気に深刻化した。しかも、この会議にはSAC議長でもあるミン・アウン・フライン(Min Aung Hlaing)国軍司令官が出席した。このため、ASEANのSACとの接触は、憲法に反する今回のクーデターや、丸腰の市民に対する致死的な武力行使を正当化するに等しいという印象を国内に与えた。だが、NUGは、自身の外相からASEAN事務総長への書簡を通じ、NUGの見解をASEANに伝える事に成功し、これはASEAN各国の外相にも伝えられた。
つまり、NUGがASEANとの建設的な対話の必要性を把握していたとしても、SACの軍政がASEANの領域を独占しているのだ。現に、軍政は、ASEANを自らの正当性を主張する格好の場と見なしており、ASEANの様々な定例会議にはSAC代表が(実際に)出席している。
従って、ASEANには、ミャンマーの二大ステークホルダーの誠意を見極め、彼らとの関わり方を決める必要がある。2021年4月のSACの「ASEAN首脳会談に関する記者声明」は、次のように述べている。いわく、軍政は状況が安定すれば、ASEAN首脳による建設的な提案について考慮するつもりだが、現在は法と秩序の維持、および平和と安寧の回復が優先される、との事だ。 2
また、NUGの首相も「五つの合意」に対する声明を発表し、SACには「事実をゆがめて伝える」傾向があると警告した。さらに、同声明は、提案されたASEAN特使の任務や使命について、NUGとの協議を求めると共に、人道支援が今回の危機の根本原因を解決することはないと念押しした。その後、間もなく、NUGまでもが、軍部との対話の可能性を拒否する様子を示したため、この時点では、軍政にも抵抗勢力にも、段階的な緊張緩和について話し合う気が無いらしい事が分かった。
おわりに
ミャンマー国民の窮状は絶望的で、ミャンマーの危機に対する国際社会の対応力に寄せられていた一切の期待も薄れつつある。NUGはミャンマーへの強力な介入を要求しているが、これは世界の地政学と、コロナ禍による国内の緊急事態によって差し止められているようだ。さらには、外交が無力で停滞しているため、抵抗勢力はゲリラ戦法に出る事態となった。事実、NUGは手始めに国民防衛隊(People’s Defence Force: PDF)を組織し、将来的には連邦連合軍(Federal Union Army)を設立しようとしている。だが、この動きが外交政策に影響を及ぼす事は避けられないだろう。すでに、現地のPDF支部が起こす事件数の劇的な増加は暴力の増大を示し、ミャンマーの現状が広義において内戦と呼ぶに相応しい状況である事も分かる。一方、ミャンマー軍と少数民族武装勢力の衝突も、国内各地(特にカチン州とカイン州)で激化しており、違法な武器取引などの国際犯罪が増加する可能性もある。さらに、少数民族の民兵組織やPDF、未来の連邦連合軍に対して行われる密かな支援も、すでに不安定な状況の中で代理戦争が生じる懸念をかき立てている。より喫緊の問題は、国内避難民や、ミャンマーとタイ、インドの国境沿いの紛争を逃れて保護を求める難民の数だ。つまり、この大勢の難民の存在によって、COVID-19の封じ込めがなし崩しとなり、その他の人道上の問題がもたらされる危険もあるという事だ。
悲しい事に、最も賢い外交政策の駆け引きを何者がしようとも、最近の出来事の壊滅的な影響に対処する事は不可能だと、ミャンマー国民は考えているのだ。
Moe Thuzar
Fellow and Co-coordinator
Myanmar Studies Programme, ISEAS – Yusuf Ishak Institute, Singapore