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ミャンマーの民主化運動

Street protest, Myanmar 2021. Photo Pyae Sone Htun, Unsplash

ミャンマー(当時はビルマといった)には、1948年の独立から1962年のクーデターまでの短期間、民主主義の時代があった。以来、50年近くにわたり、国軍(現地ではタトマドー: Tatmadawという)は、ほぼ絶対的な権力を手にした。だが、2010年には予想外に政治的・経済的自由化が始まり、これが10年間、軍事政権と後続する文民政権との間に権力分担の時代をもたらした。まず2011年から2015年までは、軍政寄りの連邦団結発展党(Union Solidarity and Development Party: USDP)が、次に国民民主連盟(the National League for Democracy /NLD)が政権を取った。この民主改革のペースは、よく言っても控えめだったが、この比較的開放的な10年間は、政治規範を大幅に改革し、より良い未来への期待を国民、特に若年層の間で高めた。

ところが、この改革は、2021年2月1日に突如として終わりを迎える。2020年11月選挙でNLDが圧勝してから3カ月も経たない内に、国軍がクーデターを起こし、国家行政評議会(the State Administration Council: SAC)を介した軍事支配を完全に復活させたのだ。これに続く数週間には、広い範囲で民主化運動が展開されたが、国軍はこれを暴力的な弾圧によって迎えた。このため、ついに民主化運動の要望は、クーデター前の原状回復から、国軍のミャンマー政界からの完全な追放に変わってしまった。

この記事では、ミャンマーの民主化運動について簡単な分析を行う上で、この運動を三つの中心的な要素から成るものと捉える。つまり、この三大要素とは、大規模デモ、市民不服従運動(the Civil Disobedience Movement: CDM)、そして連邦議会代表委員会(the Committee Representing the Pyidaungsu Hluttaw: CPRH)および国民統一政府(National Unity Government: NUG)だ。また、少数民族の特殊な役割についても検討しよう。なお、今回の運動を以前の運動と全く異なるものとしながら、以前の対立と変わらない点は、軍部の圧倒的優位が民主化運動の力を削ぎ、決め手となる成果を出せなくしている事だ。このため、対立が長引き、多大な損害をもたらして、最終的には無残な膠着状態に陥る結果となる可能性が最も高い。

Police crack down to anti-coup protesters in Yangon, Myanmar on 08 March 2021. Photo: Maung Nyan / Shutterstock.com

歴史的背景

民主化を要求する様々な形の圧力をものともせず、国軍は、2011年までの半世紀に国家をほぼ完全に支配した。この軍政の息の長さには、いくつかの要因がある。そもそも、国軍は、その存在の初めから現在まで、絶えず進行中の紛争に関与してきた世界で唯一の近代的軍隊だ。しかも国軍は、ミャンマーの建国に中心的な役割を担った事から、自らを国家の体現者と見なし、敵対者を反逆者と見なすようになった。また、教育から医療までの様々な分野にはパラレルな機構が幅広く存在し、これが軍事関係者と一般市民の交流を制限している。つまり、これらの事情が、国内の脅威と見なされる民主化運動や少数民族などに対し、国軍に過激な手段を取らせているのだ。

その後、2010年には政権移行が開始されたが、国軍の影響力はしっかりと護られ続けていた。2008年憲法は国軍の自律性を保証し、国軍に国会の4分の1の議席を割り当て、内務省や国防省、国境省などの主要閣僚の支配権も付与した。しかも、国軍は事実上、臨時的な権力分担の取り決めを確立させたものの、これには意図的に曖昧な条件が付けられていた。

そうだとしても、USDP とNLDの両政権の下では、実に大きな変化が生じた。まず、インターネットのアクセスが爆発的に増大し、何百万もの人々が、より広い世界とその思想に自由にアクセスできるようになった。さらに、活気ある市民社会が出現し、民主主義や社会的包摂、連邦主義など、以前は禁じられていた話題が公共の場で議論されるようになった。また、国家公務員の大部分が国軍と無関係の民間人によって占められるようになり、国家の諸領域に対する国軍の支配力が弱められた。これらの変化は、国軍と国民の間の力関係を根本から変え、今回の民主化運動と以前の運動を重要な点で異なるものとした。

大規模デモ

おそらく、民主化運動の構成要素として、大規模な街頭デモは最も顕著な要素だろう。これらのデモは、全国の市町村から何十万という人々を集め、おしなべて突発的に、指導者も無しに行われてきた。このようなデモの主な担い手は、ジェネレーションZの若者や、政治・社会活動家、CSOsやNGOの指導者、それにアーティスト団体の出身者だ。

最初のデモは、ヤンゴンとマンダレーで発生したが、これはクーデターからわずか数日後の出来事だった。これらのデモが人目に付き、当初は治安部隊が自制する様子を見せた事もあり、続く数週間には、従来よりも大規模なデモが引き起こされた。しかも、スマートフォンの普及によって、連携が容易となり、海外の民主化運動との象徴的な影響力のある連携も可能となった。この例には、ミャンマーと香港、台湾、タイの若い抗議者たちを結び付けた、2月28日のミルクティー同盟のストライキ(the Milk Tea Alliance Strike)がある。

だが、国軍の当初の自制は長続きせず、2月下旬には最初の死者を伴う弾圧が発生した。そして、以降の弾圧では、恣意的逮捕や発砲など、次第に残忍な手段が用いられるようになっていった。この記事を書いている2021年5月の段階で、800人以上の抗議者や見物人が殺害され、さらに何千もの人々が投獄、虐待されている。その上、インターネットやメディアの遮断により、情報へのアクセスも著しく制限されている。

Demonstrators blocked a road during an anti-coup protest in Yangon, Myanmar on 07 March 2021. Photo: Maung Nyan / Shutterstock.com

ところが、この暴力的な弾圧に対し、抗議者は非常に創造的な代替戦術を編み出した。すでにクーデターの初期には、国軍の経営する企業や、それらの供給する商品の不買運動が、ソーシャル・メディアを通じて呼びかけられていた。しかも、これらの運動は大成功で、例えば、軍が経営するミャンマービールなど、一時はどこでも売られていたのが、事実上、売れなくなり、商品棚から姿を消した。また、社会的刑罰のキャンペーンも、ソーシャル・メディアを通じて手配され、著名な軍人の家族が社会から葬り去られた。さらには、オフラインで行われ、より小規模で、機動性が高く、事前予告もない「フラッシュモブ形式のデモ」が、以前の動きの鈍い大規模集会に取って代わった。

やがて、最前線の抗議者は、自己防衛のために防御用の武器を拵えるようになり、ゆるやかに組織された「民兵組織(people’s militias)」となっていった。これらの組織の規模は、20名から500名までと様々だが、中には少数民族武装勢力(EAOs)から資金援助や軍事訓練を受けるものもあった。この民兵組織の主な目的が防衛である事に変わりはないが、5月初旬には、警察署や政府官庁に対し、簡易爆発装置(improvised explosive devices: IEDs)を用いた、隙を狙っての攻撃も発生するようになった。その後、5月下旬に国民統一政府(NUG)が連邦軍(Federal Union Army)の先駆けとして、国民防衛隊(People’s Defense Force: PDF)の設立を発表したのを機に、対立は激化していった。その理由は、全国で国軍に立ち向かうEAOsに協力するよう、PDFに指示が出たからだ。実際のところ、国軍への攻撃は分散的なものに止まったが、その後、特に少数民族の州では、攻撃の件数や連携のレベルが高まって行った。

市民不服従運動

市民不服従運動(The Civil Disobedience Movement: CDM)は大規模デモと同時に発生した。この運動の中心となったのは、主に公務員で、医師や看護師、教師、交通運輸に携わる労働者や、様々なセクターの官僚など含まれていた。CDMは、主に職務放棄という形で、自発的に抵抗の意思表示をする運動として始まった。それに、2011年以降、公務員全体が徐々に軍事関係者から民間人に入れ替わったため、今回のCDMは、これまでからは想像もつかない規模となった。

結果、この運動の最盛期には、CDMがミャンマーの国家と経済の多くのセクターを機能不全に陥れた。例えば、病院機能はマヒし、銀行は閉鎖され、商品は運ばれず港に留め置かれ、交通網は停止状態となった。しかも、このような事態は、明らかに国軍の主張と真向から食い違っていた。何しろ国軍は、自分たちが権力を握れば国は安定し、「日常生活」の速やかな回復も確実だと言っていたのだ。従って、この機能不全の象徴的な影響力には計り知れないものがある。さらに、CDMは国軍による統治をより一層困難とし、国家の最も重要な収益源の一部にも大きな損害を与えた。

だが、これまでも、そして今でも、CDMには統一性が欠けている。当初は、この点が有利に作用し、国軍の対応の選択肢を狭めていたが、CDMが活動を上手くまとめられないせいで、運動の勢いが削がれている。しかも、対立が長引くにつれ、職場に復帰してしまった公務員の数も増えている。ただし、この動きは、彼らの信念が弱まったせいというよりも、むしろ現実的な懸念に関係がある。というのも、公務員には、治安部隊によって迫害されたり、国家から支給された住宅を失うリスクがあるからだ。折しも、2020年のパンデミック不況を受け、貯金がすでに底を突いた今、公務員は所得を失う事態にも直面している。

連邦議会代表委員会(CRPH)と国民統一政府(NUG)

CRPHは、追放された(主にNLD所属の)国会議員グループによって2021年2月5日に設立され、国家行政評議会(SAC)に対抗するパラレルな文民政権という役割を担う存在だ。2021年4月に新たな連邦民主憲章(Federal Democracy Charter)が公布されると、CRPHは、権力分担時代の政治を支えていた2008年憲法の廃止を発表した。

多くの抗議団体は、市民に対するCRPHの正当な権力を認めているが、当のCRPHは指導力を存分に発揮できず、悪戦苦闘している。その原因の一つには、CRPHが場当たり的に結成されたため、活動をまとめる仕組みが欠けたままになっている事がある。さらに、CRPHはこれまで、特に少数民族の間で幅広い支持を固めようと必死で努力してきた。だが、例えば、一部の条項(特に州議会や連邦軍に関する条項)に賛否両論が残る連邦憲章に関し、CRPHは、少数民族政党やEAOsの賛同をほとんど得られていない。

4月19日の国民統一政府(NUG)の設立は、SACに対する抵抗を広め、これをさらに正当化するための試みだった。確かに、NUGはCRPHを中心に形成されていたが、同政権には少数民族の反対運動の指導者や代表者も含まれている。そのため、前政権に比べて民族的な多様性の幅が広く、構成も以前ほどNLD中心ではない。だが、NUGの試みが成功する見込みは、彼らが承認を得られるかどうかにかかっている。NUGは国際的に重要な課題を抱えている上、少数民族の長年の不信感を払拭するという重大な困難にも直面している。しかも、この少数民族の不信感は中央当局だけでなく、NLDそのものにも向けられているのだ。

Website of the National Unity Government of the Republic of the Union of Myanmar.

少数民族

さて、少数民族政党の民主化運動に対する反応には、かなりのバラつきがある。中には、主にモン統一党(the Mon Unity Party)や、カヤー州民主党(the Kayah State Democratic Party)など、SACを評価し、これに協力する政党もある。その一方で、シャン諸民族民主連盟(the Kayah State Democratic Party)など、その他の政党は、CRPHに少数民族の代表がいない事を猛烈に批判しながら、民主化運動の点では密かにこれを支持している。だが、その他の多くの集団は、CRPHと根強い緊張関係にあるにもかかわらず、民主化運動にインパクトのある革新的貢献を行ってきた。その最も顕著な例が、ゼネスト民族委員会(the General Strike Committee of Nationalities: GSC-N)の名を掲げる集団だ。

さらには、ミャンマーに数多くあるEAOsの姿勢にも、これと似たようなバラつきがある。中には、例えばチン国民戦線(the Chin National Front)や、ラフー民主連合(the Lahu Democratic Union)のように、公然とNUGに加勢し、国軍と対峙するEAOsもある。これに対し、その他の主要なアクターは、CRPHやNUGを完全には信用していないものの、民主化運動には参加している。この例として、カチン独立軍(the Kachin Independence Army)や、カレン民族同盟(the Karen National Union)などがある。彼らは抗議者に訓練を施す一方で、(NUGの一員として、ではなく)各自の名の下で国軍との戦闘を続けて(あるいは激化させて)いる。また、手ごわいワ州連合軍(United Wa State Army)など、その他の集団は、SACと接触し、民主化運動に関して、もっぱら沈黙を守る事で積極的な関与を避ける意図を示している。

従って、これらの多様なアクターの支持を固めるには、NUGからの巧みな駆け引きが要求される。この記事を書いている現段階では、今後の展開はハッキリとしない。だが、NUGはこれまでに国民の支持をかなり集め、特に少数民族の地域では、SACに代わる唯一の目ぼしい存在とされている。明らかに、NUGは過去の政権よりも、ミャンマーの多様性を受け入れる努力をしてきた。だが、NLDが多数派を占めるCRPHが、今なお事態の展開を取り仕切っているため、一部のEAOsやCSOsには平等性の欠如を嘆くものもある。

Teachers protest against the military coup in February 2021, Hpa-An, Kayin State, Myanmar. Wikipedia Commons

今後の行方

これまで、ミャンマー国民は、民主化運動の様々な側面を通じて、クーデター反対に驚くほどの信念を示してきた。これに対し、国民の支持を甚だ過信していた国軍は守勢に立たされている。だとしても、民主化運動はほぼ間違いなく、当初の力を維持できないだろう。暴力的な弾圧や逮捕は、大規模デモの数を減らしただけでなく、民主化運動が前述の三大要素の間で連携する力を著しく損ねてしまった。しかも、CRPHやNUGは、正式な機構から排除され、長年にわたる中央対地方の緊張関係に直面している。当然、彼らは国軍との対立状況の打開に必要となる決定的な指導力を発揮しようと懸命に努力している。

だが、民主化運動はまだ決して終わったわけではない。むしろ、民主派の人々は、民主主義に対する希望を未来につなぐためなら、膨大な犠牲も厭わない姿勢を見せている。しかも、彼らの仲間が新たに死亡したり、行方不明になるたびに、国軍に対する反感が募り、クーデター前の権力分担体制に戻る事は考えられなくなる。その一方で、国軍も民主化運動の精神をくじく事ができないという、非常に困難な独自の課題に直面している。だが、国軍は、交渉を通じた和解によって、自分たちが政治の中心であり続ける見通しが益々立たなくなっている事も理解している。つまり、いつの間にか現状を打開する有効な選択肢も無くなり、国軍は、次第に国家崩壊の瀬戸際へと向かう国家を統治する羽目になったのだ。悲劇的な結論だが、暴力的な膠着状態が長引き、その死傷者もひどい数に上る、そのような結果となる可能性が最も高いだろう。

Kai Ostwald
Associate Professor, School of Public Policy and Global Affairs
University of British Columbia

Kyaw Yin Hlaing
Director, Center for Diversity and National Harmony (CDNH)
Myanmar

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