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独裁政治から連合型大統領制へ :インドネシア大統領職のポスト権威主義的変容

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ポスト・スハルトのインドネシアに関する多くの議論は、1998年の権威主義が終わってからの20年間に実際、どれ程の変化があったのかという疑問に焦点が置かれている。ある者達は単にスハルトの下で育った有力エリートが、インドネシアの新たな民主主義機構を乗っ取ったまでだと示唆し(Hadiz 2010)、また別の者達はインドネシアの制度的、政治的な複雑さが増加したと指摘する(Tomsa 2017)。この論争の核心は、様々な形で大統領の役割がどう変化したかという議論に反映されている。幅広い意見の一致が見られるのは、1998年以降の大統領がスハルトとは随分異なるという点だが、意見の一致はここで尽きる。では具体的に、スハルト体制崩壊以来、インドネシアの大統領はどのように統治してきたのか、そしてこの事から、開始後20年経ったインドネシア民主主義の質について何が言えるのだろうか?

本論での著者の主張は、スハルト独裁体制が過去20年間のうちに連合型大統領制に変化したというものであり、このシステムでは広範で内部が複雑な連合の中で国家元首が国の主要な社会的・政治的アクターのバランスをとっている。連合型大統領制に関する既存文献とは異なり、著者は議会の政党のみがこの連合の一部ではないと示唆する。むしろ、インドネシアの大統領連合には官僚や軍部、警察、イスラム教団体、オリガークや地方自治体などの有力なアクターが含まれている。とりわけ2002年の改憲以降に政権に就いたインドネシアの大統領は、これらの諸勢力をポスト権威主義とは言え、不完全な民主主義の既存の枠組内に何とか収め、注意深くアクター同士のバランスを取りつつ、忠義には報い、異を唱える者には罰を与えてきた。著者はこの事がこれらの連合をスハルト政権下にまん延していた、ある種の頭でっかちで専制的に強いられた政権連合と異なるものにしているばかりか、スレーター(Slater)の大統領カルテル(presidential cartels)の概念(2018)や、トムサ(Tomsa)(2017)の大統領が外部の「戦略グループ」集会に敏感だとする指摘とも対照的なものにしていると提起する。

Merdeka Palace, the official residence of the president of Indonesia

連合型大統領制とスハルトの世襲的「連合」

政治学の議論では、連合型大統領制の概念は複数政党の状況下で営まれる大統領制の安定性を説明するために発達してきた。複数政党での大統領制は本来不安定だとする従来の前提に反し、チャイスティ、チーズマン、パワー(Chaisty, Cheeseman and Power/2014)は大統領が連合型大統領制のある手法を用いる事で、卓越した政権の安定が達成される事を見い出した。具体的に言えば、大統領はこれについて5つの主な手法を用いる。すなわち、内閣の権限、予算上の権限、自党に対する党派的権力(partisan power)、立法権、それに好意の応酬である。この概念において大統領の庇護を受ける主な者達は、議会に議席を持った政党である。

大統領の連合主義は複数政党制民主主義のために想定されたものであるが、ヘゲモニー政党制(hegemonic party systems)の独裁政治においても、大統領が統治を効果的に行うためにはしばしば、連合を構築、維持する必要があると指摘しておかねばならない。スハルトの場合、彼が統轄していた連合には軍部や官僚(彼らの与党ゴルカル党内の議員はそれぞれ「トラックA」「トラックB」と分類されていた)、テクノクラート、その他のゴルカル党の文官(トラックG)、そして後にはイスラム教団体も含まれていた。明らかにスハルト連合と民主主義的な大統領同盟には根本的な違いがあった。例えば、スハルトのヘゲモニー政党政権内における支配的立場には疑念の余地が無く、彼の圧倒的で威圧的な力は政権連合のメンバーを効果的に怯えさせ、屈服させていた。

スハルト「連合」はまた、彼の国家基金や資源へのアクセスが個人的でとめどないものであった点でも異なっていた。彼は世襲的ピラミッドの頂点に座し、自身の政権連合のメンバーに贈り物を配る事で、彼らが確実に自分に直接の借りがあるように感じさせようとした。スハルトはこのシステムを30年近くも長らえさせたが、政権連合はこれを可能にしていた状況が消滅するや否や瓦解した。1997年の金融危機はスハルトの利益誘導機構を枯渇させ、高まる懸念が彼の威圧力を上回り、また彼の年齢と健康状態のすぐれぬ事が、誰もが認めるインドネシアの指導者という彼の評判を傷つけた。1998年の5月、スハルトは去った。

移行期の大統領制:ハビビ、ワヒド、メガワティ

スハルト政権崩壊から2004年までの間、インドネシアの大統領制は移行期にあった。スハルトの強制的世襲連合は過去のものであったが、彼の後継者はこれに代わる有効な民主主義的連合を見い出そうと苦戦した。この理由の一つに憲法改正のプロセスに時間がかかった事がある。これは1998年から2002年まで協議され、完全に機能し得るようになったのは、ようやく2004年になってからの事であった。これはB.J.ハビビ(B.J. Habibie /1998-99)、アブドゥルラフマン・ワヒド(Abdurrahman Wahid /1999-2001)、メガワティ・スカルノプトリ(Megawati Sukarnoputri /2001-2004)が、非常におぼつかない雰囲気の中で統治していた事を意味する。また彼らは皆、自身の統治を安定させるために連合の構築が必要である事を理解していたが、彼らはこれを非常に異なった状況の下で行った。

例えば、ハビビが大統領の座に躍り出た唯一の理由は、彼がスハルトの副大統領であったという事だ。彼には主要勢力からの長期的な政治的支援が欠けていたし、彼が権力にしがみついていられたのは当初、彼が自分を暫定的大統領と定義していたために他ならない。この理解があったからこそ、軍部や政党、イスラム教団体や官僚たちはハビビとの限定的な暫定連合を結び、彼が急速な民主化計画を断行できるようにしていたのだ。しかし、彼が1999年に大統領に再立候補する意向を表明すると、この暫定連合は解体され、ハビビは権力の座から引きずり降ろされた。

ハビビに代わったのがワヒドで、彼は国民協議会(the People’s Consultative Assembly)によって間接的に選出された。彼は新たな民主主義的状況がより現代的な連合構築の形を必要としていた事に一定の理解を示した最初の大統領で、また少なくともある程度は連合型大統領制の手法に取り掛かった。彼は自身を選出させるため、広範な政党(および軍事)連合を形成し、このために報酬やパワーシェアリングの約束も活用した。しかし、ワヒドにとっての大統領連合の必要性は協力体制の構築までで、その維持には及ばなかった。一度選出されると、ワヒドは自分の仲間に背を向け、最終的には彼らによって2001年7月に弾劾された。インドネシアの大統領型政治におけるワヒド解任のレガシーは、言い尽くせぬ程に重要だ。これが彼の後継者に確信させたのは、弾劾の脅威を回避したければ、政権にある間は絶えず幅広い連合を育む必要があるという事だ。

Megawati Sukarnoputri, Indonesia’s first female president “built a multi-party alliance and maintained the line-up of her cabinet throughout her term.”

メガワティはワヒドの弾劾を受けてその後任に着き、これらの教訓から何がしかを学んだ事を示して見せた。彼女は連合型大統領制の概念を大いに是認し、複数政党の連合を構築して自らの内閣の顔ぶれをその任期中、終始維持した。だが、二つの問題がメガワティの連合型大統領制の要件の完全な理解と実行を妨げていた。まず一つには、当時副大統領であったメガワティにワヒドの後任となるよう説得する上で、大部分の政党や政治的指導者が彼女の任期終了までは異議を申し立てないと誓っていた事がある。つまり、これが弾劾の脅威を未然に計画的に防ぐという、細心の注意を要する仕事からメガワティを解放した。

さらに彼女は自身の内閣のメンバーである事が、彼女の任期が終わった後までも彼女に対する個人的な忠義を義務付けると確信していた。彼女の閣僚であったユドヨノが2004年に彼女に対抗する形で出馬を決めた際、彼女はこれを個人的な攻撃と捉えたのだ。この出来事は彼女の長期的な権利意識を示すものであったが、彼女が連合型大統領制に絶え間ないバランス調整と管理が必要な事を完全に理解していなかった事も浮き彫りにした。

連合型大統領制の拡大:ユドヨノとジョコウィ

2004年という年は大統領権限行使のあり方も含め、インドネシア政治の重要な転換点であった。2002年に成立した多くの憲法改正案が年内に施行されたが、それには大統領直接選挙を左右する法令も含まれていた。これに付随する新たな規定は大統領弾劾のハードルを、ワヒド政権下よりもかなり高くに設定していた。議会にもさらなる権限が付与されたが、この改正の全体的な結果は大統領権限の純益となった。

だが、幾分直感に反するものの、この認識は2004年以降の大統領の捉え方とは異なっている。事実、ユドヨノとジョコウィの両者は連合型大統領制の全面的な実施を始めるにあたり、各党に報酬や地位を差し出し、自らを(その時には随分と低くなっていた)弾劾の脅威から守るだけに終始しなかった。彼らはさらに連合型大統領制の範囲を広げ、様々な(トムサの表現を用いると)「戦略グループ(“strategic groups”)」をも自分たちの同盟に必要不可欠なメンバーとして位置付けたのだ。別の言い方をすれば、軍部や警察、イスラム教団体、オリガーク、地方自治体などのアクターは、もはやスハルト政権下での単なる政権の手先でもなければ、ポスト・スハルト暫定政権下での有力利益団体でもなくなったという事だ。むしろ、彼らは政党と同等の地位を獲得し、現職大統領の連立相手となったのだ。

ユドヨノは、この連合型大統領制の広範な定義を公然と概念化した。インタビューでも著作でも、彼は自分の大統領権限の限界について大きな不満を表明した。インドネシアに大統領制度がある事を否定して、彼はこの国の政治形態を半大統領制と半議会制の中間辺りに位置付けた(Aspinall, Mietzner and Tomsa 2015)。彼は度々、ワヒド弾劾の記憶を引き合いに出し、インドネシアの大統領は広範囲な連合を構築する事で統治を確保する必要があると示唆した。無秩序(kegaduhan)を回避するには、政党だけではなく、あらゆる主要勢力に便宜を図る事が必要となる。

実際、ユドヨノはこれらの諸勢力を自身の連合に組み入れるため、彼らの核となる利益を政治的支援と引き換えに保護していた。例えば、彼はさらなる軍制改革にブレーキをかけていた(これとはかなり対照的に、ハビビ、ワヒド、メガワティの統治下では軍部の非政治化に向けた主要策が講じられていた)。彼はまた官僚たちが新たな官僚改革法案が通過すれば「改革」を実行すると脅した後、この法案の通過を阻止した。彼はイスラム教の諸宗派を異端と位置付ける事に対するイスラム教団体の圧力に屈したし、さらにはオリガークの政治制度への影響力を増大させるため、既に弱っていたこの国の公的金融制度を解体したのである。

On 20 October 2014, Joko Widodo became the seventh and current president of Indonesia.

ジョコウィは2014年の選挙運動でそのような妥協的連合の廃止を掲げて立候補したものの、結局はこれを繰り返し、さらに確立させて行った。議会内の少数派連合に始まり、彼は自身の在任期間の最初の二年以内に元野党の各党を自身の側に引き込む事で圧倒的多数を形成した。彼はまた軍部のために政治空間を拡大させ、キリスト教徒で華人のジャカルタ知事に反対する2016年のイスラム主義者の動員後には、保守派のインドネシアウラマー評議会(Indonesian Ulama Council /MUI)を自身の大統領連合に組み入れた。彼はまたこの国最大のオリガークの支持を求めたし、彼らの勢力に挑む事はしなかった。

だが、ユドヨノ政権下であれ、ジョコウィ政権下であれ、これらの連合がカルテルでもなく、拒否権連合(associations of veto powers)でもない事を強調しておく事は極めて重要だ。むしろ、これらは競合する利益を包括した傘下団体で、その利益の管理、バランス調整、緩和が大統領によって行われていると理解するのが最適である。この組織の中ではいずれの集団も、それ自身の単体ではツェベリス(Tsebelis/2002)が、「現状を変更するためにはその同意が必要な」アクターと定義した拒否権プレーヤー(veto player)ではない。インドネシアの連合型大統領制の中で、国家元首はしばしば、その連立相手が相争うように仕向け、時には一個のアクターを他のアクターよりも優先させたり、あるアクターを連合から外して部外者を入れると脅してみたり、連合内の多数派を組織して少数派に対抗させたりする事もある。

この例としては、ジョコウィが自身の物議をかもした2015年の警察長官指名取り消しをめぐり、警察と拮抗させるために軍部の助力を求めた事や、2016年に自党でメガワティのPDIP(闘争民主党)が彼に対する支援を打ち切ると脅した後、ゴルカル党に接近した事、そして2018年にはまた別の党(PKB/民族覚醒党)が2019年の選挙でジョコウィの副大統領候補として名の挙がった同党議長に対する支持を条件付きにするとしてジョコウィをゆすろうと試みた後、伝統主義的イスラム主義政党のPPP(開発統一党)に歩み寄った事などがある。

ではなぜ、ユドヨノとジョコウィは2004年以降、憲法上の権力が強化されたにも関わらず、そのように広範に定義された連合型大統領制に取り組んだのか、そしてこの事からインドネシア民主主義の状態について何が分かるのか?ユドヨノは頻繁にワヒドの弾劾を挙げ、これを幅広い連合を構築して回避しようとした運命だとした。ジョコウィの補佐官たちも同様に、新たに選出された大統領が就任からほんの数日で、メガワティたちから内閣の任命をめぐる圧力を受けて感じた衝撃を回想している。つまり、いずれの場合も潜在的脅威に対する不安が、実際の現実的な弾劾のシナリオよりも、彼らを妥協的連合の構築へと駆り立てたという事だ。

また、この事がインドネシア民主主義をその他の多くのアジアの民主主義よりも安定させてきた一方、これがまたインドネシア民主主義を停滞させ、後退しがちなものにしている。これ程までに多くのアクターが大統領のテーブルに席を与えられた事で、各部門や集団の利益は過度なまでの影響力を獲得してきた。この事の皮肉は、有力集団が盛んに大統領に憲法によって権限を与えられた政策決定者というより、行政府のモデレーターとしての縮小された役割を受け入れるよう強要してきた事ではなく、インドネシアの2004年以降の大統領が、現在まで、憲法の定める自身の正当な権限を、彼らが実際に直面した脅威ではなく、むしろ直面し得ると思い込んでいる脅威を回避するために放棄してしまった事にある。

マーカス・ミツナー(Marcus Mietzner
キャンベラ、オーストラリア国立大学コーラル・ベルアジア太平洋問題学科、
政治・社会改革学部

文献目録

Hadiz, Vedi. 2010. Localising Power in Post-Authoritarian Indonesia: A Southeast Asia Perspective. Stanford: Stanford University Press.
Tomsa, Dirk. 2017.”Regime Resilience and Presidential Politics in Indonesia”, Contemporary Politics,” Contemporary Politics, published online ( December 2017.
Chaisty, Paul, Nic Cheeseman and and Timothy Power. 2014. “Rethinking the ‘Presidentialism’ Debate: Conceptualizing Coalitional Politics in Cross-Regional Perspective,” Democratization 21 (1): 72-94.
Tsebelis, George. 2002. Veto Players: How Political Institutions Work. Princeton: Princeton University Press.

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