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地方政治におけるインドネシア華人:評論文

 序文 

1998年5月の悲劇的な事件以来、様々な変化が生じた。それには(2006年に第12号として公布の)市民権法の最新の改正もあり、これはインドネシア華人達に自分達の文化的アイデンティティを示すための社会的、政治的な場を提供した。それにも関わらず一部の華人達は、事態が新秩序時代さながらの危険を孕むものであると見ている。中国の新年を祝う竜舞を禁じた市長命令127の発布前後である2008年初頭、ポンティアナックのマレー人達によって示された反中感情は、華人達の立場がいかに不安定であるかを示すものであるとされている。これに先立つ2004年10月12日、新たに選出されたジュスフ・カッラ副大統領の発言(シナール・ハラパン 2004年10月12日)にも、華人ビジネスマン達を中小企業及び大企業において異なる待遇で差別しようとする意図があり、華人達がいまだに平等な市民として扱われていない事を示すのであった。 

明らかに、華人差別廃止に関する政府の諸政策のほとんどがレトリックである。たとえプリ(先住民) 及び、ノン‐プリ(移民)という言葉が、もはや公式な政府方針や事業で用いられるべきではないとする指令が、ハビビにより現に法制化(1998年大統領令第26号)されたとてもそれは同じである。同様に、アブドゥルラフマン・ワヒドが大統領職にあった2000年の大統領令第6号の発布により、中国の慣習や伝統の実践を個人的領域に制限する1967年の大統領決定第14号が無効となり、多くの中国人や現地インドネシア人達はこれを華僑差別の終わりであると見た。しかしこれらの政治的気配や法的改正が、華僑と現地インドネシア人達の間に長年培われてきた対立に与えた影響は、ごくわずかなもの過ぎない。
ポンティアナック事件が正しく解釈されるなら、華人達は未だに差別を受け、深く恨まれている。 

事件が起こったのは、ポンティアナックのある華人がダヤック人と共に西カリマンタンで知事、副知事の座を勝ち取った直後であった。ポンティアナックのマレー人達には、華人の地元政治関与への切望と要求は、明らかに受け入れられないものであった。 

ジェマ・パーディ(2005:23)は、少数派華僑をめぐる状況の変わらぬ現実を、現地インドネシア人達の間にわだかまる華人の忠誠心に対する疑念と、彼らの認識を歪め続けている華人の経済的役割や、国家経済における支配力のレベルに関する神話のためであるとした。彼女は、我々が「反中暴力やその他多くの暴力を単に国家主導のものとする分析を再考するべきである」と論じる。なぜならば、彼女の研究した1998年5月以降の諸事件により、「大衆が暴力や反中感情と嫌悪の一連の記憶を持つに至る限度」が示されたためである。彼女は「華僑の経済的圧力、その周辺的地位への追い込みや不正との関係が、インドネシア人の心に深く刻み込まれている」と確信する。彼女の意見では、このために華人達の立場は「未だに深刻で一定の用心を必然とする」ものなのである。 

ジェマ・パーディの見解は、「華人に向けられた人種的暴力には、明らかに経済的要因が作用している」1と結論付ける、その他の反中暴力に関する諸研究と大いに一致するものである。例えば、コロンビィンとリンドブラッドは次のように述べている。「1912年のサレカット・イスラームの設立以来、インドネシア華人達は、独断的なムスリム達が自分達のビジネス上の優位を華人に妨げられたと感じる度に、繰り返される大量虐殺の対象となったのであった。」 

ゆえに、彼らにしてみれば、「暴動は、インドネシアでは偶然にも華人の顔をした資本家階級への抗議を表すもの」なのであった。この見解を支持したのはキース・ヴァン・ダイクである。 彼は「近代的な生産方式が人々を不公平な競争や、労働市場で他集団に太刀打ちできないという危惧にさらし、戦争(第一次世界大戦)初期の日々の食品の値上がりは、華人業者や小売商達のせいにされた」と論じた。それでも、彼の認めるように、数年後までは反中感情が暴力的噴出に至る事はなかった。 1946年にインドネシア革命を受けて起こった暴動は、極めて狂暴であった。これは、華人が現地人の経済的競合者として恨まれたに止まらず、オランダの協力者としても憎まれたためであった。当時、いわゆる「経済的国家主義」も、おそらくその一因となりつつあった。このため1960年代には、よそ者である華僑が地方で小売業に携わる事を禁じる1959年の大統領規則第10号を受け、更には1960年半ばに中国政府がその関与を疑われ、非難された「共産党関連の」失敗に終わった政変を受け、華人に対する攻撃は非常に大規模で全国的なものとなった。この事は、より政治的でイデオロギー的変動が、暴動をその最高点に導く力となった事を示す。つまり察するとおり、反中感情はインドネシア人の歴史に大変深く内在しており、それゆえに1998年の5月に、最後で最も残虐的な暴動が、ついに華人達の運命を変えるまでは、スハルトの権威主義的政権の30年間に反中暴動が「予期せぬ雷鳴」のごとく断続的に起ころうとも驚くには値しないのであった。
たとえ、新秩序政府がある程度暴力の度合いをコントロールできたにせよ、暴力を永久に根絶する事は明らかに不可能であった。これはおそらく、そのような要望がなかったためであろう。

このような状況下、1998年5月の暴動以来設立されたインドネシア華人組織の、政治活動を避けんとする態度には、おそらく大いに根拠がある事だろう。
例えば、PSMTI(Paguyuban Sosial Marga Tionghoa Indonesia-印華百家姓協会)は1998年8月28日に組織された。これは元陸軍准将(プーン)・テディ・ユスフ(ション・ディ)の指導のもと、5月の暴動後に設立された初のインドネシア華人非政党組織であったが、これは自身の立場を「非政治的」と位置付ける傾向にある。 

「たとえPSMTIがインドネシアの法制度の範囲内で活動を行う事が許されていようと も、PMSTIは実質的な政治活動への参加せぬよう自制している。さらに、PSMTIは 政党に関連した政党や社会組織に属さない。」(2005年4月1日にアクセスした http://www.psmti.net/psmti_掲載の原文訳)

これと同様に、INTI(Perhimpunan Indonesia Keturunan Tionghoa-インドネシア華人協会)は、スルヤディナタによると1999年4月10日、エディ・レンボン(ワン・ヨウシャン)の指導のもとに設立された。9彼らはその組織的任務に関する声明で「政治的」という言葉を避けているようである。 

「Perhimpunan INTIとして知られるインドネシア華人協会は社会的組織であり、その特徴はその愛国心、自由、独立、非営利と平等性である。
その設立の目的は、過 去の遺物である「インドネシアの中華問題」の解決にある。 INTIは全ての華人民が 一体となり、徹底的に総力を挙げて取り組む事が「中華問 題」解決の絶対条件であると確信する。」 

この主なメンバーは中国系インドネシア人民であるが、INTIは排他的組織ではなく、その基本的原則や組織規則、またINTIの目標に賛同する全てのインドネシア人民に開放されているものである。 

INTIがこのような「非政府的」、もしくは「曖昧な」政治的立場11を持つ理由は、2007年5月16日にインドネシア華人協会(INTI)前会長のエディ・レンボンが、ジャカルタ・ポスト紙に次のように語った時、明らかとなった。 

「インドネシア華人は政治学を学ばなくてはならない。しかるべく知識に基づいた政 治家となるためである。
しかし、私は民族を基盤とした政党の設立には賛成しない。ほとんどの華人達は、 未だ政治をタブー視している。政治に関わる事はおろか、彼らはそれについて語る 事すら恐れているのである」。(Patung, 2007) 

多くの華人は疑いなくこの懸念、もしくはタブーを、自分達のトラウマ的な経験である1965年の事件と関連付ける。この事件は1965年以前の彼らの政党候補に対するネガティブな反動であると見なされていた。しかし、だからと言って「政治的に」組織を作ろうとするインドネシア華人が皆無であったというわけではない。実際、特に若年世代の華人達の一部は、政治的組織を作る事に熱心であった。 
そのうちの一人は、リウス・スンカリスマ、またの名はリー・シュエションであり、彼は老練な仏教活動家であり(当時は)39歳であった。彼はまた、KNPI‐インドネシア全国青年委員会の財務担当者としても知られていた。彼は他の4名の華人の若者たち(ポニジャン・リャウ、チェチェップ・アディサプトラ、アレクサンダー・フェリー・ウィジャヤ 、そしてジュリアヌス・ジュタ)と共にParti (Partai Reformasi Tionghoa Indonesia-インドネシア華人改革党)を1998年6月5日にジャカルタで設立した。(スルヤディナタ 2001:510) 

この他には、伐木作業の資格を持つ実業家で、Bakom-PKB(国民統合総括連絡協会)の会員であるジュスフ・ハムカ、もしくはア・ブンがおり、彼はParpindo (Partai Pembauran Indonesia-インドネシア同化党)を設立した。タン・スイ・リンはクリスチャンで著述家、ジャーナリストであり、Partai Warga Bangsa Indonesia(インドネシア民族国家党)を築いた。 
ヌルディン・プルノモ、もしくはウー・ネンビンはジャカルタの旅行代理店のオーナーであり、客家協会の会長、PBI(Partai Bhinneka Tunggal Ika Indonesia –インドネシア多様性の中の統一党)の議長でもあった(同書)。しかし、Parpindo、Partai Warga Bangsa Indonesiaは多くの支持を集めることができなかった。 
従ってこの二党については後にあまり述べる事がない。一方、PartiとPBIは、インドネシア華人有権者の大多数に強大な支配力を持つわけではないが、今日に至るまで存続している。Partiは1999年選挙の検証プロセスで挫折、一方のPBIは西カリマンタン出身の華人代議士、L.T.スサントが議席を一つ勝ち取っただけであった。しかしPBIでは後に、内部分裂が生じた。フラン・ツァイとL.T.スサントにより「新」PBIが設立された事がこれを煽ったのであった。最近ではDPRD(地方代表院)の成員になったり、ピルカダ (地方首長選挙)で、インドネシアのいくつかの地域にある政府機関の首座に立候補しようとする華人達が益々増加している。 

残念ながら、DPRやDPRDにおける華人の正確な数を報告する統計的数字は存在しない。DPRD12内の華人議員については、述べるべき事が少ない。おそらく例外は、新たに設立され、バベルとして知られる西カリマンタンのバンカ‐ビリトン州や、やはり2002年に設立された新しい州で、ケプリとして知られるリアウ諸島などで活躍する者達であろう。 
今回は地方首長選挙戦の参加者達に的を絞りたいので、彼らについては述べない。クリスチャンディ・サンジャヤはダヤック人のコーネリスと組み、西カリマンタンの知事、副知事を目指した。 
その他には東ジャワ、ツバンのゴ―・チョン・ピンがブパティ・ツバン(ツバン区長)の座を目指して出馬したが失敗に終わった。それ以前には、ブパティ・サンガウ、または西カリマンタンの現サンガウ区長ヤンセン・アクン・エフェンディが中国系であるらしいとされており、だとすれば、彼は地方政治に参与した初のインドネシア華人の一人ということになる。 
それから、フィフィ・レティ・インドラは、中華系の女性弁護士で、最近Partai Perjuangan Indonesia Baru(新インドネシア闘争党)と改名したPartai Perhimpunan Indonesia Baru、またはPIB党(新インドネシア協会党)と、Partai Amanat Nasional(国民信託党)の支持を受け、パンカルピナン市長の座を目指した。 
アホク、ルディアント・チェン、ヒダヤット・アルサニやIr.バハールらは、全て中国系である。彼らがバンカ‐ビリトンの知事、副知事選挙に候補者として出現した事も、華人の地方政治参加における興味深い展開を示すものである。 

その他の者達もまた、地方政治への興味を示してきた。例えば、アルワン・チャ−ヤディはマカッサル市の法制審議会の成員で、Partai Keadilan dan Persatuan Indonesia(PKPI−インドネシア公正統一党)出身の中華系であるが、彼は2009年から2014年期のマカッサル市長の座を狙い、出馬の用意があると宣言した。(Tribun Timur Makassar2008年2月21日)
同様に、エディ・クスマはメダン生まれの中華系インドネシア人実業家であり、FORDEKA(インドネシア華人組合の一つ、Forum Demokrasi Kebangsaan-民族民主集会)によって開催されたフォーラムのLemhannas(国軍防衛研究所)2006年10月29日の訓練講習に参加した。彼は2007年の選挙でジャカルタ知事、もしくは副知事の候補となる意志表明をしたが、目下彼に対する華人社会からの支持は個人のものに限られている。そして、彼は何らかの不明確な理由により立候補する事すらできなかったようである。
もちろん、より多くの華人達が将来選挙活動に参加する事であろう。問題は、この現象を我々がどのように解釈するべきか、という事である。 

「政界のインドネシア華人」に対する賛否両論 

ある者達はインドネシア華人の地方政治参加を、久しく待望されたものであると確信している。自分達の代表を政界に持つ事は彼らの権利であるからだ。 
また別の者達は、華人の経済的手腕や強みが、特に彼らの国際的ビジネス・ネットワークやコネを通じ、地域経済を支え得る事さえも予期している。 
何より、地方政治や地方選挙に関し、華人の競争参入を禁じるような法規は存在しない。 

確たる事実は、華人候補者を支持する者が、華人社会自身の内に極めて少ないという事である。例えばパレンバンでは、トニー・ホアンが現れ、副市長候補となる用意が整っていたが、彼を支持しようとする政党が皆無であったため、彼は立候補すらできなかった。 

パレンバンの華人の数は約万人であり、これを考慮すれば、(トニー・ホアンを含む)華人候補の支持者には充分な人数となるはずである。しかし実際に、事はうまく運ばないのである。(Wijaya, 2008)華人の政策や政治家を支持しない理由はいくつかある。そのうちの一つに、スカルノ時代の終わりからスハルト新秩序の始まりにかけ、華人が経験した政治的暴力というトラウマがある。華人の国家政治への関与は、当時彼らの最大で唯一の大衆組織、バペルキ (Badan Permusyawaratan Kewarganegaraan Indonesia−インドネシア国籍協議体)を通じて行われたが、これがどれ程裏目に出た事であったか。華人はインドネシア共産党の1965年9月30日のクーデター計画を支持したと非難され、またこのために以後数年にわたり、彼らは国家諜報機関のBAKIN(詳細についてはCoppel 1983を参照のこと)に監視されるべき「裏切り者」市民として、または「好ましくない」人々として扱われ、また幾分脅迫されもしたのであった。 

今日状況は変化し、1965年に華人達が経験したような事が再び同じように起こる事は、おそらくないだろう。しかし華人、特にその年配世代の中には、いまだに過去を手放し未来へ向かう事にトラウマを感じる者達も存在する。もうひとつの理由は1998年5月の暴動の記憶である。華人達は今でも、政治が一度その道を誤ればその犠牲となろう事を恐れているのである。彼らは商売に励む事が安全を保障する事ではないにせよ、一番安全な方法であると信じている。特に華人が非政治的であった新秩序時代の1974年から1980年にかけて、またそのピークであった1998年の暴動など、その時代に起きた全ての反中暴動を考慮すれば、政治に関わらない事が解決策でない事は明らかである。 

しかし政治への参加にはそれなりのリスクがある事も、ポンティアナックの例で示された通りである。民族性や宗教の問題を選挙戦に利用すれば、華人への暴力を容易く引き起こす事になるだろう。特に知事や副知事といった候補者が多いわりに、一人か二人の勝者しか出さないような特別な座を狙う選挙戦でこのような事が起きた。また、華人候補者達は、ツバンのゴ―・チョン・ピンのように、彼/彼女の華人アイデンティティのためがゆえに追い落とされかねない。 

ゴー・チョン・ピンは、ツバン区長になれなかった。さらに奇妙な事に、彼の落選が大衆の激しい怒りを爆発させる誘因となり、この事がマスメディアに興味深い話題を提供した。しかしメトロTVの‘Today Dialogue’では、彼の話題はゴルカルのプリヨ・ブディ・サントソにより完全に無視された。彼はゴーがツバンの区長候補には「相応しくない名」であると考えていたのであったが、多くの人がゴルカル議員側の「人種差別主義的」と呼ぶような態度を見せたのであった。(Juven 2006年5月11日)バンカ‐ビリトン出身の文化オブザーバーであるヌルハヤット・アリフ・ペルマナの言葉によると、華人候補者が考慮すべきもう一つのリスクは、もし当選した華人が彼/彼女の公約を履行できない場合、インドネシア華人全体に、または他の中華系の政界候補者達にしっぺ返しが来る可能性があるという点である。(Tempo Interaktif/ビリトン/2005年8月19日) 

華人候補が実際に、彼らの公約を不履行にした場合、起こり得る事を予期するのは困難である。というのも、我々の政治制度の中の民族的要素は、人種的ヒエラルキーが公式に言明されているマレーシアでのように、明確な主題ではないからである。
一例を挙げると、東ビリトンでのアホクやバスキ・チャハヤ・プルナマ、または西カリマンタンのクリスチャンディ・サンジャヤらの件で明らかなように、華人候補者達は、常に地元インドネシア人達と組まされる事になる。そのペアが、違う民族の出身者同士でなくてはならないと述べた法規など存在しないのだが、ほとんどの州や地区が多民族の住民から成っているため、もし同類の民族的出自の者同士が組む事にこだわれば、勝利のチャンスが狭まる事を彼らは皆知っているのである。
これもおそらく華人候補者達が果敢にも選挙戦に進んで参加する理由なのであろう。 彼らは一人きりで出馬するわけではないのである。ペアとなる事で思った程存分に自身の華人アイデンティティに取り組む機会は与えられないにしろ、彼らには「あからさまな華人」として見られない、またそのような者としての責任を負わされないという利点もあるだろう。 

ポンティアナック事件はクリスチャンディ・サンジャヤが副知事として当選した後に起きた。私はこの事件が単に彼の華人アイデンティティに対する拒絶から引き起こされたものではないと確信している。事はもっと複雑なのである。ご存じの方もあろうが、西カリマンタンにおける最大の民族集団はダヤック族、マレー族、そして華僑である。1996年末にダヤック人とマドゥラ人との間に起きた血みどろの紛争は、ダヤック人が主流を占める地域からマドゥラ人が追い払われるという結末に終わった。2 以来、ダヤック人はこの地域を所有する「先住」民族の一として、その政治的権利を再主張する事となったのである。 

彼らと並び、それよりも以前からこの権利を主張していたのはマレー族であり、彼らはその一つがポンティアナック市に位置していたマレー諸王国の既成の歴史を拠り所としている。華僑たちもまた世紀半ばにまで遡る、自分たちの西カリマンタン定住の長い歴史を、ある程度証明する事が可能であった。

2000年に始まった地方分権化の過程に伴い、ダヤック族は首尾よく殆どの「ダヤック」地区に対する支配を獲得、「マレー」のものと考えられる地区はマレー族の手に残してきた。権力共有の問題が持ち上がるのは、その地区が容易に「ダヤック」のものとも「マレー」のものとも判じ難い場合に限られている。そのような場合、もちろん非公式にではあるが、彼らは「ダヤックを首長、マレーを副首長」とするか、「マレーを首長、ダヤックを副首長」とする事にしたのであった。一方で華僑達は両集団にとり、おおよそ政治に関する嗜好を持たぬ「善き友」と考えられている。彼らは今でも、明らかに華人が「政治嫌い」だとするステレオタイプを鵜呑みにしている。 

しかし、ダヤック族と華僑の関係の歴史を考えれば、両者は多くの場合、大変緊密であり(1967年のPGRS関連の事件を除く。この事件はある人々によれば、新秩序軍が画策し、ダヤック族の対華僑感情を逆立てようとしたものであった)、ダヤック人がその政治的目標の追求上、マレー人よりもむしろ華人のパートナーを選ぼうと決めたところで、驚くには値しないのである。当然ながらこの事はマレー人を憤慨させた。そして彼らはダヤック人よりもむしろ華人を責める事を選んだのである。これにははっきりとした理由がある。歴史が示してきたとおり、華人達が政治的に脆弱なためである。 

 
「政界のインドネシア華人」と彼らの代表性 

インドネシア華人や地元インドネシア人オブザーバー達の多くは、しばしば華人の政治参加や、彼らの国家政策関与への必要性を口にする。なぜなら、そのような事象が新秩序時代に欠落していたからである。 

彼らはスハルトの新秩序崩壊後に閣僚に任じられた華人らに重きを置いた。クウイック・キアン・ギーが経済財政担当調整相に任命されたのは、アブドゥルラフマン・ワヒド大統領の時代と、後にはメガワティ大統領の時代であった。一方マリ・パンゲツはSBY政府における現在の産業貿易大臣である。彼らはこれらをスハルト体制下のインドネシア政界における華人の数と比較する。その数はほぼ皆無であり、例外としてはボブ・ハサン(キァン・センとして生まれる)がスハルト政権の最終月(1998年3月15日)に産業貿易大臣に任命されている。スカルノ時代には、その数こそ多くはないが、数名の華人の名前が列挙できよう。
たとえば、タン・ポー・ゴーン(1946-1947シャフリル内閣の少数民族問題相)、シァウ・ギョクチャン(1947-1948アミール・シャリフディン内閣の少数民族問題相)、また後にはウイ・チュタットやディビッド・チェンらも1958年から1965年における、スカルノの有名な「指導される民主主義」時代の100人内閣に名を連ねている。(Siauw 2005年)

多少の華人達が政界に存在する事は、政治環境や華人に対する政府の政策の前向きな変化を示す共通指標となった。それにもかかわらず、「インドネシア華人達が自らを集団として、いかに政治的に位置付けるべきであるか」という議論はごく僅かしかなされない。従って2004年の選挙以来、ますます多くのインドネシア華人の個々人が地方政治(議会や地方政府機関)へ参入しはじめたとは言え、私はこれが国政における「インドネシア華人の代表性」とは何ら関係のない事であると考えている。なぜなら、彼らのほとんどは華人社会の代表と言うよりも、むしろ個人的利益のために政治参加しているためである。ところが、彼らのほとんどはその支持を華人票に頼っており、中にはそれが奏功せずとも、政治的支持のため、自らの華人アイデンティティや華人ネットワークを意図的に利用する者も存在する。 

このような個人的活動を集団的活動から区別する事は大変困難となっている。
さらにこういった多くの個々人は、同時にインドネシア華人組織の会員でもある。こういった諸組織はPSMTIのように公式には「政党に関連した政党や社会組織に属さない。」と明言するのであるが、どうやらその会員達が政治的地位を持つ事に対しては異議や懸念を持っていない。 
彼らはこういった人々を是認しさえするのである。例を出すと、PSMTIの指導者達は2007年6月、バタムでのPSMTI内部集会に招かれた私に、彼らの地方議会のメンバーとなった会員を誇らしげに紹介してくれたのであった。 

たとえ華人の政治参加を、個人的なものと集団的なものとに完璧に区別する事ができなくても、この問題を明確にしておく事は今後の参考のために有用であろう。そもそも、国政に華人の代表を置くという考えは、スハルトが権力を退いてから程なく設立された、インドネシア華人の政党に始まった。 
変化しつづける政情が、あらゆる階層の人々の政治改革への強い要求に伴い、リウス・スンカリスマら若い華人達に、政治改革のもたらす機会獲得を促したようである。こういった事は同時に、彼らが政党を立ち上げ、インドネシア華人の代表的存在となる事、つまりは彼らが国会で民族的マイノリティー集団の代表となるようにも仕向けたのであった。 
彼らは中華系インドネシア住民の総数を算定し、全員にこの理念が支持される場合に獲得し得る議席数を勘定した。つまり、華人の代表を国政に置く上で、華人アイデンティティの重視は新興の華人政党や組織にとり最重要目的の一つとなったのであった。しかし先にも述べたとおり、この理念は華人社会からの支持を得る事が出来なかった。それでもなお、このインドネシア華人の代表という理念は、後にインドネシア華人組織を作った一部の指導者達にとっては魅力的であったようである。
私はこれが理由で、インドネシア華人組織がその会員達に、地方及び地域議会や国会で成員となり、地方政治に参加する事を許容しているのだろうと考える。 
インドネシア華人の代表を国政に、と志向する事は華人がインドネシア社会にとり不可欠な存在であるとする、これら組織のそもそもの主張と一致している。従って彼らは、「新たなインドネシア」、もしくはスハルト後のインドネシア改善のため、地元インドネシア人達と協力して働かねばならないのである。 

しかし上述のとおり、華人達を政界の民族的マイノリティー集団として「権威付ける」事には賛否両論がある。華人達を説き、結束した政治集団とする事の難しさを見込み、幾名かの華人達は、己の政治的関心を示す上で個人的な活動を志している。しかし多くの人々が、こういう戦略の有効性を疑問視しており、このような自薦華人政治家達にはほとんど支持が集まらないのである。我々は、INTI会長のエディ・レンボンがINTI企画の2004年2月21日のセミナーで発表した“Ethnic Chinese & 2004 Election”〈少数民族の華僑と2004年選挙〉というレポートを通じ、自己決意で政治家になった者達や、候補者「仲間」を支えるよう依頼された者達、双方の華人(この場合INTI会員)が直面する「政治的ジレンマ」をそれとなく読み取ることができる。 
このジレンマはいくつかの問題に及ぶものであるが、主には華人達のインドネシア政治における、個人、または集団としての「不安定な立場」に関する懸念を示したものである。 
そもそも、政党へ加わる事に興味のある華人達は、彼らがその見解において実に様々であるために、自分達がその「公式な」代表としての権利や正当性を持つのかどうか量りかねている。
次に、華人の政治家は、その集団のマイノリティーとしての立場が彼らの政治的状況を変える、もしくは改善する上で、十分な力と支持を獲得し得るかどうか、自信を持って確実な予想をする事ができなかった。 

このため、他の華人達に、彼らへの支持を説き付ける事が叶わなかったのである。 
そして三つ目に、候補者仲間を支持するよう依頼された者達であるが、彼らはいまだに華人候補を支持する事の利点に疑念を抱いている。これはより広範な社会において、華人アイデンティティが今でも問題となっているためである。

結論 

インドネシア国民国家の歴史上、政界の華人という現象は新しいものではない。しかしこの現象は明らかに各体制の政策や各時代の政情に強く影響されたものである。華人の政治活動は、スハルト新秩序で厳しく制限された。これは軍高官達の間に、共産党の諸活動やネットワーク作りに対する強い懸念があったためだ。これがインドネシア華人に対し、勝手に「中国の第五列」と命名された根深い疑念や偏見をもたらしたのであった。(Coppel/1983年) 
1998年5月の暴動の後、政情は変化し、華人は国家レベル、そして実に地域及び地方レベルでの政治参加を許可された。これは政府の華人政策緩和を表すものであった。 
しかし、華人の個人的な政治参加活動の後に起きた、2008年ポンティアナック事件のような出来事からは、一般大衆がいまだに地方政治における華人の、ましてやその集団としての地位を受け入れる気のない事がまざまざと読み取れるのである。 

ジェマ・パーディの「大衆は未だに一連の暴力や反中感情と嫌悪の記憶を持つ」とする主張に立ち返ると、この問題が単に社会的、政治的なものではなく、心理的なものでもあるという事が明らかとなる。 
さて、地元インドネシア人達がインドネシア華人達を違った角度で眺め始めてから、まだ10年しか過ぎていない事を思えば、華人に対して長年培われてきた敵意に変化を与えるには、地元、中華系双方のインドネシア人達による一層の努力が必要であると私は考える。あるいは少なくとも、今日のインドネシアの民主化プロセスに暫定的な期間を導入し、全ての関係各党に適切に段取られた調整過程が準備されるべきであると提案する事ができるだろう。 
そもそも、新秩序時代の30年間、我々はインドネシアの多文化社会における民族的、宗教的諸要因の重大性を随分と無視してきた。そこで私が思うに、この先3年から5年にかけ、我々は華人をも含んだ、様々な民族集団の精鋭の知的メンバーから成る合同委員会を開くべきである。彼らメンバーは主に、この「民主的な」政治制度における民族、宗教の諸問題を乗越える最良の方法を見出すために尽力する事になるだろう。 

次に、そしてより重要な事は、全ての民族、宗教団体及び党の指導者達は、銘々の民族的、宗教的アイデンティティを自分達が将来の共通の「家」と認めたインドネシア国民国家の枠組みの中で再概念化し、再構築して立て直さなくてはならない。私はこれら二つの行程が存分に進められれば、インドネシアの華人をも含めた民族集団間の政治的相互作用に関する、よりオープンな議論が行われる事になると確信している。これはインドネシアの民主化プロセスにとり、必要な事である。 

  トゥン·ジュ·ラン
社会文化研究所 
インドネシア科学院 (LIPI) 

Kyoto Review of Southeast Asia Issue 11 (December 2009)

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