Site icon Kyoto Review of Southeast Asia

シンガポール・コミックスの現在のトレンド:自伝が主流となる時

もし、受賞することが何らかの指標であるなら、シンガポール漫画は良い方向に進んでいるようだ。2014年2月、Oh Yong Hwee原作、Koh Hong Teng作画の〝Ten Sticks and One Rice″が、国際漫画賞(International Manga Award)の銅賞を受賞した。日本の外務省が主催するこの国際漫画賞は、海外で漫画の振興に寄与した漫画家を讃えるために創設された。第七回国際漫画賞には、53カ国から256名の参加登録があり、〝Ten Sticks and One Rice″は、シンガポール唯一の受賞作品だ 1。この漫画を出版したエピグラム・コミックス社は急成長していて、2013年にこの出版社が刊行したもう一冊の漫画、Andrew Tan (drewscape)による短編、〝Monsters, Miracle and Mayonnaise″はアイズナー賞の最優秀短編にノミネートされた。受賞はしていないけど。

Ten Sticks and One Rice, written by Oh Yong Hwee and drawn by Koh Hong Teng

シンガポールの漫画出版の現実は、残念だけど、賞を受賞したり、ノミネートされたりしても、漫画で食べていけるほどの販売部数と結びつかない。評論家たちからは称賛を受けたけど、〝Ten Sticks and One Rice″は1000部出版されて、実際売れたのは約650部だけだった(Nanda, 2014)。Kohは漫画で食べていこうとしたんだけど、売り上げが少なく、結局、収入を補うべくフリーランスの仕事をしたり、美術学校で非常勤講師を務めたりしなくてはならなかった。一方、Ohはウェブ・デザインの会社を所有しているので、執筆を趣味として行うことができた。〝Monsters, Miracle and Mayonnaise″に関しては、初版の1000部が売り切れ、増刷される事となった。〝Monsters, Miracle and Mayonnaise″のTanもフリーランスの売れっ子アーティストで、漫画は副業にすぎない。

Monsters, Miracle and Mayonnaise by Andrew Tan

シンガポールの漫画史に特徴的なのは、作家たちが生活を漫画の執筆に頼っていないというところだ。この最たる例がEric Khooの〝Unfortunate Lives: Urban Stories and Uncertain Tales″という、短編から成るシンガポール初のグラフィック・ノベルで、これは1989年に出版された(Lim, 2013)。Khooは裕福な家庭の出で、映画監督として賞をとったこともある。漫画業で生計を立てられないというのは一見ネガティブに思えるけど、実はシンガポール漫画にとても興味深い現象をもたらしている。簡単にいえば、ほとんどの作家たちが、自分自身の物語を描き、世間一般の好みに迎合したり、商業的配慮に左右されたりすることがないということだ。たとえ彼らが「売れそうな」仕事をしても、シンガポールの小さな市場規模を思えば、商売として採算があわないだろう。ある作家は次のように説明する。「特異なのは、シンガポールが多種多様な住民を抱えた小島であるということです。そのために、シンガポールの作家たちが作品を売るには、地域の多様な住民の相当数にとって魅力ある物語やキャラクターを見出すという苦闘に直面することになる」。これには例外があるんだけど、それについては後で述べることにしよう。

 ここで〝Ten Sticks and One Rice″の話の内容を見てみると、この物語は、とある露天商が変わり行くシンガポールを理解しようとするものだ。自伝的な物語で、露天商だった作家の両親の生活が話の元ネタになっている。自伝的なストーリーは、シンガポール漫画の主流のひとつだといってよい。これはアメリカとは異なるもので、アメリカでは自伝のジャンルはオルタナティブであって、主流ではない(Hatfield, 2005)。最近のシンガポール漫画の自伝的な作品のなかで主要なものに、Troy Chinの〝The Resident Tourist″ 2(5巻本)がある。これは作者自身が恋をしている少女への賛歌でもあって、ニューヨークで音楽業界のエグゼクティブとして働き、ある意味燃え尽きた主人公であり作者自身でもあるChinが、シンガポールへ戻って来るという話だ。彼の子供時代や現在の友人関係が、とりとめもなく描かれる。実のところ、このエッセイを書いている筆者もまた、Chinが現在の出来事を取り上げる作品に登場している。努力して限界まで心血を注ぎ切ったことに対し、2011年にChinは、シンガポール国立芸術評議会(NAC)の若手芸術家賞(Young Artist Award)を授与されている。

From The Resident Tourist. Troy Chin’s five volume award winning autobiographical work

 こうして漫画家たちが、「売れそうな作品」を捨てて個人的な作品をつくることができるのは、NACやシンガポールメディア開発庁(MDA)の財政支援があるからだ。KohやChin、その他の有名な漫画家たちは、これらの資金団体の支援を受けてきた人たちで、これらの団体は出版費用を支援していて、本の出版費用の一部はNACやMDAの補助金でまかなわれている。その意味では、これらの漫画たちは採算が取れていることになるんだけど、他方で、費用のかさむ販売促進業務を出版社が怠けてしまうかもしれない。これは1000部という不思議な印刷部数の謎を説明するものだ。印刷部数が多いほど、コストは抑えられ、採算は良くなるわけだが、クリティカルマス(市場に商品が普及するのに決定的な割合のこと)の存在しないシンガポールでは、在庫費用が懸念される。これは皮肉なことで、シンガポール経済の成功理由はそのコンパクトな規模にあって、政策や住民のコンプライアンスについても、この規模が小さいという事実があったからこそ、状況を素早く好転させる事ができた。しかし、自国の音楽や書籍、漫画にとって十分な規模の消費市場は存在しない。

Singapore’s art deco Tanjong Pagar Railway Station, closed in 2011, is the starting point of Koh’s new comic that ties the writer’s personal with his country’s economic development.

この十分な規模の消費市場が存在しないことがもたらす結果は二つある。一つは、作家たちが本の売り上げを気にしないため、より「芸術性の高い」作品が制作されること。1000部というわずかな印刷部数では、漫画家たちは単に漫画を描くだけでは生活できないだろう。例を挙げると、エピグラム社では、本一冊あたりを18.90シンガポールドルで販売している。たとえ1000冊全てが売り切れたとしても、漫画家の印税は、制作コストや本屋、販売業者へのマージンを差し引くと、18,900シンガポールドルをはるかに下回ることになる。漫画作品はそれぞれ、4カ月から半年間ほどかけて制作される。漫画の制作だけでは暮らしていけないのだ。このことが頭にあるため、シンガポールの大半の漫画家たちは、漫画制作一本では暮らしていない。彼らのストーリーテリングに対する姿勢も、これによって説明される。Kohの新作漫画は、彼が一年以上かけて制作・作画したものであるが、これはシンガポールの旧タンジョンパガー駅を発車した、最後の列車についての物語であった。これは彼の代表作で、個人史をシンガポールの経済発展と結び付けた作品である。歴史の教師として、私はこの作品が大好きである。だが、この作品が一般受けするかどうかは定かでない。この作品の後、Kohは再びOhと共同で、美術史の学術論文を基にしたランブータン園の物語に取り組むことになる。両プロジェクトは共に、NACの資金援助によるもので、NACの目的は地域の美術を支援する事である。だが、このような資金調達戦略は、作家たちが新たなファンを獲得するための助けにはならないであろう。

 このことから二つ目の結果が導かれる。ほとんどの原作者や漫画家たちが、その意味では趣味人であるということだ。フルタイムの仕事があるからこそ、彼らは余暇に漫画を制作する事ができるのだ。この事は、より個人的な物語が語られ、自伝ジャンルが主流になるという興味深い現象を引き起こしてはいるが、プロ化という点については、漫画産業の成長を促すものではない。語られる物語の深みと種類が、作家たちが作品に取り組むべき時間によって制限されるという、理不尽な状況となり得るものだ。例外は、金銭的な事を気にせずに、フルタイムで漫画に取り組んでいるKohやChinのような人々である。

最近、著者がシンガポールの漫画家10名に対して行ったインタビューによると、彼らがシンガポールの読者たちが漫画に求めていると思うものに、意見の一致は見られなかった。得られた回答は、「良いストーリーと優れた絵」という、ごく一般的なものから、ユーモア、地元の問題などに渡る。数名ではあったが、形式に注目した者たちもいた。シンガポールの読者たちは、マンガ・スタイルや、クロスメディア的な魅力を持ったコンテンツに、より深い関心を持っているということだ。彼らの一人が問題として指摘したことは、読者が求めているものを知るための市場調査が不足しているということであった。詳しく述べると、「ほとんどの漫画が、漫画家や原作者の個人的な表現媒体である。これらは本当の意味で、消費者のために書かれたものではない。マーケティングの計画もない。コミュニティ内の連携もなく、戦略も、適切な構成も無い。リーダーシップも欠如している」。ファンたちがシンガポール漫画に何を読みたがっているのかについて、ファンとの中間会合も無い。(ある作家は次のように述べた。「彼らが何を求めているのか、見当が付きません。自分が何を求めているかという事だけはわかっています」。)この事は、漫画読者たちの間に、シンガポール漫画はあまり良くない、あまり面白くない、といった、かなり否定的な見方をもたらす事となった。これまでに、何かシンガポール漫画を読んだ事があるかと尋ねれば、その返事は大抵がノ-である。

市場に目を光らせている漫画家たちも、わずかに存在するが、彼らは海外市場に焦点を当てなくてはならない。Wee Tian Bengの〝The Celestial Zone″は、1999年からの連載で、シンガポールで最も成功している連載漫画の一つである。これはDiamond社によって世界的に流通するようになったもので、その人気はオンラインの漫画のスキャンレーションサイトで見つけることができる程だ。シンガポール市場の枠を超えることで、WeeとそのTCZスタジオは、先に述べた少ない印刷部数の縛りを打開することが可能となった。〝The Celestial Zone″は、毎号、数千冊が売れ、アジア、ヨーロッパ、アメリカなどの異なる地域にファンを抱えている。さらに海外からの注文の収益を確固たるものとすべく、Weeは〝The Celestial Zone″の英語版と中国語版の電子書籍の発売を開始した。しかし、これは流通/印刷部数に対する解決策である。ストーリーや絵が魅力的でなければ、読者たちがその商品を手に取ることはないだろう。Weeが指摘したように、「商業的な漫画がどのようなものであるかという知識が、地域の漫画家たちの間には実に乏しい」。

The Celestial Zone 第1巻 by Wee Tian Beng

おそらくは、正にこの理由から、シンガポールで最も成功している漫画家の一人Sonny Liewは、シンガポール市場向けの作品を描かないのだ。Liewは数年前にアメリカの漫画市場に参入し、DC/Vertigo、Marvel、Image、First Secondなどのために作品を描いている。彼はシンガポールを拠点とし、アメリカからの仕事で、十二分に満足できるだけの収入を得ている。彼のシンガポールでの個人的なプロジェクトを除けば、それらの作品はひねりが効き、遊び心に満ち、また歴史や政治などの深刻なテーマを扱うものである。〝The Art of Charlie Chan Hock Chye″は、エピグラム・ブックスから出版される予定だが、これもシンガポールMDAの資金援助を受けている。この本が熱心な漫画ファンたちから待ち望まれているのは、Liewに別の契約があり、この本が一年以上遅れているためである。しかし、より広い読者層にこれがうけるかどうかは、まだ不明である。去年、オンラインの政治漫画家Leslie Chewが迫害された事は、政治風刺が踏み込んではならぬ領域だということを喚起させるもう一つの出来事であった(Wong, 2013)。シンガポールには、かつて1950年代と1960年代に、活発な政治漫画の世界があった。だが、これは国家がマスコミに第五階級(放送メディア)である代わりに、民意形成の役割を演じるよう求めた時に消滅してしまった(Lim, 1997)。

政治的表現の場が閉ざされたために、個人的な物語がより多く語られるというわけである。漫画家達は、より無難な代替案を求めている。シンガポールが教育を重視していることから、シンガポールでは教育漫画が別の主流ジャンルとなっている。Otto Fongの〝Sir Fong’s Adventures in Science″は、現在のところ4巻まで出ていて、合計1万冊以上が売れている。シンガポールの保護者たちは、子供達が学校で良い成績をとるためには、高価な教育費を出したり、成績をよくするための本を購入したりすることをいとわない。彼らの一部で徐々に教育漫画が浸透しつつある。Fongは学校での講演を行っているが、これはシンガポールの科学のカリキュラムに準じた彼の本の宣伝のためである。

WeeやLiew、Fongたちは、シンガポールで漫画の仕事によって、人並みに暮らしている漫画家たちの少数例である。その他多くの漫画家で、コミックアーティスト協会(シンガポール)(ACAS) から本を出版されるような者たちは、その仕事を彼らの余暇の趣味として行っている。ACASの本も同様に、NACの資金援助を受けている。

シンガポールにおいて、漫画は芸術にありがちな症候群に陥っているようだ。つまり、賞を受賞したり、ノミネートされたりする事が、読者数や売り上げよりも重要な妥当性の指標となっているということである。シンガポールでは、受賞歴のある漫画家となることに、明らかな利点が存在する。旅行や会議、それに奨学金にさえ、より多くの資金援助が得られるのだ。その次回作はおそらく採算が取れるとなれば、出版社は満足し、芸術評議会はその資金援助によって芸術を支援するという責務を全うしたことになる。だが、この状況は、商業的に有望で、より多くのファンに通じる物語をつくるという点で、業界にとって長期的、あるいは中期的に、実に幸先が良いものである。私が共同編集した〝Liquid City Volume 2 ″(Image Comics, 2010)という本は、東南アジア漫画の名作選であり、2011年のアイズナー賞で最優秀名作選としてノミネートされた。言うまでもないことだが、この本がこの賞を受賞する事はなかったし、私は今でも自分の本業を手放さずにいる。

Lim Cheng Tju
Lim Cheng Tju is an educator in Singapore
リム・チェンジュ  シンガポールでの教育者

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 16 (September 2014) Comics in Southeast Asia: Social and Political Interpretations

Liquid City 2  Sonny Liew とCheng Tju Lim編

References

Chin, Troy. The Resident Tourist. 5 vols. Singapore: Self-published, 2008-2011. Print.
Fong, Otto. Sir Fong’s Adventures in Science. 4 vols. Singapore: Ottonium Comics, 2008-2012. Print.
Hatfield, Charles. Alternative Comics : An Emerging Literature. 1st ed. Jackson: University Press of Mississippi, 2005. Print.
Liew, Sonny, and Cheng Tju Lim, eds. Liquid City Volume 2. Vol. 2. Berkeley, CA: Image Comics, 2010. Print.
Lim, Cheng Tju. “Singapore Political Cartooning.” Southeast Asian Journal of Social Science 25.1 (1997): 125-50. Print.
—. “The Early Comics of Eric Khoo.” s/pores: new directions in singapore studies.11 (2012). Web.
Nanda, Akshita. “Local Comic Book Wins Manga Award.” The Straits Times (2014). Web.
Oh, Yong Hwee, and Hong Teng Koh. Ten Sticks and One Rice. Singapore: Epigram Books, 2012. Print.
Tan, Andrew (drewscape). Monsters, Miracles and Mayonnaise. Singapore: Epigram Books, 2012. Print.
Wee, Tian Beng. The Celestial Zone. Singapore: TCZ Studio, 1999-present. Print.
Wong, Chun Han. “Singapore Cartoonist Apologizes for Court Lampoon.” The Wall Street Journal (2013). Web.

Exit mobile version