6月半ば、長引く国境問題をめぐり、カンボジアとタイの間で緊張が高まる中、カンボジアの事実上の指導者であるフン・センは、海外に移住したカンボジア人に「強制送還される前に母国へ帰国するよう」促した。だが、これに対する反応の規模は予想以上だったようだ。何しろ、双方の国軍の間で武力衝突が勃発する18日前の8月11日までに、推計92万人のカンボジア人がタイから国境を越えて帰国していた。紛争前のカンボジアの労働力は約900万の人々で構成されていたため、帰国者の成人が労働力の10分の1近くを占めていたことになる(ILO, 2022)。ただし、法的地位や正式書類を持たずにタイで就労していた人が多かったため、正確な数字は不明なままだ。
新型コロナウィルスのパンデミック中、カンボジア政府は、雇用創出計画や、複数の資金援助により、帰国する出稼ぎ労働者の流入受け入れに取り掛かった。実際、9月10日までに、約22万人の帰国者が雇用を確保していたが、その半数以上は政府の支援計画によるものだった(Khmer Times, 2025)。だが、ソーシャルメディアには、不採用にされたという苦情が満ち、紛争前に既にGDPの100%を上回っていた家計債務が(NBC, 2024)、失業や失われた送金によって危ういレベルに追い込まれているとの不安も高まっている。また、これが金融部門そのものを脅かしかねないという懸念もいくらかある。政府の見通しでは、帰国者で仕事を見つけられるのは約半数のみとされ、緊張緩和の後、タイが再び労働市場を開放するかどうかも定かではない。
長年、非伝統的な安全保障問題の研究では、大量の移民(immigration)と海外移住(emigration)に関するリスクが検討されてきた。ところが、出稼ぎ労働者の大規模な帰国、つまり、「大量帰還(“mass remigration”)」と、これが本国を脅かす可能性についてはあまり注目されて来なかった。[1]また、2015年と2021年のASEAN安全保障の見通し報告書(Security Outlook reports)は、非伝統的な安全保障上の脅威に「不法移民」を挙げているが、この地域全域で、労働力の大量流出が続くにも関わらず、「帰還」は挙げられていない。カンボジアには、1980年代と1990年代に、タイ難民キャンプから数十万人もの難民を幾度か受け入れてきた過去の経験がある。だが、今日の受け入れのペースと、労働市場の状況には著しい違いがある。
2024年のカンボジア政府の発表によると、海外で就労していたカンボジア人は130万人で、そのうち120万人がタイで働いていた(Khmer Times, 2024)。ある推計によると、送金総額はカンボジア経済の約9%にあたるとされ、これはフィリピンと同程度だが、他の東南アジア諸国の総額をはるかに上回っている(ESCAP, 2024)。また、世界銀行の試算によると、昨年の個人送金額はGDPの6.1%に相当する約28億ドルに上るという(World Bank Open Data)。一方、元大証券(Yuanta Securities) (2025) の研究による試算では、タイで働くカンボジア人労働者は年間約15憶ドルを本国に送金しており、これは同国のGDPの約2%に当たるという。また、同銀行の予測では、帰国者の20%が国内で仕事を確保すれば、生産性と消費の増加が送金の損失額を相殺し、完全な受け入れが成されれば、72億ドルの創出が可能だという。
だが、ほとんどの伝統的・非伝統的な安全保障上の脅威について、リスクは総体というよりも端の中に存在する。例えば、既に、帰国者の約30%が貧困層に分類されているが、雇用が実現しなければ、これが50%に上る可能性がある(CDRI, 2025)。また、2020年の調査からは、タイから帰国したカンボジア人の大半が所得の大幅な減少に苦しみ、その3分の1近くが少なくとも、40%の損失を報告している事が判明した(IOM, 2020)。9月10日現時点での労働省の報告では、約22万人の帰国者が正規雇用を確保し、その他数万人以上が非正規の仕事を見つけたという。さらに9万件の求人があるのを含め、これらの数字から分かるのは、帰国者のせいぜい半数をやや上回る人々が雇用を確保できそうだという事だ(Khmer Times, 2025)。
だが、いくつかの構造的要因が雇用吸収力(labor absorption)の妨げになっている。まず、ほとんどの出稼ぎ労働者の出身地はカンボジア西部の国境沿いの州だが、雇用機会は首都プノンペン周辺など、国の東部に集中している(CDRI, 2025)。だが、複数の研究から、帰国者が故郷の州付近に住みたがっている事も分かっている(Hatsukano, 2019, p. 68)。その結果、帰国者は、しばしば、次のようなジレンマに直面する。それは、社会的ネットワークと生活資源は手に入る一方で正規雇用の不足した故郷の村に留まるか、より多くの雇用の見込みはあるもののセーフティーネットが弱いうえに移住費用がかさむ地域に国内移住するかというものだ。また、職業の連続性も制限される。建設作業員だけは仕事を維持できる傾向だが、ほとんどの人は、タイで習得した技能を自国に移転させられずにいる(Hatsukano, 2019, pp. 66–67)。これが特に深刻なのは、タイにいたカンボジア人の大半が従事していた建設業と農業の両業界がパンデミック後も低迷を続けているためである。さらに、これに拍車をかけるのが、地域経済が送金に過度に依存しているという事実だ。また、年齢も大きな障壁となる。帰国者の4分の1以上は45歳以上だが、これが、カンボジアで最大の正規雇用を提供する縫製工業などの労働集約型の業界への就労機会を制限している。実際、事例報告を見れば、帰国者の多くが年齢のために縫製工場からの採用を断られているのが分かる。
さらに、家計債務は最も深刻な経済的リスクだ。出稼ぎ労働者の家族がいる世帯の約3分の1は、既に平均5,000ドルのローンを抱え、多くが返済に苦しんでいる(CDRI, 2025)。カンボジアの債務対GDP比は2024年に124%に達したが、これは世界でも最高の値だ(NBC, 2024)。また、所得の損失に加え、帰還のための費用が経済的困窮をさらに深刻にすると予測されている。フン・マネット首相は、金融業者に債務再編成を要請したが、2024年年末で、不良債権は既に銀行で7.9%、小規模金融では9%に上り、過去数年よりも急増している(Xinhua, 2025)。これらの数字は6月以降、ほぼ確実に増加している。IMF(2025)は、一時的な救済策を「綿密に調整された規制の先送り(regulatory forbearance)からの脱却」と組み合わせ、銀行が確実に貸倒損失を認識できるようにする必要があると警告した。少なくとも、家計債務の増加と、手に負えない融資の返済は、医療などの必要不可欠なサービスの利用機会の減少など、重大な社会的代償をもたらす。現地メディアでは、差し迫った債務返済義務に駆られた帰国者が、国境での武力衝突も顧みず、タイに再入国を試みる事例が報告されている(Kiripost, 2025)。
したがって、緊張が緩和された際に、出稼ぎ労働者が再びタイに戻るのを認められるかどうかが極めて重要だ。だが、このジレンマは、カンボジア政府にとっては両刃の剣でもある。国外への労働者の流出は、当面のひっ迫した状況を緩和する一方で、新たな労働者を見込んで規模を拡大した国内企業を危うくもするからだ。この決断はタイ政府に委ねられているが、最近、同政府は、ミャンマー難民の雇用に向けた法律を緩和させ、スリランカ・ネパール・インドネシア・フィリピンとの間でこれらの国からの移民増加に関する会談も行っている。これには、カンボジア人労働者以外への多様化を図る意図が窺われる。
だが、帰国者が国内に留まれば、負担はさらに高まる。まず、5万以上の新たな学校施設が必要となり、資金不足の教育部門に負担がかかる。それに、多くのカンボジア人は、重篤な疾患に対する治療をタイの医療に頼っている。富裕層なら、まだ飛行機での旅も可能だが、陸路の旅は継続中の紛争によって中断されており、資金不足のカンボジア医療制度にさらなる負担がかかって来る。
そして、より油断ならないリスクが潜んでいるのがインターネット詐欺産業で、これは、現在のカンボジアの非伝統的な安全保障上の最大の脅威の一つと言えるだろう。ある試算によると、違法産業が生み出す年間の収益は約125億ドルで、これは公式経済の4分の1に相当する(USIP, 2024)。また、カンボジアの政財界のエリートが違法産業を庇護しているとの疑惑から、米国による制裁と、中国との対立も生じている。これらの詐欺拠点の多くは、タイとの国境付近に位置し、そこで働く人々の大半が奴隷のような状況に置かれているという。
これに対し、政府は迅速な行動を取り、雇用計画を立て、帰国した労働者に雇用機会に関する助言を与える内閣対策本部を設置し、帰国した出稼ぎ労働者を雇うよう事業者に働きかけ、資金援助も行った。おおむね、政府は積極的な対応をしてきた。だがなお、ソーシャルメディアには、約束されたサービスや支援を利用できないという帰国者からの苦情があふれている。
長期的に見ると、これは、1979年以来、権力を独占してきた与党、カンボジア人民党(CPP: Cambodian People’s Party)の新たな政治的安全保障上の課題を生み出す可能性がある。2017年以降、この権威主義的な政党は、全ての政治的敵対勢力と一般市民の反発の抑え込みに成功し、今では、異議を唱える者がほとんどいない。現在、カンボジアでは、ナショナリズムが高揚しており、強制送還も含めた今回の危機に対する非難の多くは、カンボジア政府ではなく、タイに向けられている。実際、大勢のカンボジア人は、好戦的な愛国主義者のタイ人から攻撃されるのを懸念して退去を選んだ。
だが、多くのことが、カンボジア・タイ間の緊張がどの程度長く続くかと、大勢の出稼ぎ労働者がタイでの仕事に再び戻る事が認められるかどうかにかかっている。ただし、タイ以外の国が100万人のカンボジア人労働者を受け入れる様子は無さそうだ。過去には、自分たちの人生の選択肢に不満や不当を感じたカンボジア人には、より給料の良い仕事を見つけるためにタイに移住する力があった。また、自らの境遇に最も不満を抱いた人々を国から排除する点において、これはある程度、与党に利益をもたらしていた。さらに言えば、大勢のカンボジア人がタイに簡単に移住できたということは、この数十年間、カンボジア政府が大量失業の可能性や、労働者の権利に関し、高いレベルの余剰労働力に悩まさずに済んだということを意味した。
では、非伝統的な安全保障上の脅威としての大量帰還について、カンボジアの事例は何を明らかにしているのか?その他の新たな安全保障上の脅威と(実に多くの伝統的な脅威も)と同様に、大量帰還が懸念される主な理由は、これが既存の脆弱性を強めるためだ。ほぼ、どのような状況においても、失業者数の突然の急上昇は問題だが、債務比率やローンの不履行率が既に高いうえに悪化しているカンボジアでは、これが特に事態を揺るがすものとなる。これほどまでに大規模な想定外の出来事には、慢性的な脆弱性を重大な危機に変える可能性がある。そして、巨大なインターネット詐欺産業の拡大など、カンボジアで現在進行中の問題によって、社会的リスクはさらに深刻化する。もし、農業や建設業などの業界がパンデミック以前か、それ以上のレベルに回復していれば、また、雇用創出が首都周辺ではなく、国の西部各州に集中していれば、大量帰還の経済的影響はずっと抑えられていただろう。
これらの脆弱性は予測不可能ではなかった。だが、カンボジアが主な労働移住先としてタイに過度に依存していた事が、この国を極めて無防備なままにした。これは、労働力の輸出において、より多様なパターンを維持しているフィリピンなどの国とは大いに状況が異なる。また、これらのリスクは大量帰還を引き起こした要因によっても左右される。例えば、このような動向は、武力衝突や、突然の経済的打撃、環境災害、集団的国外追放などからも生じる。カンボジアの場合、この大流出の発端は受入国、タイとの領土紛争だった。この影響により、国民の怒りは外に向け直され、政治的リスクは抑制された。つまり、ナショナリスト感情の広がりが多くのカンボジア人を国旗と政府の下に集結させる一方で、国の問題はタイのせいにされた。はたして、これがいつまで続くかは注目に値する。なぜなら、これは(ナショナリズムなどの)感情に基づく激しい怒りが、どれ程の間、(仕事や借金などの)生計に関する懸念を包んでいられるのか、東南アジアでの興味深い例となる可能性があるからだ。そして、異なる経済構造や、移住パターン、政治的背景が大量帰還に関する安全保障上のリスクにどう影響するかについては、特に比較研究などのさらなる研究が必要となる。
David Hutt
Research fellow at the Central European Institute of Asian Studies (CEIAS) and the Southeast Asia Columnist at The Diplomat.
References –
“Cambodia’s Banking, Financial Institutions Experience Slow Credit Growth in 2024: central bank.” Xinhua, 19 February 2025. https://english.news.cn/20250219/f7d820199f91437a8dbfe90f7868fb03/c.html.
“Cambodia: Employment and Environmental Sustainability Factsheet.” International Labor Organization. 2022. https://www.ilo.org/media/368836/download.
“Cambodia Returning Migrants Survey.” International Organization for Migration, 2020. https://dtm.iom.int/dtm_download_track/11936?file=1&type=node&id=9270.
“Demographic and Economic Profile of Returned Migrant Labourers.” Cambodia Development Resource Institute, 27 August 2025. https://cdri.org.kh/publication/demographic-and-economic-profile-of-returned-migrant-labourers.
“Expert Group Meeting on Strengthening the Evidence Base on Migration in North and Central Asia.” Economic and Social Commission for Asia and the Pacific, 3 December 2024. www.unescap.org/sites/default/d8files/event-documents/Remittances_in_NCA_ENG_20241126.pdf.
“Financial Stability Review.” National Bank of Cambodia, 2014. https://www.nbc.gov.kh/download_files/publication/fsr_eng/FSR_2024_Final_250512@10am.pdf.
“From Remittances to Resilience: Harnessing Returning Migrant Workers for Cambodia’s Growth.” Yuanta Securities, 25 August 2025. https://yuantacambodia.com.kh/yuantaReport.php?Special%20Report&report=1126.
“Govt Provides Robust Assistance to 1.3 Million Migrant Workers.” Khmer Times, 11 July 2024. https://www.khmertimeskh.com/501521096/govt-provides-robust-assistance-to-1-3-million-migrant-workers.
Hatsukano, Naomi. 2019. “Returned Migrant Workers in Cambodia: Motivations for Moving and Economic Reintegration.” Institute of Developing Economies. https://www.ide.go.jp/library/English/Publish/Reports/Ec/pdf/201902_02_ch03.pdf.
“IMF Staff Completes 2025 Article IV Mission to Cambodia.” International Monetary Fund, 2 September 2025. https://www.imf.org/en/News/Articles/2025/09/02/pr-25287-cambodia-imf-staff-completes-2025-article-iv-mission.
“Over 220,000 Cambodian Returnee Workers Secure Jobs, Says Labour Minister.” Khmer Times, 13 September 2025. https://www.khmertimeskh.com/501756456/over-220000-cambodian-returnee-workers-secure-jobs-says-labour-minister/.
“Personal Remittances, Received (% of GDP)–Cambodia.” Work Bank Open Data. https://data.worldbank.org/indicator/BX.TRF.PWKR.DT.GD.ZS?locations=KH.
Sikol, Kuch. 2025. “Debt and Job Shortages Force Cambodian Workers to Return to Thailand.” Kiripost, 8 September 2025. https://kiripost.com/stories/debt-and-job-shortages-force-cambodian-workers-to-return-to-thailand.
“Transnational Crime in Southeast Asia: A Growing Threat to Global Peace and Security.” United States Institute of Peace, 13 May 2024. https://www.usip.org/publications/2024/05/transnational-crime-southeast-asia-growing-threat-global-peace-and-security.
Notes –
[1] これに関してはいくつかの研究がある(以下はその例)。 Schwartz, S. 2019. “Home, Again: Refugee Return and Post-Conflict Violence in Burundi.” International Security, 44 (2): 110–145; Wanki, P., I. Derluyn and I. Lietaert. 2022. “‘Let Them Make It Rain and Bling’: Unveiling Community Expectations towards Returned Migrants in Cameroon.” Societies,12(1).だが、これらの研究の多くは、出稼ぎ労働者ではなく、難民や国外追放者の再統合に焦点がある。また、多くの研究は、帰還による文化的懸念がほとんど無いカンボジアなどの単一民族・文化の国ではなく、民族的に多様な旧ユーゴスラビアや、アフリカ諸国などの国を焦点にしている。

