Krabi-Thailand-Muslim-Boys-KRSEA
Issue 27

イスラーム教とヤーウィ語 ―タイ深南部におけるマレー系アイデンティティの表現と推進のための領域

ファンク(Funk)(2013, p.15)によると、「アイデンティティとは、自己、あるいは集団、それ自身のあり方にまつわる概念だ」。アイデンティティはタイ深南部(パッタニ(Pattani)、ヤラー(Yala)、ナラティワート(Narathiwat)とソンクラー(Songkhla)の一部)において、タイ政府とマレー系武装勢力との長引く紛争の核心に横たわる。これは主要民族のタイ人とマイノリティであるマレー系住民との関係性も形成している。中央政府は長い間、主要民族であるタイ人の国民アイデンティティを推進し、タイ人の典型的な特質として、タイ人のエスニシティやタイ語、タイの歴史や仏教などを強調し、国民統合と強力な国造りを目指してきた(Abuza, 2009; Aphornsuvan, 2006; Chalk, 2008; McCargo, 2008, 2009; Melvin, 2007; NRC, 2006; Pitsuwan, 1982; Storey, 2007, 2008; Yusuf, 2006)。ところが、このようなタイ人的特質の強調は、非タイ人マイノリティ、とりわけタイ南部のマレー系マイノリティの周辺化をもたらした(Kelman, 2004)。この関係性の負の性質が、分離主義を目標としたマレー系武装勢力の活動を育んだと言う事もできる。 本論で焦点を当てるマレー系アイデンティティの肯定的な側面は、日常生活における宗教や文化の領域で実用的な役割を果たすもので、政治的独立を求める闘争とは距離を置いている。事実、この実用的な役割は、現在の政治情勢の中でマレー系アイデンティティの表現と推進を可能とする安全空間を代表するものだ。深南部におけるアイデンティティ表現のための二つの現代的な領域について論じる。それらは青少年活動、とりわけ、アイデンティティ推進に増々重要な役割を担うようになったオンライン空間での活動と、伝統的なタディカー(Tadika)というイスラーム教就学前教育施設である。 マレー系アイデンティティの表現と推進 マレー系アイデンティティの要となる構成要素は、主要民族タイ人のアイデンティティが、タイ民族の国家や仏教、王室を中心に形成されたのとは異なる(McCargo, 2012)。近年の実地調査から気付いた事は、マレー系住民が彼らのアイデンティティを定義する際に大抵、宗教と言語の二つの要素を根拠にしている事だ。まず、マレー系の情報提供者は、自分たちのアイデンティティの主な要素としてイスラーム教を挙げる事が最も一般的だ。イスラーム教の装いや身なりは特に強調される。これは深南部のマレー系住民の大半が、スンニ派イスラーム教徒である事を考えれば当然の事だ。 情報提供者の一人で、地元ジャーナリストのムハンマド(Muhammad)が言うように、他の二つの紛争要件である「土地とマレー人のエスニシティ」に比べれば、「宗教は紛争要件として最も脅威が少なく、国家から最も容認されている」。 事実、「エスニシティ」に対する明確な言及は、どの情報提供者の自己定義にも欠けていた。むしろ彼らは、現地語であるヤーウィ語が深南部のマレー系である事を示す重要な指標だと繰り返し述べた。 マレー系の人々が自らのアイデンティティを隠そうとする度合いは、国レベルでプラユット・チャンオーチャー将軍率いる軍部に支配された政権が続き、深南部では政策に対する軍部の統帥権と支配が続くにも関わらず、この数年の間に驚くほど低下した。だが、マレー系のアイデンティティが軍事政権下で興隆したからといって、驚くような事だろうか?第一、宗教の自由は最新の憲法で保証されており、その憲法の策定にはプラユットが力を貸したのである。第二に、プラユット将軍は「文化的多元主義」を宣言し、これを深南部での紛争解決の政策ガイドラインとしている(NSC, 2016)。この宗教の自由が改善された状況を称え、情報提供者の一人は「国家がさらなる空間を開放する(なら)」地域の人々は自分たちのマレー系アイデンティティを「自由に表現する」事ができると言った。 ヤーウィ語の使用とイスラーム教の服装は「もはや政府によって禁じられていない」どころか、一層推進され、「この4、5年のうちに、マレー系アイデンティティを特色付け、より強化する」事となった。 青少年活動は、このアイデンティティ空間の開放に特に良く反応し、イスラーム教とヤーウィ語の実践を推進する重要な機構となりつつある。マレー系の青少年(15歳から30歳)は、増々自分たちのアイデンティティを意識し、これを守る上で積極的な役割を果たすようになった。青少年団体はオンラインの文化的キャンペーンに携わり、何百人もの人々を動員し、彼らに特別な機会や宗教的祭事、例えばハリ・ラヤ(Hari Raya)祭という、アラビア語で「イード(Eid)」とも呼ばれるラマダーン明けの祭事などで、イスラーム教的な服を着用させた。 青少年の活動家たちは、ヤーウィ語のレベルや質が低い事にも懸念を示し、ヤーウィ語を使用できる地元民の数を増やそうとした。マレー系の人々のヤーウィ語使用能力には、大きく分けて三つの集団がある。一つ目のマレー系の大半の人々は、簡単な、あるいは「口語体」レベルのヤーウィ語が使用できると考えられる。つまり、彼らが話したり聞いたりする事のできるヤーウィ語の単語数は限られたものでしかない。二つ目の比較的少数集団であるマレー語の学者や研究者たちは、ローマ字綴りを書く事ができる。これは彼らがマレーシアかインドネシアのいずれかでマレー語を勉強し、正式な教育を受けたためだ。三つ目の最少集団は、大半が年配のマレー系有識者であり、(バハサ・マレーシアに対して)ヤーウィ語を話し、聞く能力に加え、ヤーウィ文字を書く能力がある。 青少年活動のダイナミクスは、デジタル・ネットワークやオンラインのプラットフォームに現れる。ヤーウィ語の独自性を守ろうと志すフリーランスのアーティスト、ディン(Ding)は、ヤーウィ語のコンピューター用無料フォントを作成したが、これは現時点では唯一入手可能なヤーウィ語フォントだ。彼のヤーウィ語フォントは大いにダウンロードされ、青少年や政府関係者、民間企業などによって使用されている。それはFacebookのページ、広告用のラベルや掲示板、看板などに見られる。また、ディンは友人たちと協力し、ヤーウィ語の辞書を作る取り組みの一環として、徐々にヤーウィ語の単語を収集している。さらに、ニュースや漫画のストーリーなど、ヤーウィ語のメディア素材の数も、オンラインサイト上で増加している。ムハンマドはこの理由について、「若者たちには異なるコミュニケーション手段があり、それらがより『オンライン』である一方、旧世代の活動家は『オン・グラウンドな手段』を発動させる事が多い」ためと説明した。 […]

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อัตลักษณ์ท้องถิ่น การเมืองระดับชาติและมรดกโลกในภาคเหนือของประเทศไทย

ในเดือนกุมภาพันธ์ 2558 คณะกรรมการแห่งชาติว่าด้วยอนุสัญญาคุ้มครองมรดกโลกแห่งประเทศไทยได้ยื่นขอขึ้นทะเบียนเมืองเชียงใหม่ให้อยู่ในรายชื่อมรดกโลกขององค์การยูเนสโก ระหว่างที่ยังอยู่ในบัญชีเบื้องต้นของกระบวนการพิจารณามรดกโลก กลุ่มขับเคลื่อนประเด็นนี้วางแผนที่จะยื่นเอกสารการขอพิจารณามรดกโลกรอบสุดท้ายในเร็ววัน เป็นไปได้ว่าน่าจะภายในปลายปี 2562  สำหรับทุกประเทศในเอเชียตะวันออกเฉียงใต้ การได้ขึ้นทะเบียนเป็นมรดกโลกมีแรงเย้ายวนใจหลายประการ เพราะมันให้คำมั่นสัญญาถึง “เกียรติภูมิทั้งระดับชาติและระหว่างประเทศ […] ความช่วยเหลือทางการเงินและ […] ผลดีในการยกระดับความตระหนักรู้ของสาธารณชน การท่องเที่ยวและการพัฒนาทางเศรษฐกิจ”  ในขณะที่แหล่งมรดกโลกของไทยแหล่งอื่นๆ เช่น สุโขทัยและอยุธยา ส่วนใหญ่มีความสำคัญในเชิงประวัติศาสตร์และอัตลักษณ์แห่งชาติ การยื่นขอขึ้นทะเบียนเมืองใหญ่ในภาคเหนือครั้งล่าสุดนี้ รวมทั้งความพยายามอื่นๆ ก่อนหน้านั้น สะท้อนอัตลักษณ์ท้องถิ่นและอัตลักษณ์ภูมิภาคเท่าๆ กับอัตลักษณ์แห่งชาติ สิ่งที่เป็นเดิมพันอยู่ตรงที่ชาวเมืองเหนือจะมีปฏิกิริยาอย่างไรในการหาทางคลี่คลายความตึงเครียดระหว่างความเป็นมรดกกับความเป็นย่าน (ชุมชน/ละแวกบ้าน) ดังที่ Mark Askew เคยชี้ให้เห็นว่าเกิดขึ้นในกรุงเทพเมื่อยุคทศวรรษ 1990  การยกย่องซากปรักหักพังที่ถูกทิ้งร้างให้มีสถานะระดับชาติและระดับโลกไม่ใช่เรื่องยาก แต่ในกรณีของเชียงใหม่ การขอขึ้นทะเบียนมรดกโลกมีการผสมผสานทั้งซากปรักหักพังทางกายภาพของอาณาจักรทางการเมืองในอดีตกับชุมชนที่ยังมีชีวิตอยู่ในปัจจุบัน  […]

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北部タイにおける地方アイデンティティ、国内政治と世界遺産

2015年2月、タイ世界遺産国家委員会(the Thailand National Committee for World Heritage)は、チェンマイ市をUNESCO世界遺産リストに登録するための申請を行った。 まだ暫定リストに載った段階ではあるが、組織委員会は最終的な推薦書類を近々、おそらくは2019年末に提出する計画だ。東南アジア各地において、世界遺産リスト登録の魅力は、これが「国内外に対する威信や…資金援助、…国民意識の高揚による潜在的利益、ツーリズム、そして経済発展を約束する」事にある。スコータイやアユタヤなど、タイの世界遺産は、主に国家のアイデンティティや歴史に基づくものであるが、 最近のタイ北部の申請や、これに先行するその他の試みは、地方、あるいは地域のアイデンティティを国家のアイデンティティと同程度に反映している。 ここで問題となるのは、マーク・アスキュー(Marc Askew)が1990年代のバンコクに見出したmoradok(遺産)とyarn(コミュニティあるいは周辺住民)の間の緊張に対する、北部のある種の反応だ。 荒廃した遺跡を国家的、世界的なステータスへと格上げする事は比較的容易であるが、チェンマイの場合、世界遺産の候補地は政治的な力を備えた過去の物的遺構であると同時に、人々が暮らすコミュニティでもある。このプロジェクトは北部の人々のアイデンティティと、北部と中央政府との関係にとって何を意味するのだろうか?現在も続くこの町の遺産保存の取り組みは、より古くからの、現代タイにおける地方アイデンティティのあゆみと、どう折り合いをつけるのだろうか? ラーンナー主義 チェンマイの申請には、この町の将来に様々な集団が利害関係を持つ結果を招く可能性がある。申請の背後にある集団には、熱心な若手建築家や都市計画担当者、学者らが含まれるが、彼らは大まかに言うと、ある種の「地方主義」を掲げる人々に相当する。チェンマイの場合、これは時にラーンナー主義(Lanna-ism)と呼ばれるが、この造語は16世紀までこの地方の大部分を支配した古代ラーンナー王国を引き合いに出し、「標準的な」バンコク、あるいは中部タイを基とするアイデンティティとは異なる地方アイデンティティに歴史的根拠を与えるものだ。 ラーンナー主義は、歴史上のラーンナー王国との実質的な関連性よりも、むしろ第二次世界大戦後のチェンマイやチェンライなどの都市における、地方の政治的、文化的アイデンティティ空間を要求する取り組みに由来する。北部での大学建設のための地域キャンペーン、ラーンナーの王たちのための記念像設置の要求、チェンマイ市全域でラーンナー文字が再び見られるようになった事、これらの全てがこの過程を示すものだ。チェンマイの都市遺産は、ラーンナー主義の形成と表現に常に重要な役割を果たしてきたが、これには市の中心部にある重要な空間がバンコク政府によって再構築、あるいは実質的には植民地化されたという事情もあり、また、ラーンナーの王たちと所縁のある寺院や宮殿(khum)の長い歴史もある。この町を世界遺産リストに加える事に成功すれば、ラーンナーのアイデンティティやラーンナー主義は、間違いなく国内外で存在感を高めるだろう。 ラーンナー主義のプロモーションは予想外の形をとった。キャンペーンの一端として、世界遺産作業部会はマスコット・デザインのコンテストを行ったが、結果はこの町の創設神話と深い関りを持つアルビノ鹿(fan phuak)を非常に可愛らしく表現したものとなった。このキャラクターはノンファン(Nong Fan)といって、チェンマイと世界遺産プロジェクト、そしておそらくは、ラーンナー主義そのものも象徴している。 候補地にはチェンマイ市内と周辺の歴史的に重要な遺跡が数多く含まれるが、重視されているものとしては、マンラーイ王朝の古代史や、チェンマイとシャムとの関りにおける「許容可能な」要素、特には寺院などがある。 だが、市の中心部には議論を呼び、プロジェクトの境界内に位置するのに、当初の候補には挙げられていなかった場所もある。市内中心部の二つの重要な博物館では、ラーンナー遺産の文化的アイデンティティの展示が行われているが、これらの博物館が入る歴史的建造物は、バンコク政府の国内植民地主義の中心的な建物であった政府庁舎(sala rathaban)と地方裁判所(san khwaeng)である。要するに、候補地の選定は、この町の植民地時代の中心部を再構築し、地方史をナショナリストの歴史叙述の許容枠に収まる限りにおいて紹介する場にしようと試みる、より大きなプロセスの一部なのだ。 タイ政府と歴史および遺産の限界 世界遺産のステータスは、地方のアイデンティティや文化、歴史に保存と推進の手段をもたらすものであるが、タイの場合、中央政府が支配する国家の制限内でこれに取り組む事を意味する。都市空間の中で地方史を記念しようとした過去の取り組みも、やはりタイ政府が構想したものである。例えば、有名な「三人の王(three kings)」のモニュメントは、チェンマイとラーンナーの建国王であるマンラーイの単独像から始められたものだが、中央政府が関与した途端、チェンマイとスコータイ両国の建国王を結びつけるモニュメントに変わり、それによって地方史を国史の範囲内にきっちりと収める事となった。 同様に、最近の世界遺産リストへの過程においても、中央と地方の間にひと悶着起きている。事の発端は2002年のチェンセーン(Chiang Saen)、ウィアン・クム・カーム(Wiang Kum Kam)、ランプーン(Lamphun)など、ラーンナー史と関りのある、より小規模な地域で、これらの全てには保存の必要と観光事業拡大の強い可能性があった。 2008年にはランプーンが世界遺産リスト登録の申請に乗り出した。 2010年には数名の学者たちが、チェンマイの最終申請のための準備を開始した。 この時点で国政が干渉してきた。UNESCO関連の活動が同年暮れに停止されたのは、プレアヴィヒア(Preah Vihear)の状況を巡り、紛争が勃発したためである。プレアヴィヒアは11世紀のクメール寺院で、タイとカンボジアの国境間に位置し、2008年に世界遺産リストに登録されていた。今なお続く同寺院とその隣接区域の領有権を巡る争いは、過剰なナショナリストによる抗議デモが、ついに2011年に現実の紛争を引き起こし、6月にはタイの代表団がこれに抗議してUNESCOを脱退する事となった。北部では、UNESCOのあらゆる申請業務が停止された。同年に自身がチェンマイ出身のコン・ムアン(khon muang)であるインラック・チナワット(Yingluck Shinawatra)の選挙が行われ、プロジェクトは急加速した。 […]

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อัตลักษณ์ชาติไทยกับอัตลักษณ์ล้านนาในภาคเหนือของประเทศไทย

เว็บไซท์ CIA’s World Factbook บรรยายว่าประเทศไทยเป็นประเทศชาติพันธุ์เดียว โดยมีสัดส่วนคนไทยถึง 95% ของประชากรทั้งหมด  จินตภาพนี้สอดคล้องอย่างยิ่งกับการปั้นแต่งลักษณะเด่นของประเทศไทยฉบับทางการที่ย้อนกลับไปตั้งแต่สมัยยุคปลายอาณานิคม  เมื่ออังกฤษกับฝรั่งเศสโอบล้อมสยาม (ชื่อเดิมของประเทศไทยจนถึงปี 2482) จากทุกด้าน ชนชั้นนำของสยามเริ่มอ้างว่ากลุ่มชาติพันธุ์ไทกลุ่มใหญ่ๆ ภายในอาณาบริเวณที่ตนครองอำนาจนั้นเป็นสมาชิกของกลุ่มชาติพันธุ์ไทยตามภาคต่างๆ ซึ่งถือเป็นส่วนหนึ่งของชาวสยาม  ดังนั้น คนลาวในที่ราบสูงโคราช (ทุกวันนี้มีสัดส่วนประมาณ 30% ของประชากร) จึงกลายเป็นชาวไทยภาคตะวันออกเฉียงเหนือ และคนลาวดำตามเทือกเขาทางภาคเหนือ (ทุกวันนี้มีสัดส่วนประมาณ 12% ของประชากร) จึงกลายเป็นคนไทยภาคเหนือ  โครงการชาตินิยมไทยเริ่มต้นจากจุดนี้ โดยเลียนแบบรัฐชาติยุโรปที่กำลังคุกคามพรมแดนของตน  การศึกษาภาคบังคับของภาครัฐเป็นเครื่องมือสำคัญเคียงคู่ไปกับการทำแผนที่ การรวมศูนย์ศาสนาพุทธและการโฆษณาชวนเชื่อระดับชาติ  หากจะหยิบยืมข้อเขียนอันมีชื่อเสียงของยูจีน เวเบอร์เกี่ยวกับพัฒนาการของลัทธิชาตินิยมฝรั่งเศส  กระบวนการนี้ก็คือการเปลี่ยนชาวนาให้เป็น “คนไทย” […]

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タイ北部におけるタイ国民のアイデンティティとラーンナー人アイデンティティ

CIAのワールド・ファクトブック(World Factbook)はタイについて、タイ人が人口の95%を占める民族的に均質な国と述べている。 このイメージは、植民地時代後期に遡るタイの公的特徴描写にぴったり沿ったものだ。イギリスとフランスがシャム(1939年以前のタイの呼称)を全面包囲すると、シャム人のエリートはその勢力範囲内の主要タイ系(Tai)民族集団を、シャム人の属するタイ人(Thai)民族集団の地方構成員と呼ぶようになった。こうして、コーラット(Khorat)高原のラーオ族(現在、人口の約30%を占める)はタイ東北人となり、北部山地のブラック・ラーオ族(Black Lao/現在、人口の約12%を占める)は北部タイ人となった。 以来、タイ・ナショナリズム計画は、タイ国境を脅かしたヨーロッパ国民国家諸国を模倣しながら進められる事となる。国家の道具たる普通教育と併せ、地図製作や仏教の中央集権化、そしてユージン・ウェーバー(Eugene Weber)のフランス・ナショナリズムの展開についての有名な研究論文の表現を借りると、農民をタイ人にするための国家的プロパガンダが行われた。 その120年後、タイ・ナショナリスト計画はどのくらい成功を収めたのだろうか? この疑問を北部タイのラーンナー人の民族集団において検討する。北部タイのラーンナー民族は約800万人、あるいはタイの人口の約12%を占める。 彼らが自分たちの呼称(ethnonym)として、より一般的に用いるのは、文字通り「ムアンの人々」を意味する「コム・ムアン(khonmueang)」だが、同集団はタイ・ユアン(Tai Yuan)、あるいは北部タイ人(Northern Thai)とも呼ばれる。各名称には具体的な歴史的起源と政治的な意味がある。事実、シャムがかつてのラーンナー王国領を1899年に初めて併合した時、シャム人エリートたちは彼らの事をラーオと呼んでいた。 ラーンナー民族のタイ国民のアイデンティティへの統合は、どのくらい成功しているのだろうか?彼らは自分たちの事をどの程度タイ人と見なし、また、その他のアイデンティティは、どの程度まで今も有効なのだろうか? この疑問への一つの答えは、ラーンナー人に対する一般的な考え方や認識から導くことができる。イサーン人の民族集団について、しばしばネガティブなステレオタイプがタイ社会に満ちているのとは異なり、ラーンナー人は穏やかで洗練された民族として描写される傾向にある。ラーンナー人には、イサーン人に対する近隣ラオスのラーオ族のような、国境地方で併存して暮らす民族がいない事も大きいだろう。これはおそらく、現在のタイ国境内にあった最初期のタイ族の諸王国が、ラーンナー領内に位置していた事と関係している。いずれにせよ、チェンマイはバンコク住民にとって理想の休暇先と考えられており、白く美しい肌や、穏やかな口調の方言、豊かな文化などが首都への土産話となっている。 本論はステレオタイプを超え、ラーンナー人のタイ人アイデンティティに関する疑問に答えを出そうとするものであり、そのために世界価値観調査(the World Values Survey /WVS))が実施した世論調査を参照している。また目下、著者が2015年から2019年の間に北部で行った3つの調査に関連したラーンナー文化プロジェクト(the Lanna Cultural Project /LCP)の結果も紹介する。 タイ国民のアイデンティティ タイで2007年と2013年の二度の周期で実施されたWVSの質問を用いる事にする。WVSでは、どの言語が家庭内で話されているかという、調査上、最良のエスニック・マーカー(ethnic marker)となる質問もされ、不完全とはいえ、優れた民族的アイデンティティの判断基準を提供している。この基準を用いる事で、タイにおける国民アイデンティティの強弱の差を分析する事ができる。図表1は「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問に対する民族別の結果を示すものだ。回答は既定の4段階評価に沿って行われ、1は「全く誇りに思わない」、4は「非常に誇りに思う」を意味する。大半の回答者が3、あるいは4と答え、全集団の平均値は3.5以上であった。中部タイ人(ないしシャム人)は、この国の主要民族であるが、誇りについての平均値は最も低かった。ラーンナー人は、2007年と2013年の調査を平均して最高値を示し、これに僅差でイサーン人が続いた。 同様の結果が見られたのは、回答者が自身をどの程度タイ国民と考えているかを判断する、もう一つの質問への回答で、これも4段階評価に基づくものだ。図表2から分かるのは、全集団の平均値が(3)の「そう思う」と(4)の「強くそう思う」の中間辺りにあるという事だ。この質問においても、ラーンナー人の平均値は最も高かった。 では、ラーンナー人のタイ人意識が最も強いと結論付けるべきなのだろうか?これら二つの質問において不明な事は、回答者がどのような文脈上で回答したのかという事だ。具体的には、回答者が誰、あるいは何を自分たちの比較対象にしたのか、という事だ。タイ人である事に誇りを持っていないのであれば、他のどのアイデンティティに誇りを持っているのか?同様に、タイ国民の一員でないのならば、他のどの国民の一員なのか?エスニシティの文献が長年に渡り、立証してきた事は、個人には同時に数多くのアイデンティティがあり、それぞれのアイデンティティが全般、個別の二つの文脈の中で優位を巡って競合しているという事だ。ラーンナー人のタイ人意識が最も強いと単純に結論付ける事の複雑さを説明するため、WVSの質問をもう一つ紹介しよう。この質問は回答者がどの程度、自分たちを地域コミュニティの一員と考えているかを問うものだ。WVSでは、自分をタイ国民の一員だと思うか、という質問の直後にこの問いが来る。図表3はこれらの結果を示すものだが、ラーンナー人が再び最上位の結果となり、彼らが国民的、地域的アイデンティティの両方に最も強い意識を持つ事が示された。だが、これらの結果をどのように解釈するべきだろうか?この結果を不可解とする者もいる。タイ人アイデンティティの意識が最も強い集団なら、地域的アイデンティティの意識は最も弱いはずではないのか?これは何を意味するのだろうか? WVSは国民アイデンティティや民族的アイデンティティに関する疑問の分析を意図したものでは無く、ここからタイの諸民族集団がタイ人の国民アイデンティティ、あるいはラーンナー人のアイデンティティについて、どう感じているのかを読み取る事には限界がある。そこで、筆者はこれらの疑問をより深く掘り下げるべく、2015年から3つの調査を行ってきた。まず、「タイ人である事をどのくらい誇りに思いますか?」という質問を繰り返す事で、望ましさのバイアス(the desirability bias)とWVSの質問の段階評価の限界に対処した。まず回答者には、彼らの誇りのレベルをタイ人の平均値と比較するよう依頼し、タイ人の平均値が段階評価の中程であった事を伝えた。これは回答者が誇りのレベルに関して、低い絶対値をさらけ出す事なく、より低い相対値を示しやすくするためだ。タイには強い社会的プレッシャーがあり、高いレベルのナショナリズムを示す事が求められるが、相対値の低さは必ずしも絶対値の低さに結びつくものではない。こうする事で、望ましさのバイアスを最小限に抑えた。質問に対する二つ目の調整は、単純に回答幅を拡大する事で、ここでは4段階から10段階評価にまで拡げた。図表5はこの結果を示すものだ。11.82%の人々のみが、タイ人である事を誇りに思う気持ちが平均的な人と同じレベルだと考えていた。その他の約15%は、平均的な人よりも誇りに思うレベルが低いと考えている。低い事に変わりはないが、これらの結果から分かる事は、WVSの結果が示すよりも、はるかに大きなばらつきがあるという事だ。WVSの結果では、回答者の0.54%のみが「あまり誇りに思わない」、あるいは「全く誇りに思わない」と述べていた。残る73%はタイ人である事を誇りに思う気持ちが、平均的な人のレベルよりも高いと考え、自らを最高の段階評価に位置付けた者は、WVSの調査では95.70%であったのに対し、13.69%のみであった。この調査は、北部タイのラーンナー地方に限定されたものであったため、現段階でこれを他の民族集団と比較する事は出来ない。だが、質問に手を加えた事で、ラーンナー人のタイ人アイデンティティの強さに、より大きなばらつきがある事が分かった。   ラーンナー人のアイデンティティとラーンナー・ナショナリズム 次は、ラーンナー人がWVSにおいて最も強い国民的・地域的アイデンティティを有するという難題に目を向けよう。LCPの二つ目の質問は、回答者に自分たちのタイ人アイデンティティを地域的アイデンティティに比較するよう尋ねるものだ。回答者には6つの異なるアイデンティティを提示し、これに対して1から6までの順位をつけるよう頼んだ。1位は最も重要な位置づけを示す。表1は、それぞれのアイデンティティの平均順位を示す。タイ人アイデンティティは概して最も高い順位であり、41.88%がこれを1位とし、全体平均順位では2.37である事が分かる。回答者には、三つの異なる民族的・地域的アイデンティティの選択肢を与えた。それらは北部、ラーンナーとチェンマイだ。これら三つの地域的アイデンティティを合わせると、43.56%という割合で一位となった。 三つのアイデンティティを比較すると、北部は二番目に高い平均順位であるが、ラーンナーとチェンマイのアイデンティティは、いずれもより高い頻度で一位となった。また、この三つの民族的・地域的アイデンティティの平均は、どれもほぼ同じであった。この事が示していると考えられるのは、一つの民族名称を他の名称よりも好む者があったとしても、平均的に見ると、これらの名称は大いに置き換えが可能であるという事だ。 表1. […]

Issue 26

Black Site Thailand: Cold War Political Legacies

A striking aspect of reporting on the Central Intelligence Agency’s (CIA) “black site” in Thailand was Human Rights Watch researcher Sunai Phasuk’s comment that Thai military and police had adopted the black site’s torture techniques: […]

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คุกลับประเทศไทย: มรดกทางการเมืองจากยุคสงครามเย็น

แง่มุมหนึ่งที่น่าสนใจในรายงานข่าวเกี่ยวกับ “คุกลับ” ของสำนักข่าวกรองกลาง (ซีไอเอ) ในประเทศไทยก็คือ นายสุณัย ผาสุก นักวิจัยองค์กร Human Rights Watch แสดงความคิดเห็นว่า กองทัพและตำรวจไทยรับเอาเทคนิคการทรมานของคุกลับมาใช้  “เราไม่เคยได้ยินวิธีการทรมานแบบวอเตอร์บอร์ดดิงมาก่อน….จนกระทั่งหลังจากปี 2547 หรือ 2548 ที่วิธีการนี้เพิ่งถูกนำมาใช้ที่นี่” (Los Angeles Times, April 22, 2018)  นี่ไม่ใช่ครั้งแรกที่ปฏิบัติการของสหรัฐอเมริกาทิ้ง “มรดก” สำคัญไว้ให้ประเทศไทย  การเป็นพันธมิตรกันระหว่างสหรัฐอเมริกากับไทยในช่วงสงครามเย็นสร้างผลกระทบกว้างไกลต่อการเมืองและสถาบันการเมืองของประเทศไทยมายาวนาน พันธมิตรในช่วงสงครามเย็นก่อตั้งขึ้นท่ามกลางบริบทของการต่อสู้ทางการเมืองหลากหลายฟากฝ่าย ซึ่งสะท้อนความขัดแย้งที่กำลังก่อตัวจนกลายเป็นสงครามเย็น  ในประเทศไทย ความพัวพันอย่างลึกซึ้งกับสหรัฐอเมริการ้อยรัดกับสงครามการเมืองภายในประเทศที่ต่อกรกันระหว่างฝ่ายสนับสนุนการปฏิวัติ 2475 กับฝ่ายนิยมกษัตริย์ Darling […]

Issue 26

ブラック・サイト、タイ:冷戦の政治的遺産

タイにおける中央情報局(CIA)の「ブラック・サイト」に関する報告の衝撃的な局面の一つは、ヒューマン・ライツ・ウォッチ(Human Rights Watch)の研究者、Sunai Phasukのコメントである。これによるとタイの国軍と警察は、ブラック・サイトの拷問技術を導入していた。「水責めは前代未聞だった…2004年か2005年以降に初めて、これがここで用いられるようになった」(Los Angeles Times, April 22, 2018)。米国の軍事行動がタイにとって重大な「遺産」となったのは、これが初めての事ではない。米国とタイの冷戦同盟は、タイの政治とその政治制度に広範な影響を及ぼしてきた。 この冷戦同盟が確立された背景に、冷戦対立の高まりを反映した複数の政治紛争があった。タイでは、米国との深い関わり合いに、1932年革命の推進者とその反対派である王政主義者との間の国内の政治闘争が絡み合っていた。 第二次世界大戦後の米国タイ大使が、全て熱心な反共産主義者であったことを見極めたのはDarling (1965, 104-105)だが、彼は、大使たちが「自分の政府と国民を助け、この国の安全保障上の深刻な脅威だと感じている問題を重視する、という善意しかもっていなかった」とも断言している。CIAと国務省の当時の記録文書が示すところによると、「善意」を定義するのは「共産主義の侵略」に対する闘いの中で、タイが確実な冷戦同盟国となることだった。 米国・タイの冷戦関係における3つの相関点は、いかに「善意」が軍事的権威主義を支持するために用いられたかを示している。軍事政権へのこの安定した支持は、プリディ・パノムヨン(Pridi Phanomyong)との以前の同盟の撤回と、彼の自由タイ運動(Free Thai)支持者の政治的な壊滅を、基礎としていた。この過程で、米国とバンコクの軍事政権は、プリディと自由タイ運動の拠点である東北地方が、共産主義者のイレデンティスト(irredentist:領土回復主義者)の危険な温床であると見なした。こうした干渉のいずれもが、タイ政治に深い影響を及ぼしてきた。 プリディ:同盟者から敵へ 第二次世界大戦中、高名な法学者にして、1932年の絶対王政打倒の立案者、自由タイ運動地下組織の指導者、そして摂政でもあったプリディは、タイで米国が最も信頼を置く同盟者だった。米国は1946年に彼の協力の見返りとして自由勲章(the Medal of Freedom)を与えている。しかし、彼には、社会主義と経済ナショナリズム、急進的な反植民地主義についての疑問が浮上してくる(Thanet 1987; Goscha 1999)。 タイの王政主義者たちはそのような疑念をしきりに煽り立てた。プリディに対する積年の不満から、彼らはプリディが共和制主義者で「ボルシェビキ(共産党員)」であると、繰り返し言い立てた。米国は当初、王政主義者の策略を退けたが、戦略諜報局(OSS)そして後のCIAの報告書は、次第にプリディの思想に疑念を抱かせるような王政主義者の談話や「機密情報」を描いていく。1946年のアーナンダ・マヒドン(Ananda Mahidol)国王の謎の死をめぐって政治が混乱する中で、1947年にプリディ政権を失脚させたクーデターの直前に、自由タイ運動と共産主義を結びつける情報機関の報告書が拡散される。Fineman(1997, 36)が明らかにした通り、アメリカはクーデター実行者が「罰を受けずに選挙によるプリディの政府を転覆させること」を事実上認めた。王政主義者から国王の死に関与したと非難され、また1949年の反クーデターの失敗から政府と米国の敵と非難されたプリディは、生涯にわたる亡命生活に入った。 1947年のクーデターの後、タイの新たな軍首脳はこのクーデターが共和制主義者と共産主義者、すなわち、プリディと自由タイ運動に対するものであったとアメリカ大使館に正式に発表した。CIAの報告書(1948a)は、プリディが「共産主義者で、現政府の転覆を謀っている」と非難している。この米国のクーデター支持は、米国がタイの政治的安定を強く望んでいたこと、そして米国がタイや東南アジアでの共産主義の進出に対する民主的な対抗手段が無いと判断したことを反映していた。このような見解が暴力的な軍事政権との同盟を許容させたのだ。 1949年の末にプリディが中国に亡命する中で、CIAの報告書は繰り返し、プリディを中国共産党やピブーン(Phibun)政権打倒の動きと関連付けた。一つの報告書はプリディを侵略計画と破壊工作、東北部の共産主義本部、さらには中国政府の支援を受けたピブーン政権攪乱と結び付けている(CIA 1950)。 同盟者から共産主義の脅威となるまでのプリディの米国にとっての遍歴は、タイ政治にとって何を意味するのだろうか?当然、プリディ自身の政治活動が彼の失脚の一因ではある。彼の政敵は彼より上手だったということだ。それでも、米国がプリディに見切りをつけたことは、王政主義者にとって大きな政治的勝利を意味した。ピブーンは、反王政主義者であるにもかかわらず王政主義者と結託し、プリディの政治運動による非軍事的で民主的な体制という選択肢を根絶する。 プリディの政治的破綻は、タイの軍事支配に対する主な反対勢力が、1940年代の末には相当弱体化されていたことを意味した。これが米国にとっては好都合だった。戦時中の同盟者を見限ることで、王政主義の政治家と、強力な政治機構としての王室の政治的基盤の再活性化の準備となった。米国が手に入れたものは、同盟者としての安定した軍事政権と、冷戦工作のための東南アジア本土の基地であった。 東北部からの脅威 プリディの自由タイ運動支持者を追放するため、政府と米国は彼らを共産主義に関連付けたが、この結び付けは米国受けするものだった。米国の公式な文書や政策において、プリディと自由タイ運動、野党の政治家をベトミンや東北部のベトナム人政治難民の共産主義に関連付けたものが積み上がることになる。 戦後、武器貿易などのタイのベトミンへの支援が広く知られることとなった。実際、反植民地主義とフランス人への蔑視によって、この支援は政治的分裂を越えるものとなったのである。Goscha […]