タイにおける君主制の将来

David Streckfuss

          
タイにおける君主制の将来

 いかなる君主制の未来も、その現王権の強弱、そして次期王位継承の行方によって、少なくともある程度が決められる。殊に、現代のタイではこれが真実である。タイでは、現国王のプーミポン・アドゥンラヤデートの在位期間が、世界に現存する君主制中で最長となった。彼が王位に就いた1946年は、絶対王制の崩壊からわずかに14年後の事であり、王室は新たな政治勢力のため、その威光を失いかけていた。1960年代までには、王政主義者達がタイ軍と結び、王政のための経済基盤を再確保、王室を再度神聖化する事に成功した。1973年と1992年に、国王が反専制政治のデモに対する軍事暴力を終わらせるため仲裁に入った事は、国王の役目を危機の際の最終権威として確立した。

 大きく報じられた国王の農村地域訪問、さらには、無数の王室プロジェクトが地方の貧困緩和のためにタイ全土で行われた事により、国王が民に貢献するために人生を捧げていると考えられたのである。国王の評判を高めたものは、彼の世界記録を破るような最多の名誉学位や発明の特許、さらには芸術や音楽、著述の高い才能であった。国王の即位60周年を記念する2006年6月の祭典は、国王の統治上最高の功績のようであった。何百万というタイ市民たちがバンコクへなだれ込み、祝祭に参加した。各国の王族や要人たちも、タイに馳せ参じ、この式典に加わったのである。当時、君臨するプーミポン国王は、その遺産を確立したようであった。

 ところが、2006年9月の軍事クーデターは、民主的に選ばれ、非常に人気の高かったタクシン・チナワット政権を排除し、全てを変えてしまった。過去40年間に王宮が行ってきた選択の累積的影響が、突如、王室の正体を暴いたのである。国王は個人的に幅広い支持を得ているが、ここで論じられる事は、制度としての君主制がその人気と正当性の両方において、これまでになく不振であるという事だ。

 プーミポン国王統治の遺産は、ほんの数年間でどのように、ここまで浪費され尽くしてしまったのだろう。その答えは、タイの君主制の将来について多くを語ってくれる。王位継承問題を顧みる事もなく、君主政を名目上支持する諸勢力自身が、君主政を危機的状況に置いたのである。王位継承という深刻な問題が、このように弱体化した制度にのしかかれば、結果は悲惨なものとなるだろう。吉か凶か、プーミポン国王の長期の統治がタイの君主制を定義するようになった。彼の統治のもと、数多くの内部要因が、制度としての君主制の長期存続の可能性を強めたり弱めたりする傾向にある。

King's Standard of Thailand. This flag was first adopted by King Vajiravudh in 1910.
King’s Standard of Thailand. This flag was first adopted by King Vajiravudh in 1910.

 君主政にまつわる諸機関を、国民たちの(相対的に)より厳しい目にさらす事は、全体として君主政を強化してきた。枢密院や王室財産局は、研究者たちにある程度までのアクセスを許可している。王宮は新たな、比較的偏りの少ない国王の伝記に協力しようと開放的な様子で、その伝記には、以前ならタブーであった不敬罪 1をテーマとする章までが含まれる。また、政府のインターネット検閲は、日々何千という君主制批判の内容を持つウェブページへのアクセスを制限しており、ウィキリークスのタイ関連の外交公電の多くのページなどがその対象となる一方、若干の批判的なオンライン文献、例えばAndrew MacGregor Marshallの“Thailand’s Moment of Truth” 2 などへのアクセスは制限されていない。また最近では、政府予算にオンラインでアクセスする事が可能となり、王室への割り当てや、国家元首の経費などは、一定の詳細であればアクセス可能である。今回の開示が、フォーブス誌が国王を世界一裕福な王族にリストアップし、その「個人資産」を300億ドルと見積もった事など、海外の報道に誘発されたものであったとしても、結果的に生じた対話は、君主政を全体的に強化している。

 しかし結局のところ、制度としての君主制は、特に過去10年間で多くの理由から大幅に弱体化した。まずは、プーミポン国王個人がタイ王座の具現者となった事である。単に統治期間が長いせいか、あるいは王宮の継続的な広報活動のせいか、国王は上手く個人崇拝の対象となった。この事の欠点は、国王個人がより活躍し、その善行が描かれるほどに、制度としての君主制が増々弱体化してゆく事である。国王の人柄が極めて人気の高いものである事に疑念の余地はない。だが、彼の個人的な人気が、王室に付される正当性に変換されるとは限らないのである。事実はその逆が真実であろう。多くのタイ人にとって「国王への忠誠」は、現国王の御代に限られたものであろう。王宮は、国王が国民と個人的に結びついているというイメージを築き上げ、彼の神聖な地位を強調し、王室を国家の精神的支柱とする事に成功した。しかしこの種の成功は、どのような王位継承者にも、否応なく不利に作用するものである。

 第二に「王宮」は、もはや「国王」と同義ではない。McCargoが「ネットワーク王政 (network monarchy)」と呼んだものを構築するとき、国王(と王宮)は数多くの機会に直接介入を行ったが、その最も顕著な例が1973年と1992年 3 であった。国王はまた、1957年から1991年の間のクーデターの中で、最低でも6回のクーデターを是認している。1992年から2005年にかけてネットワーク王政は、その手法を「洗練させ」、民主主義的な機構や首相たちをさりげなく損ね、王室を「選挙に基づく民主主義に代わり得る正当性の根拠」 4 と描いた。しかし、2000年から進行中の国王の健康問題は、ネットワーク王政における国王の役割を減じる事となった。国王の不在中に、各自「王宮」の一部である「分立する勢力の中軸」が出現した事は、以下のウィキリークス外交公電に記された通りである。

 多くの観測筋は、しばしば、タイ王室を統一され、団結した機関であるかのように述べ、また、「王宮」を簡略表現として、「ホワイトハウス」や「ダウニング街10番地」と同じように、はっきりと定義され、明示された権力の中枢の喩えとして用いる。しかし、いずれの表現も現在のタイの事情においては、実に的外れなものである。

 事実、タイ王室の周辺には複数の有力者集団や影響圏が存在する。それらは多くの場合、ほとんど一致せず、競合する意図を持ち、長年の物理的分裂や中心人物たちの間の煮え切らない関係が、これを増幅させている。分裂した影響圏、あるいは有力者集団の中心には、プーミポン国王、シリキット王妃、ワチラーロンコーン皇太子、シリントーン王女、そして枢密院が存在する… 5

 国王が2006年のクーデターに反対していれば、と多くの情報筋が述べるようであるが、彼はそれを支持した王宮の誰かを阻止出来なかった、あるいは阻止する意図がなかったのだ。ほとんどのウィキリークス公電が、シリキット王妃と枢密院議長のプレーム・ティンスーラ―ノンを、このクーデターの主導者として指摘している。これと同じ王宮派閥の一部が、民主市民連合(PAD)のデモ参加者たちを支援したのである。2008年のこの運動は、選挙で選ばれたタクシン支持者たちが率いる政府を妨害、打倒せんとするものであった。中には、国王がクーデターの発起人たちから、クーデターを承認するよう圧力をかけられたと論じる者もあるが、王妃が警察との衝突で死亡したPADのデモ参加者の葬儀に参列した事については、そのような事は言えまい。

The Chakri Mahaprasat, inside the Grand Palace in Bangkok, the Dynastic seat and official residence of the Chakri Monarchs.
The Chakri Mahaprasat, inside the Grand Palace in Bangkok, the Dynastic seat and official residence of the Chakri Monarchs.

 第三に、不敬罪法の乱用が君主制に痛手を与えた。この法律は常に表現の自由を制限してきたが、少なくとも1990年代と2000年代の初頭には、比較的、事例数が少なかった。ヨーロッパの諸王室は、君主制に対する国民の意識を測るため、頻繁に行われる世論調査の恩恵を受けている。不敬罪法が、そのような世論調査を行えなくしているのだ。この法律がタイ王室から奪ってしまったものは、高まる民主主義的情勢の中で、王室をより正当なものとして位置づける上で役立つであろう、意見や批評なのである。文面上では、この法律は王や王妃、法定推定相続人や摂政を保護するものであるが、実際には、その他の王族メンバーたちをも保護してきたようである。この法律の擁護者たちは、この法律の規定する保護を、枢密院のメンバーたちにまで拡大せんと試みてきた。誰もが告発可能であるという事は、対立相手に用いる便利な武器となった。また、この法律は、曖昧な事でも有名であり、法廷はこれを幅広く解釈してきた。この法律が刑法の国家安全保障条項に含まれる事から、基本的権利である保釈などは、通常、被告人には適応されない。しかし最大の痛手は、その刑の重さと前代未聞の事例数である。一件の告発に対する最高刑は15年で、これは世界各地と比べても、少なくとも過去一世紀では群を抜いて重い刑である。この事例数は1992年から2004年の年間平均であった5件から、2010年には478件という高い値に急上昇した。この法律の改正を提案する者たちは、強制追放されたり、暴行を受けたり、命を脅かされたりしている。

 最後に、王室の置かれた政治状況を一転させた要因がもう一つ存在する。現在の御代の晩年における最も重大な変化は、深くて広い政治意識の発達が、タイ市民全体に生じた事である。ネットワーク王政は2006年のクーデターにも、タイ史上の過去の全てのクーデターと同様の対処を行った。すなわち、クーデターは王室から是認され、クーデターの発起人たちは政治家の腐敗や君主政への脅威を理由に、クーデターを公然と正当化し、恩赦が出され、やがてクーデターは最終的に忘れられてしまったのである。

 しかし、新たな政治意識を持った市民たちは、クーデターを忘れなかった。反独裁民主主義統一戦線(UDD、あるいは「赤いシャツ」)は、クーデターの効力を取り消そうと引き続き結成している。彼らは新しい、より民主的な憲法を作成し、恩赦条項を削除し、クーデターの発起人達を起訴する事で、このクーデターが直接のきっかけとなった法的措置や訴訟を再考しようとしている。この運動は「覚醒」、あるいは「開かれた目」(ta sawang)として知られる現象を引き起こした。インターネット網を通じ、あるいはデモでの口伝えによって、目覚めたものたちは王室の役割を開かれた目で見つめ、この制度に対する本格的な歴史、政治的批判を行ってきた。暗号化された言葉の表現によって逮捕を免れ、この運動は王宮が繰り返してきた司法機関や枢密院、一部の王族メンバーたちを通じた国民主権妨害の企てに対し、何の幻想も抱いていない。

The Royal Barge Procession in 2005.
The Royal Barge Procession in 2005.

 2008年10月に王妃がPADのデモ参加者の葬儀を主宰した事は、「赤いシャツ」にとっては特に腹立たしい出来事であったが、新たに目覚めたもの達はこれを忘れるよりも、この日を「覚醒の日」 6 と名付けたのである。王族の一人が、ここまであからさまに一方に肩入れをする事によって、王宮はすっかり中立を装う事が出来なくなってしまった。このマイナス・イメージは、2010年5月に「赤いシャツ」が政府軍によって殺された際、王室が干渉しない事を選んだ事により悪化した。何よりも、2008年には行動し、2010年には行動しないという決定が知られるようになった事が、タイ君主制の終焉を意味するようになった 7。王宮のクーデターへの積極的関与、政争で王室メンバーが一方に肩入れしている状況、不敬罪法の乱用、さらには国王が巨万の富を持つという認識まで、これら全てが君主制の正当性を著しく低下させ、その将来を重大な危機にさらしている。

 だが、ラーマ9世の統治における最大の失敗は、王宮が確たる王位継承の筋書を用意できない事であろう。国王は、1980年代後半に彼が考えていたとおり退位し、その変遷を自ら見守るどころか、その座にとどまっている 8。公式にはワチラーロンコーン王子が、国王の定めによって、1972年に皇太子となった。ところが、過去10年のうちに国王の健康状態は悪化し、王子のイメージを回復させる努力は失敗、さらには王宮の内部抗争の増加により、他の王位継承の筋書が浮かび上がってきたのである。これまで王位継承が問題となった事は、今日タイに生きる人々の記憶の限り存在しない。したがって、これらの筋書には多くの「法的」余白がある。それらは主に「次期統治への移行を操作せんと」試みるやもしれぬ、枢密院に関するものである 9

 例えば、もし国王が死亡するような事になれば、枢密院と首相の法的地位は曖昧となる。国王の死に際し、プレームが自動的に摂政になるという解釈も可能である。摂政として、彼は最初に1924年の王位継承法を改正し、枢密院が別の継承者、おそらくはシリントーン王女を指名する事ができるようにするかもしれない。あるいは、王位継承者の名を国会へ申し送るにあたって、不特定の服喪期間を呼びかける事で、これを遅らせるかもしれない 10。もしくは、この方法がうまくいかない場合、国家安全や君主制保護などを理由に正当化されたクーデターが待ち受けているかもしれない。そのクーデターは国会を廃し、軍部が事実上、王位継承者を指名できるようにする、あるいは少なくとも、その過程を遅らせる事となるだろう。それとも、もう一つの筋書は、王妃が病床の国王から摂政に任じられるように動き、国王が亡くなれば、そのままその地位にとどまるかもしれぬというものである。

 これらの筋書は、いずれも君主政に大した正当性を添えるものではない。いくらか成功の可能性がある唯一のシナリオは、プーミポンの希望通りにワチラーロンコーンが王となり、彼が自分の行いを改め、王政ネットワークや不敬罪法を廃絶する機をとらえ、現代世界に存在する他の立憲君主制と同じ方法で統治する事である。これ以外の筋書は、ほぼ確実に最悪の事態を招くであろう。すなわち、枢密院のいかなる試みも、国王の選択を変えようとするものは、王室の正当性をさらに損ねる事となろう。プレームや王妃を摂政に据えるような動きは全て大きな反対を受け、その結果、君主政は完全に廃止される事になるだろう。

 結局、タイにおける君主政の存続は、正当性の問題次第となるだろう。現在の御代が育んできた価値体系や権益は、国民主権の対局にあり、世界の民主的立憲君主制とは相容れぬものである。それは一貫して民主的に選ばれた政府を損ね、先見の明の無さを公式声明やその活動の中に表してきた。それは民主的に選ばれた政府の転覆を支持し、承認してきたのである。抑圧的な不敬罪法がその名のもとで利用される事を許し、超王制主義者たちの極端な政策にあまりにも近く寄り添ってきた。また、それは現在統治する国王のイメージをこれ程まで築き上げてしまったため、王位継承者はこれと比べて、継承が不可能だと思う事であろう。最後に、その手筈が不適切であるために、王位継承問題までが、魅力的であっても危険な代替案の伴う危うき問題となってしまった。要するに、それは君主制を民主的なタイの、民主的な価値観に調和させる事に失敗したのである。

 現在の御代が継承者に伝えるものは、衰弱し、派閥に分かれ、行くべき道筋も判然としない制度である。

David Streckfuss
Honorary fellow, University of Wisconsin-Madison

Kyoto Review of Southeast Asia. Issue 13 (March 2013). Monarchies in Southeast Asia

Notes:

  1. Nicholas Grossman and Dominic Faulder (editors), King Bhumibol Adulyadej: A Life’s Work (Singapore: Editions Didier Millet, 2012).
  2. <http://www.zenjournalist.com/wp-content/uploads/2011/06/thaistory1.1.pdf>.
  3. Duncan McCargo, “Network Monarchy and Legitimacy Crises”, The Pacific Review, vol. 18, no. 4 (December 2005), p. 501.
  4. Thongchai Winichakul, “Toppling Democracy”, Journal of Contemporary Asia, vol. 38, no. 1 (February 2008).
  5. <wikileaks.org/cable/2009/11/09BANGKOK2967.html>.
  6. Thongchai Winichakul, “The Monarchy and Anti-Monarchy: Two Elephants in the Room of Thai Politics and the State of Denial”, edited by Pavin Chachavalpongpun, in “Good Coup” Gone Bad: Thailand’s Political Developments since Thaksin’s Downfall, (Singapore: Institute of Southeast Asian Studies, forthcoming, 2013), Chapter 4.
  7. U.S. Ambassador Eric John described the Queen’s action as a “disastrous decision” that was “universally seen as dragging the monarchy, which is supposed to remain above politics, into the partisan fray”, in <wikileaks.org/cable/2009/11/09BANGKOK2967.html>.
  8. Paul Handley, The King Never Smiles, (New Haven: Yale University Press, 2006), pp. 315-24.
  9.  Michael J. Montesano, “Contextualizing the Pattaya Summit Debacle: Four April Days, Four Thai Pathologies,” Contemporary Southeast Asia, vol. 31, no. 2 (2009), p. 233.
  10. Shawn W. Crispin, “Thaksin tests Thailand’s deal”, Asia Times, 23 September 2011 <http://www.atimes.com/atimes/Southeast_Asia/MI23Ae01.html>.